2005年03月31日

雪国ライダー

東京が漸く開花宣言が出たとの事だ。でも毎朝6時すぎに家を出るとはっきりと寒く、ハリスツイードジャケットにオックスフォードのボタンダウン、コーデュロイのパンツに、まだマフラーは必要だ。日中はオフィスから外に出ないので暖かいのかさっぱりわからない。

ただ北海道はまだ雪が降る日も多いらしく、春の雪とはいえ、まだまだ冬といった感じかもしれない。今年の冬のシーズンは、例年行っていた北海道も、犬の骨折リハビリの為に中止してしまい、冬旨い寿司も、六花亭のケーキも、ぱんちょうの豚丼も食べられず悔しい思いをしている。

冬の北海道を舞台にといえば、以前友人が多数、バイクで旅をしていた。少なくとも知っているだけで8人は知っている。殆どが今では使われていないスパイクを履かせ、轍や路肩に積もる雪に前後をふられながら、緊張感と共に走っていた。私もやってみたくて色々と調べてみたが、自分には無理だという事と、周囲に迷惑をかけそうだ、という事で断念した。しかし、車でキャンプ旅に行ったことはある。2005年2月17日の日記にも書いた通りである。

冬に車で走ったのは、自分の車で1度、レンタカーで4~5度(あまり憶えていない)なのだが、全て4駆+スタッドレスだった。その時にもバイクでのツーリストは何度か見た事がある。

こんな環境でも、職業ライダーはしっかりとバイクを走らせている。アイスバーンだろうが湿雪だろうが、彼らのダイナミックなライディングには、拍手を送りたくなる。こういう環境が数カ月続く北海道は、特殊なのかもしれないが、環境にあわせていろいろと工夫をする人間はやはり面白いものだ。

一度キャンプをしていた浜小清水前浜キャンプ場の駐車場で、スタッドレス仕様のセローを友人に乗させてもらったが、面白いように普通に運転ができた。アクセルターンも簡単にでき、ただ普通に走っていてもフロントやリアが大きく振られる事があり、気が抜けないのは確かだ。バイクをコントロールするだけでなく、接近してくる対向車や追い抜いて行く車に気を配りながら、ある程度ペースが高い国道を走るには、やはり相当疲れそうだというのも、実感できた。

写真は網走郊外にある、やまね工房前の脇道へ、ドリフトをかけながら登っていく郵便配達のカブ乗り。このあと、リアが大きく振られ、ヒルクライムなみの斜度のある細い道を登り、配達後すぐにUターンし、イン側の足をモトクロスの乗り方よろしく突き出し、大きくリアを滑らしながら走り去っていった。

みていた私は、思わず「おー」と口に出し、拍手してしまった。ニヤリと郵便配達の男は笑ったような気がした。彼らにとって、この季節は辛いのだろうが、その厳しい環境の中で生き生きと暮らしているような気がする。

そろそろ、この雪もとけ、本格的な春に向けて北海道も動き出す頃だ。

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2005年03月30日

異国でのカツ丼

海外に行くと、よく日本の味が懐かしくなる、という事を聞く。

私も事実そんなに長期間、バックパッカーをした事はない。せいぜい2週間強といった所だ。そういう時はできるだけ現地の食事を食べるが、日本料理よりもワールドワイドでほっとできる味は、実は中華料理だったりする。そう、日本料理はたらめな味付けであったりする可能性も少なくないのだが、中華はどの国で食べても大抵中華なのだ。偉大なり中華料理。

私はカツ丼が好きだ。日本の味と言える醤油、味醂、砂糖、そしてお酒といった主要調味料を使う、俗に言う玉子とじカツ丼と、カツライスをそのまま丼飯に持ったソースカツ丼とどちらかといえば、前者がやはりベースだ。

カツは自分で揚げていると結構疲れる。料理は嫌いじゃないが、片づけるのが時間かかる料理はあまり好きではない。元々キャンパー料理である。洗い物を最低限で、盛りつけなんかどうでもいいという意味では、丼料理に相通じるものがあるのかもしれない。

さて、ヨーロッパは4カ国(トランジットを入れれば6カ国)、アジアは4カ国をバックパックに荷物を入れて旅をした事があるのだが、その中で日本食の思い出をひとつ。いろいろあるのだか、とりあえず今回は中国南部の雲南省であった話。

雲南省の昆明には、実はJAS(現JAL)が関空(関西国際空港)から直行便が飛んでいる。ネパールのカトマンドゥにも、RA(ロイヤルネパールエアライン)の直行便が飛んでいるが、少しでも安い航路という事で、UA(ユナイテッド)とTG(タイ国際航空)をバンコク経由で乗り継いで行ったが、雲南へは日系航空会社で安心の航路となった。

昆明をベースに、是非いきたかった麗江と大理をゆっくりと楽しんだのだが、バックパッカーズパラダイスと呼ばれる大理には太白楼というカツ丼が素晴らしく旨い店があるという話を聴いてから、是非行ってみたかった。定期購読している旅行人という冊子の読者の間でも大理のカツ丼の話は有名なのだ。

この話を知ったのは、以前地平線会議という団体で、ボランティアで本を作るのに協力したり、若い冒険家の裏方でPCのサポートやウェブサイトの作成・運営をやっていた頃。アドベンチャーサイクリストの安東浩正さんと知り合った。というか、代表の江本さんに紹介され、挨拶しただけなのだが。その前から、安東さんの素晴らしい冒険の本、チベットの白き道を読んでいて、この太白楼のカツ丼の話が出ていたのだった。

実際に麗江から大理に移動し、町に入ると、暗いイメージだった。バックパッカーの姿も少ない。しかし、この大理滞在中に私は太白楼とチベタン・カフェで念願のカツ丼を食べたが、味付けや米の炊き方などに差はあれど、あっぱれなカツ丼だった。こんな所でこのような味に出会えた事は、少々感動ものだった。

大理はその名の通り、大理石の採掘で有名だ。13世紀まで大理王国の都だった大理古城や風光明媚なジ海、歴史的な建築物である三塔寺など歴史もある町だが、何より雲南ならではの少数民族が純粋な漢民族と違った伝統や文化を持って生活している。ペー族のテリトリーになるここ大理は、日本語が使えるネットカフェもある、バックパッカーの集まる町でもある。

しかし私は帰国前日になって酷い風邪をひき、逃げるように帰国した。帰国したあと、会社に復帰できず、続けてまた1週間、休んでしまったというオチがある。

これが憧れの太白楼カツ丼。是非、ご賞味あれ。

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2005年03月29日

レイン・ラン

旅をしていると、雨の日も当然ある。

期間的に余裕があれば、移動を中止してテントの中で本を読んだり、音楽を聴いたり、ときにはフライシートを叩く雨音を聴きつつ、昼寝をしたりするのだが、どうしても移動しなければならない時は、撤収に時間をかけて、完全装備で走り出さねばならない。

ロングツーリングで雨に降られる事は少なくない。その中で、過酷な状況という例で言えば、台風の中オホーツクの海岸線を走ったり、室戸岬を超えたりした事もあった。しかし不思議とそういう時はそんなに憂鬱な気分ではないものだ。

これでもか、と雨が降る日に、移動を初めてしまえば、案外ヤケになっていつしか笑みが浮かんでいる事もある。大声で笑いながら、土砂降りの中を奇声をあげながら走ると、妙に気分もすっきりするものだ。

雨の四万十川の河原、口屋内でテントを張っていた時は、折り畳み傘を差して沈下橋を渡り、雑貨屋に意味もなく買い物に行ったりした。上富良野では朝からの雨で諦め、やはり傘を差して駅前の銭湯までいき昼間から風呂に入り、そのまま勢いで1駅、富良野まで電車に乗り食事をして帰ってきた。その地でぶらりと散歩をする時は、雨でも楽しめたりする。

一度走り出すと、休憩するのが億劫になる。お店になんか入ろうものなら、軒を探してレインウェアをはぎ取り、レイングラブを取るのだが、手がかじかみ髪はベッタリでとても屋内に入るには度胸がいる。完全装備とはいいつつ、完全に防水は現実にはできない。必ず隙間から、結露して内側から濡れてしまうものだから、湿り方はどうしようもない。

一昨年の夏、雨が降っていたが、幌加内のそばが食べたくて美瑛から朱鞠内に移動した。道の駅ほろかないに併設されていた温泉で2時間ほど時間をかけて体を温めた。またレインウェア着るのが嫌だったが、普通のお店に入るよりも格段にリラックスできた。

この写真は、天塩付近のぼろぼろのバス停。殆ど3時間走りっぱなしで冷えきった体をどこかで温めたかった。北海道を走った事がある人ならお分かりの通り、海岸線というのは北海道は率直に北国の厳しいイメージで、さびれた番屋や、防風の為の色が抜けきってすっかりモノクロになってしまった板が打ちつけてある壁のようなものが点在している中、民家が申し訳なさそうにポツポツと建っていたりする。その中にまさに風景に溶け込むように建っていたガラス窓さえついていないバス停で休憩を取った。

扉も窓も素通しのこのバス停で、ガソリンストーブに火をつけて手を温めた。雨が横殴りに吹き込んでくるが、少しづつ感覚が戻ってくる。

外には申し訳ないが中に入れられない、私の愛車、SRX-4が窓から見える。しみじみと相棒の写真を1枚、撮った。

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2005年03月28日

丘の表情

1986年夏。この頃私は大学生活を送り、アルバイトとツーリングに明け暮れていた。そして高校時代から温めていた日本縦断に出る為に、着々と準備を進めていた。

夏休みをフルに使い、いやフルどころかオーバーしながらの約2カ月間、すっかり旅の中に身をまかせた。別に長い期間ではない。友人にはそれこそ4月から10月までずっと丘の上でテントを一度も張りなおさずにキャンプ生活をしていたり、それこそ渡りのように何年も旅を続ける知り合いも少なくはない。

こうしている今も、定職に就かず、あの頃みんなが持っていた旅人の精神を保ったまま、生活している友人もいる位だ。私はそれこそそれまでの人生で、同じ考えを持つ友人を持った事がなかった。上っ面だけではなく、そう、ポリシーとも言えるもの。その波長があう人々と大勢出会う事ができたのは、ロングツーリングに出たからだとも言える。

7月の下旬、前期試験が終わった翌日に有明埠頭にレザージャケットを荷物に積んだSRX-4と共に居た。丁度台風が来ていて、通常48時間で到着する予定だった那覇には、56時間を費やして夜に到着。いきなり銀マットを敷いてゴロ寝をした那覇新港。レザージャケットはこれから少しづつ北上し、9月に北海道を走る為のものだった。

正直、沖縄・九州・東北以外はあまりウェイトを置いていなかった。早く北海道に入りたい、早く丘に上がって、ほっとしたいと思っていたのかもしれない。でも途中、球磨川の支流で泳いだり、山口で味のある喫茶店で1日ゆっくりと過ごしたり、九頭竜湖の近くの清流の美しさと静けさに日が暮れるのも忘れて座り込んでしまったり、乳頭温泉郷のダートの奥の秘湯でランプ照らす露天風呂から天の川を見上げたり、いろいろな素晴らしい出来事や出会いがあったのも事実だ。

北海道へ向かう足を早めさせたのは、やはり私に何かを与えてくれる地なのだろう。全都道府県を走破する事で、その気持ちを確かめたかった。少なくとも日本をこの目で一通りみておきたかった。海外にいずれ行く時が来ても、日本を知らない日本人ではいたくなかった、と偉そうな事を当時言っていたが、本気でそう思っていた。

函館から北海道に入った後、それまでよりもゆっくりとしたペースで、時計まわりにゆっくりと道東に入った。中標津にはまだその当時、道々をよく知らず、国道沿い(今はバイパスが国道になり、町中を貫く道は道々になってしまっている)のコスモ石油の十字路を曲がり、町役場を抜け、中標津空港沿いから左手前方に開陽台をかすかにみながら向かう。

沖縄から走り続けてきた私にとって、目的地が近づく。空は去年と同様、どんよりとしていた。まだ晴れた開陽台を見た事がないが、高揚しつつ細い丘へ登る道を上がっていくと、そのままトイレ横の側道に乗り入れ、一気に丘の上まであがる。

丘の上はやはり霧に包まれていた。しっとりと芝を濡らし、霧が生き物のように流れる中、残念な気持ちでテントを早々に設営し、荷物を放り込み、まだ昼過ぎだというのに長旅の疲れも溜まっていたせいか、眠ってしまった。

しばらくして、テントを設営していた時に少し話をした旅人がテントを叩いて私を起こした。今自分がどこにいるのかがわからないまま、出てこいという言葉のままテントから外に出てみて唖然とした。

空は真っ赤に焼け、素晴らしい夕陽だった。雲が輝き、武佐岳が照らされ、オホーツクまや根釧原野まで視界がひろがり、見事なまでの夕陽だった。太陽が西別岳の向こうに消え、星空が少しづつと現れてくるドラマティックな景色を、ずっと立ち尽くして眺めていた。

あたりは真っ暗になり、漸く知り合った旅人たちとまともな会話を交わしはじめた。ランタンを灯し、電線ロールのテーブルでささやかな食事をしながら旅人同士のありきたりな会話を楽しんだ。この時間がやっぱり心地よい。この場所が私にとって何より大事なんじゃないかと思いはじめていた。

ふと空を見上げると、恐ろしいと思えるばかりの星空。雲ひとつない星空で生まれて初めて見たもの。それは地平線から地平線へ続く、天の川。プラネタリウムではない、まさに今この目でみている星空が教えてくれるものは、この満天に輝く星のひとつに私も居るという事だ。ランタンを思わず消した。

丘に吹く風は、霧を飛ばし、夕陽と星空を連れてきてくれたのだ。

翌朝、太陽が国後の端から登るとテントが蒸し風呂になる。フライシートをあけ、ピーク1に火を入れ、コーヒーを沸かす。湯気の先に、輝くオホーツクと国境が霞んでみえた。

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2005年03月27日

丘に風が吹く

この週末は、土曜が午前中は犬の病院で、昼からは仕事で家に籠もっていた。今日は朝、廃品回収がまわってきたので古いテレビとS-VHSのビデオデッキ、そして300dpiのフラットベッドスキャナを引き取ってもらった。テレビはリサイクル料金がかかる為、この手のがまわってくると便利だ。

お昼から久しぶりに私も犬の散歩に出る。暖かく、そろそろ桜でも咲き始めているかと思い、カメラも持ち出したが、こぶしの花は満開で桜はまだ早かったようだ。来週末くらいにはそろそろ撮影ができるかもしれない。

散歩コースは近所の公園がパターンなのだが、まだ骨折が治っておらず、ギプスをしたまま軽い散歩だけ。でも数枚写真は撮ってきた。思いっきり走っている姿や、花と一緒の写真を撮りたいが…

前置きは長くなったが、このブログを書き始めて漸く車歴シリーズが終了した。あらためて数えてみると12台。24年間で12台は多いか少ないか。しかし走破距離は随分ばらつきがある。私はロングツーリングが何よりも好きで、日帰りとか足がわりにバイクを使う事はめったにない。都内を走っていても何も楽しくないからだ。

バイクに乗り始めて、丹沢や房総から始まり、関東近郊の林道を日帰りから1~2泊の日程でツーリングをしていたが、ロングツーリングを初めて行ったのが浪人時代、四国一周だった。その翌年、北海道をソロで走り、それからというものの北海道の魅力にまいってしまった。

北海道は広く、旅人は自分のお気に入りの場所を見つける事で、何度も北海道を訪れるようになるようだった。私は最初から中標津町のはずれにある丘、開陽台を目指していた。駐車場までは曇っていただけだったが、その先長い階段を登っていくと、9月の冷たい霧に包まれた。

その時、旧展望台であるカメハウスの屋上、錆びた手すりから霧の中を眺めている時、丘に吹いた風が一瞬霧を流し、その隙間からずっと先まで広がる根釧原野が望めた。

ゾっとした。鳥肌がたった。寒いからではない。その現れ方が衝撃だった。

その日は丘を下ると同時に下界でも霧と小雨に包まれ、知床にフロントを向ける。しかし、ずっとさっき見た地平線まで続きそうな景色が気になった。来年、もしも来れたら晴れるまで居よう。そう思いつつ、灰色の空と海を右手に見ながら羅臼方面に走った。

その日は天気は回復せず、知床横断道路を雨の中ハイペースでがむしゃらに走り、知床峠で少し雨が止んでほっとした時、体は冷えきって手でイグニッションを切る手も震えていた。

その後12日間ほど北海道を巡った。天気にはあまり恵まれなかったが、私を北海道に引きつけるには十分の旅となった。多くの出会いもあり、まだカニ族と言われるバックパッカーやユースを巡る旅人たちも多く、ミツバチ族とその後言われるバイクの旅人は、その後数年増え続けていった。私もその時代を旅した一人なのである。

写真はまだ駐車場に手すりもない開陽台で。
これから少しづつ、丘と、丘に吹く風について、書いていきたい。

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2005年03月26日

長い付き合い(12台目)

私の車歴の最後、という事は現在所有しているものとなる。
Cub90DXもまだガレージに眠っているが、やはり北海道へのロングツーリングには、こちらが現実的だ。

これを購入したのは1997年の夏。これまで必ず自分の好みにあわせて手を入れていたのだが、このバイクはどこにも手を入れる必要がないとも言える程、私のツーリングスタイルに合っていたという事だ。

カタログスペックでは乾燥重量はXRなみに軽く、燃料タンクも17L。幅広のシートと標準装備のキャリアでリアには荷物を安定して積める。ヘッドライトは手を入れる必要がない位明るく、ガードもついていた。ハンドルガードも十分な強度であり、サスも劣る所はなかった。

しかしさすがスズキとも言える所が沢山出てくる。純正オプションでもボルト穴があわない、デジタルメーターの液晶が半分表示されなくなり交換を迫られたり、ツメがあまいというか、品質はどうしても何か足らないというのも現実に起こった。

よくできている。それが感想なのだがやはりトルク感のないエンジンフィール、軽快感のないハンドリング、渋滞で腱鞘炎になりそうな程の強制開閉キャブのスロットルワークなど、物足りなさが目立ってきているのも事実である。

とはいえもう9年目の相棒。これまで以上に長いのは、乗る機会が明らかに減っているのと、欲しいバイクがあっても保管する場所がない状況が、このバイクのままでいいという気持ちを変えないのかもしれない。

つい先日、友人からXR600Rを7万円で譲ってくれるという話があり、相当に揺らいでしまった。結局は悩んでいるうちに他人の手に渡ってしまったのだが、正直な所XR600Rは魅力がある。でも私はこいつでいい、と思う気持ちもあるようだ。

もうしばらく相棒として旅をする事になるだろう。旅をするバイクとしては今でも、非常に高い評価を私が持っているのは確かなのだから。

いろいろなバイクに乗ってきた。メーカーにこだわる事も、一度でも乗ってみる事でそれなりの評価をしてきたつもりだ。結論としては、どのメーカーも味があり、決して劣るというものでもない。

ここ最近はバイクはミドルスクーター以外は殆ど売れないというマーケットのようだが、旅をする若者も、ツーリングに出る若者も減ったように思える。非常にもったいない事だ。私は今でも、もっともっと旅をしたかったと思っている。日本縦断をしても、北海道に20年、毎年必ず1度以上は訪れているといっても、まだまだ足らない。もっともっと旅をしたかった。そしてこれからももっと旅をしたいと思っている。

同じような思いを持っている旅人やバイク乗りはいる。そしてその中で私と出会う相手というのは、実は偶然の出会いではなく、必然だという持論を持つまでに至った。それは旅の中で出会うエピソードが、自然に確信に導いてくれた。

旅をしよう。相棒(信じられるバイク)と共に。

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2005年03月25日

世界に誇る名車(11台目)

1985年から北海道は開陽台にあがるという事が、旅のひとつの目的となった。

私のウェブサイトのテーマとなっている丘に吹く風、というのがまさにここでの日々の事だ。このテーマについては、何度書いても書き足りない程の思い入れがあるのも確かだ。そして、そんな事を、既に20年近く続けてきたが、昨年とうとう1度も丘に上がらないという年があった。

丘にはいろいろなテーマがあった。その中で、1986年に突如として駐車場の一角にレンガ色の建物が建った。それが、多くの人が開陽台に訪れると足を向ける、ハイジーの家という喫茶店の話も長くなる。

ハイジーの家は冬の間はお休みになる。その1シーズンのお疲れ会を兼ねて、閉店パーティなるものが毎年この建物で行われてきた。今でこそオーナーのかあさんの旦那さんが経営する工場でそれは変わらず行われているが、武佐サマに初雪が降る頃、その閉店に立ち会うべくこの時期だけ集まる旅人もいる。

展望台が新たになり、ハイジーの家が無くなるという話が、ある年常連のキャンパーの中で話題になり、それは事実とはちょっと違ったのだが、東京にいる皆で、これはいかねばなるまいという話になり、釧路行きの飛行機を取り、10月末に行ったこともあった。

そのあたりから、バイクで秋の道東を走りたくなった。しかし、その時期に1週間の休みはなかなか取れない。という事で、私が何十回も利用した航路、東京(有明)-釧路のフェリーに無人車でバイクを乗せ、釧路行きの飛行機で人間は移動し、釧路西港でバイクを引き取り、R272を通って丘にあがるというツーリングを考えた。

しかしフルサイズのバイクを持っていく必要はないし、小排気量車にも興味があった時期だったせいか、友人が乗っていたCT110やMD90、Cub90CUSTOMなど以前から気になっていたカブ系が欲しくなった。そうすれば、会社帰りに船に乗せ、会社帰りに引き取って帰る事ができる。

いろいろ考えた挙げ句、やはりクラッシックかつトラディショナルな現行モデルのデラックス、それも90ccのモデルである、Cub90DXを手に入れ、キャリア上にはポリカーボネイト製の割れにくいボックスをボルトで固定した。またリアサスにはレーシングショックを入れ、ミラーはラジカルミラーをつけてみた。

結果的に秋の北海道を2度、夏の北海道を1度カブで走った。アベレージが高い北海道の国道でも、しっかり流れに乗れるパフォーマンスを持ったCub90DXは、思いの外、大排気量やハイパワーに慣れた体でも楽しく旅をする事ができた。

この時は友人の結婚式が和琴で行われる前日。そう、忘れもしないハイジーの家が新展望台の中に入って初めての年、1995年の7月。

かあさんはいろいろ周辺で調整が続き疲れ果てていた。私はやっぱり新しくなった開陽台に馴染めず、本当は1泊していくつもりだったのだが、どうしても荷物を下ろす気になれなかった。そんな私をみて、かあさんはとても悲しそうだった。ごめん、と何度も謝った。自分の中の整理がつくのか、この時はわからなかった。

しかしその1カ月後、XR250Rで再訪した時に私は数日この丘で過ごした。その気持ちの変わりようは何だったのか。それは、やはり私と同じようにこの丘を愛する旅人の友人がこう言ったからだった。

「うん、やっぱりここはいい所だ」

そうなんだよ。やっぱりいい所なんだよ。武佐サマも、景色も変わらない。

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2005年03月24日

ビッグオフロード(10台目)

ネパールネタが続いたので、またバイクに少し話を戻そうと思う。
あと私の車歴もちょっとになった。

バブル当時、埼玉のガレージに3台のバイクが格納されていた。KDX200SR-G1、GSX750S-1、GPz900R-A7、どれも黒い車体だった。維持費も大きく負担が大きい事もあり、1台で全てまかなえる車種を選ぼうとしていた所、雑誌でKLX650Rがスッパ抜かれた。

少し前からやはりいずれはXR600Rと思っていた。その暴力的なパフォーマンスは十分に承知していたが、それがカワサキから出るという事は、カワサキ好きな私として見逃す訳がなかった。しかし、完全なるレーサーはシートレールの強度も、一般道を走る状況も考えると、どうしてもロングツーリングには決心がいかなかった。

そんな時、KLX650Rの兄弟車、KLX650というRがつかないモデルがある事がわかった。ましてや、黒があるという。これは決まりかもしれない。

当時行きつけだったモトショップ世田谷で注文したのだが、3カ月経っても入ってこない。待ちに待ってやってきた直後、丁度立ち上げから少々関係してきたアウトライダーパティオのオフがあった事から、100kmも走っていない新車で参加した。

オフの内容は佐野ラーメンを食べる事なのだが、プレオフとして当時それなりに有名だった100km林道を走り、1泊バンガローに泊まり、翌日ラーメンを食べて帰るというようなものだった。

バイク屋に納品されたKLX650は、いたる所で驚きがあった。いや、驚きというか、あきれるというか。少々憤慨していたというのが正確かもしれない。KLX650はKLX650Rとはまったく別のバイクだったのだ。車重も30kgも重く、リアサスはリザーバータンクだと思っていた部分がそれっぽく見せた工具入れだったり、ミッションもまったく別。正直ショックだった。しかしロングツーリングという場ではまあそれなりにデザインも乗り心地も悪くないのは確かだった。

林道では装飾された保安部品やメーターまわりの重さや振動がうっとうしかった。その上ギア比がうまくつながらない。暴力的なパワーだったはずの650ccシングルは、とてもマイルドな味付けになっていた。

このバイクではその重さにふりまわされてしまい、今までハマった事のなかった開陽台の側道で見事にスタックし、T塾長に助けて貰うなど情けない状況に陥ったのが思い出される。でも積載性もよく、結局こいつで2度、北海道を走ったという事から、私は結構気に入っていたのかもしれない。

やっぱり600ccクラスのオフ車は、XRが一番魅力があるというのは間違いないが、デザインや味はやはりカワサキの方が私には合っているのかもしれない。

ダートでアクセルをワイドオープンし、後ろがあばれているようなシーンが気持ちいいのだが、実際は荷物満載でそんな走りはまずしない。

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2005年03月23日

愛するコロラ

ネパールネタをもうひとつ。

ネパール人はものを大事に使う。インド人もそうなのかもしれないが、私はインドには行ったことがないからわからない。

バイクで一番メジャーな車種は、インド製で、ヤマハと技術提携して作られたエスコット100。形もエンジンも私はRD90がベースではないかと思った。ただ、妙なのはエンジンガード。極端に張り出したステンレスパイプの大げさなものが取り付けられているケースがよく見受けられた。

また車は1970年代のトヨタが、30年近く経ったあとの1998年前後にもまだまだ現役だった。当然排ガス規制も入っていない、鉛の入ったガソリンで動くエンジンが搭載されているモデルだ。このエンジンが吐き出す黒煙やインド製や中国製のトラックなど、体に有害とされる排気ガスをまき散らしてカトマンドゥは世界有数の大気汚染が進んだ町とも言われてしまっている。反面、この古いカローラやスプリンターが現役で活躍しているのを見て、あらためて日本の工業製品の優秀さを感じてしまった。

ネパールではこれらの車にタクシーとかいう文字が書かれている訳ではない。車を持っていれば、いつでも気が向けばタクシードライバーになるものらしい。試しに車が走っていて手をあげれば、停まってくれるとの事だ。値段は当然、カトマンドゥ市内にその頃走り初めていたメータータクシーのような装置はなく、交渉次第だった。

現地では基本的には路線バスで動いていたのだが、さすがにポイントでタクシーを使った。移動中に周囲に何もない所でエンジンが停まり、ノープロブレムと言いつつボンネットを開けてしばらくしていたが、戻るなり、ガス欠だったという事を言うとおもむろに走り出した事もあった。どこからガソリンを調達したのか謎だ。

また、道ばたにドライブシャフトが折れて、車の下にぶらさがっていた車も、下に人がもぐるなりまた走り去っていったり、どんな故障が起こっても、修理工でもないのにその場で治してしまうのも別に普通の事のようだった。

中古、それもボロボロのカローラでも、彼らにとってそう簡単に手に入れる事はできない。即金で買ったというような人はまずみかけなかった。乗りながら、タクシーをしながらお金を支払い続けている、という人が殆どだった。世界でも最貧の国に属する彼らだが、笑顔と心からの親切はとてもそうは思えなかった。

あのそびえるヒマール、高低差が6000m以上ある山々が見下ろす町で、今もきっと毎日を幸せに暮らしているのだろうか。チベット仏教と神々しい山々が与えてくれる豊かさ、貧しさよりも心の豊かさが勝る人々の住む国へ、また行きたい。

彼らの「コロラ」という車の呼び方ひとつとっても、気持ちを和やかにさせてくれる。

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2005年03月22日

異国でのくつろげる時間

ポカラの話が出たので、もう1つ。

ネパールでは今、ギャネンドラ国王を中心にした国政に問題があるようで、混沌としている。私が訪れた時は平和そのものだった。しかし、現国王がクーデターを起こし、新国王となってから、ネパール人の友人もあまりいい事を言わない。

私たちはネパールはポカラで、一人のネパール人と出会った。日本語が堪能で、とにかく親切。まあネパール人は殆どが親切だというのが実感なのだが、それまでタイでぼったくられたり、ガイドに載っていた手とまったく同じ詐欺をかけられそうになったり、相当警戒心が強くなっていた。

しかし、思い起こしてみれば、トリブヴァン空港から外にでると、いきなり大勢のネパール人に囲まれて身動きが取れなくなった。当然荷物をガードし、ノーといいつつ、国内便(この時、ポカラに飛行機で移動しようとした)のターミナルに向かおうとするが、「タクシー」「ホテル」という単語の中に「いいホテルあるよ」「安いタクシーあるよ」などの日本語も聞こえた。その時、1人のしつこい若者にザックをもっていかれたのであわてて私はずっと確保していたのだが、本当に単に国内便ターミナルまで無料で荷物をもってくれただけだった。

殆ど人の家の裏庭のようなポカラ空港のターミナルのゲートを抜けると、5人のネパール人が客引きに来た。もともと事前に調べていて、ダムサイドに歩いて向かったのだが、「遠い」「タクシー乗れ」などの客引きから、ホテルの部屋の写真をアルバムに入れて見せるものや、身分証明書のようなものを見せるものなど、多種多様だった。その中で1人、ちょっと離れた所でずっとついてきて、静かな日本語でポツポツと話かけてくるものがいた。

それがゴビンダさんだった。あとから知ったのだが、ゴビンダという名前はとても多く、日本でいう佐藤なみのようなメジャーネームだったようだ。しかし彼と私たちはこれがきっかけで友人になった。

彼は2度のポカラ滞在の間、親身になって世話をしてくれた。とはいえずっとべったりしていた訳ではなく、ポイントでとても頼りになり、またお金も余分に取る事はなかった。彼と出会えた事で、ポカラ滞在は数倍楽しいものになったのは確かである。

翌年の2度目のポカラでは何も連絡しないで、同じ名前のだがまったく別人のゴビンダくんという若い客引きに紹介してもらったレイクサイドのホテルに泊まったのだが、友人の方のゴビンダさんの事を話すと、翌日にはその話が伝わったらしく、本人がホテルに訪れてくれた。再会を私たちは喜んだが、彼は幸せそうな笑顔で日本人の女性と結婚をする事を嬉しそうに話してくれた。

ポカラでの滞在はとてもヒマラヤの麓の異国という感じではなく、もうすっかり懐かしい場所というような印象に変わっていった。おまけに日本で知り合った友人と翌日、中華料理屋で再会し、サランコットで新年を迎えようという計画があった事もあり、すっかり気分的にも落ち着きはらった休日を風光明媚なこの地で過ごした。

ある日の朝食。ペワ湖を臨むすっかりリゾートな雰囲気のテーブル。ここでもジャーマンベーカリーのシナモンロールがあって美味しく頂いた。好物のひとつなのだ。

旅に出たい。あの見上げると輝かんばかりの氷河が空に浮かぶ、ヒマラヤの麓に。

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2005年03月21日

お寺巡り

今まさに友人がバンコクにいる。

とはいえ、古い開陽台の旅仲間が、もう長い事バンコク市内に住んでいるのもいるのだが、その友人は旅人としてこの3連休+αで旅をしている。彼は毎回旅先から手紙や電話、そしてお土産を届けてくれる。ありがたい事だ。

チャオプラヤー川の上、船からワット・アルンを撮影した映像が、リアルタイムで携帯に届いた。今は3Gの携帯ならこのような事も可能だ。携帯電話おそるべし。そういえば、中国は蘭州やモンゴルから国際電話がかかってきた時も、携帯電話の着信表示は「表示不可能」だった。

バンコクはトランジットでの1泊も加えると、6回程行っている事になるが、大抵日本は寒い時期なのであの蒸し暑さでぐったりしてしまう。安い飛行機だと大抵夜に到着するのだが、真冬の装備で向かうと湿度たっぷりで30度以上の気温が迎えてくれる。日が登ればさもありなん、といった所だ。

でもアジアに旅すると、遺跡やお寺をみてまわる事が楽しいのも確かだ。タイではまだバンコク近郊しかいったことがないが、中国でも台湾でもネパールでも、お寺は文化や宗教を感じるにはとてもよい場所だ。

ある年の日本でいう年末年始にネパールに行った。丁度ポカラで遅い朝御飯をダムサイドのジャーマンベーカリーで食べている時、バイクのパレードが目の前を通っていった。きいてみるとグルン族のお祭りがあるらしい。暇にまかせて場所をきき、ふらふらと町はずれまで行ってみると、その殆ど暴走族のようなバイクの集団がとあるお寺の前で停まっていた。どうやらそのお寺が会場らしい。

周囲を見回しても外国人は私たちだけしかいない。200~300人位が集まっているのだろうか、とにかく広いグラウンドのような所に大勢が思い思いの場所で食べたり歌ったり踊ったりしていた。傍らにあるお寺に入り、みようみまねでマニ車をまわしたり、カタを買って捧げたりして外に出ると、演奏をしながら踊っている集団があった。

そのリズムとメロディがとても心地よく、近くでぼーっとみていると、おばちゃんが駆け寄ってきて私たちの手を取り、壇上にあげられてしまった。そして、手拍子とサーランギが演奏する音楽で踊らされた。

いつまでも終わらない音楽だったが、とにかく私たちも現地の人も笑っていた。拍手をされて踊りが終わった時、なまりがあってよくわからないが、英語でお寺の修繕の為の寄付をと言われたので、幾ばくかのお金を渡すと、また踊りが始まった。何だか寄付の為なのかどうなのかわからないが、でも皆すごく無邪気な笑顔だった。

マイクで名前を聴かれた時に、どこから来たのかと言われ、日本と答えると、「オー、ブッディスト」と大声で言われ、また拍手がおこった。そうなのだ、真面目に接しているわけではないが、日本人は仏教徒として、彼らにとっても親しみ深い人種でもあるのだ。この時の事を今でも少し考える。チベットやネパールなどの人に同じ仏教徒と言われても、申し訳ない位に無知であるのは自分でよくわかっている。

その後、とりまとめをしているような身なりのいいグルカ帽をかぶったおじさんが、ダルバートをおごってくれた。もっと食え、と、どんどんよそわれた。座る場所も探してくれたり、大歓迎されてしまった。たいした寄付金も出してないが、私たちは楽しいひとときを過ごした。

写真はネパールで有名なカトマンドゥのモンキー・テンプル、スワナンブヤート。ここは強烈な階段の先にある。

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2005年03月20日

自分にあわせるために

今日は朝から仕事。ぜんぜん終わらないので、明日も仕事の予定。まだかかりそうだ。

昨日とうってかわって、どんよりとした空で少々肌寒い。昨日はいい天気だったので、お彼岸という事もあり墓参に行ってきた。車でいけばすぐなのだが、実家によったり定期通院があったりで自転車で行った。

マウンテンバイクにロードタイヤを履かせたタイプなのだが、結構ボロボロである。腐ってもプジョーなのだが、所詮廉価モデル。シマノのディレーラも安いタイプだし、錆びている。手入れもあまりしていないせいもあるのだが…

体調が完全に復活していないせいもあるが、自転車で青梅街道を車の流れをリードしながら走るのは辛い。途中から歩道をテレテレと走る。こういう時にバイクが手元にあれば便利だと思うのだが…都心にはバイクの置き場所すら自由にならないものだ。まあ遠慮もなく、危険な停め方をして歩行者の迷惑をかけて平気なガキも多いのも事実だが…

昨日に続いてモンスターの話。

私はエンジンパワーとディメンションは、基本設計が1981年頃のモデルなのだからあまり高い期待はしていなかった。その頃最速だと言われていたZZ-R1100C1は、確かに私のニンジャと比べてもニューモデルに間違いはなかった。フレーム剛性、エンジン特性、ブレーキ、ライポジなどよくなっているのは認めていた。しかしニンジャを選んだのは個人的な思い入れだった。

当時世界最速を目指して作られたニンジャ。今思えば貧弱なスチールのダイヤモンドフレームに、新設計の水冷900ccのエンジン、フロントフォークのプアーさをAVDSという機構でフォローし、細いスイングアームにフロント16インチという時代を感じさせるハンドリングだった。それがA7になって、少しだけマシになった。

ラジアルタイヤ、フロントフォークなど剛性をあげたり、フロントを17インチにアップ。AVDSの撤去とニッシンの4podキャリパが奢られたが、その他は特に変更はないため、フレームまわりの弱さやポジションの無理さがどうしても気になった。

スーパーバイクレースの影響か、殆どのカスタニンジャがパイプハンドルに変更されてた。確かに乗りやすい。でも私はハンドルだけはクリップオンが好きだったので、シートをアンコ抜きしてハンドルとステップとシートのポジションを自分なりにあわせたりした。

カスタムはいろいろなポイントに手を入れていったが、やはり足回りとブレーキ回り殆ど交換する結果になってしまった。リアは目の字断面でスタビなしのPVM。前後ホイールはストリートでの使用を考慮してPVMのエレクトロン・マグネシウムホイール。フロントブレーキディスクはやはりPVMの鋳鉄ベンチレーテッド・フルフローティング・ダブルディスク。ブレーキは共にロッキード。フロントの4podとリアの125レーサー用2podを、それぞれワンオフサポートで装着。ホースはグッドリッジ、マスターシリンダーはブレーキ・クラッチ共にニッシン。タイヤはミシュラン59X、リアサスにオーリンズ、フロントにホワイトパワーのプロライン、K&Nエアフィルタ、KERKER 4in2でメーンスタンドもそのまま使用でき、サイレンサーにちょっと空き缶を詰めるだけで、練馬の陸運をそのまま通る程の出来だった。

ここまでやっても、ZZ-R1100には叶わない。いいのだ、バイクとはそういうものなのだから。

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2005年03月19日

モンスターの条件

モンスター。怪物と言われるバイクがある。

人が操れる限界を超えた、馬力や特性を持つもの。それはエンジンパワーや、アクセルをあけていく途中、極端にパワーが出るエリアがあるものなどが、その恐ろしいほどの力を体に感じた時に、そう呼ばれる事が多いと思う。

リッターバイク、いわゆるナナハンよりもはるかに排気量の大きい、1000ccクラスのバイクを指す言い方なのだが、バイクという乗り物を知らない人は、なんだ軽自動車に毛の生えた程度の排気量なんだ、と思われるかもしれない。それに、バイクというものは、地面に接している部分というのはサッカーボール2個分程度でしかない面積で、200kg以上の車重をあずけ、大きく傾けなければ曲がれないという、これだけ言うだけでもロクでもない乗り物だと言われてもおかしくない。事実、私もそう思う事がある。

しかし、そのパフォーマンスと必要とされるテクニックは非常に高い。

お金さえあれば、ポルシェだろうがフェラーリだろうが買え、その気になれば比較的まっすぐな高速道路であれば250km/h位の速度を出すのは、普通免許取り立てでも可能だろう。しかし、カローラの価格程度で、ポルシェやフェラーリなみのパフォーマンスをバイクなら手に入れる事ができる。しかも免許取り立てどころか、いきなり大型免許は取れない訳で、少なくとも400cc以下のバイクの免許を取らなければ、手にする事はできない。

ましてや昔は教習所では取れず、限定解除という儀式の中で、試験場で受ける試験において、1~8%程度しか合格者がでないという狭き門をくぐりぬけなければ、この怪物に乗る資格は得られなかった。

そんなパフォーマンスを日本国内で使える所があるのか、という声も多く聴いた。しかし、それは乗った事のない人たちが言う事だ。バイクという乗り物自体、言葉でその魅力や恐怖や充実感を説明できるものではない。そう、大型もそれと同じ世界。乗ってみて初めてそのスゴさ、レベルの差というのが理解できるものだ。

モンスターと呼ばれるバイクは、お金を出せば誰でも手に入れる事ができる。しかし、それを安全に、かつパフォーマンスや、ジャジャ馬ぶりを楽しむ事ができるかというと、経験やセンス、そして思い入れがものを言う。

とはいえ、この乗り物は明らかに趣味、物好きで乗る以外、乗る理由がないものと言い切れる。実用に適さない、モンスターに乗らなければできない事はまず無いというのも事実だ。別にリッターバイクと呼ばれるものがなくても、人間が生きていく上で何も困らない。

それでも、このモンスターが開けてくれる扉を目指す者がおり、また扉の向こうの世界にどっぷりと漬かってしまう者がいる事も確かだ。私は扉を数回開けて向こう側の世界にしばらく居た事があるのだが、今は扉を半開きにしておいてある、という感じだろうか。

私が相棒として迎えたモンスターは、8台目で取り上げたGPz900R-A7だった。そしてそのモンスターに磨きをかけるべく、扉の向こう側に居た私は、自分のフィーリングとシンクロするように、写真のようなカスタムをしていた。これは、リア側だけ。フロント側など、他のポイントはまた後日。

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2005年03月18日

公道を走るレーサー(9台目)

朝から昼にかけては、漸く春を感じられる暖かさだったが、会社帰りには一気にまた冬に逆戻りしたかの如く、北風が吹き荒れている。明日はもっと寒いようだが…

週末だが、ちょっと寝不足なので、また車歴シリーズ。

KDXという久しぶりの本格オフ車だと、どうしても細かい振動と航続距離が短いという点で疲れが溜まってきた。確かに走りは楽しく、何よりサスペンションの進歩には感動さえ憶えていたが、ツーリングという視点からだと、やはり4ストが望ましいと思っている。今でこそ環境への配慮から2ストは消え去る結果になってしまっているが、この頃のオフ車は軽くピックアップのよい2ストがまだまだ主役とも言えた。

そんな時、友人が6万円で88年型のXR250RKを譲ってくれると声をかけてくれた。このモデルは私が実はホンダのXRでは一番好きなカラーリングである、ホンダレッドが主体となったもの。喜んで譲って貰おうとなり、葛西まで引き取りに行った。しかし、この時カタナを手放す日でもあった。要はカタナででかけ、XRで帰ってきたという事になる。別れと出会い。そんな日だった。

状態は見た目はそれほどひどくなかったが、後日タンクやシートを外して洗浄すると、レースに使っていた事もあったようで、フレームの奥からヘドロのようなドロが出てきたり、マフラーは錆び、シート皮も破けているといった状況だった。それらを徹底的に清掃し、ハーネス類を全てチェックし、キャブのオーバーホール、ハンドル交換、ドライブ&ドリブンスプロケットの高速道路対応化、チェーン交換、ヘッドライトのガラスレンズ化とH4バルブ化、シート張り替えなど手を加え、USモデルのXR250RKは私の相棒となった。

軽快な純正マフラーの音も、絶妙にクロスしたミッションも、足まわりも、全て素晴らしかった。装着されていたピレリのMT21も自分のスタイルにあっていたのか、ロングツーリングでも扱い易く、そして走破力もあって、昔乗ったXL系と兄弟車にもかかわらず、レーサーの血は本物だと感じていた。

ホンダレッドに包まれたレーサーXR250RKは、走りだけでなくツーリングに求められる積載性も燃費も併せ持つ素晴らしい車両だ。とても3万キロ走ったエンジンとは思えないパワフルさで、時にはキャンプ用品満載の上、モンベルのフルサイズビックタープに、オリオンビール1ダースを積み、岐阜までキャンプをしに行ったり、北は北海道から、南は四国・九州までいろいろな所を旅した。

しかし最後はリアサスが完全に抜け、サス交換が結構高額になる為、同じタイプに乗っていた友人にタダであげてしまった。今でもXRへの魅力は褪せておらず、XR600Rがひとつの頂点だった。

先日このXR250RKを譲ってくれた友人が、XR650Rを格安で売ってくれる話にグラリと揺れたが、車検付である事と今の250ccオフ車を昨年ちょっとお金をかけて修理してしまった事から、悩んでいるうちに売れてしまったらしい。今思うと後悔していたりする。

このXRは4ストでの道を選ばない楽しみを味あわせてくれた。また乗ってみたいと思える車種の1つでもある。ホンダらしさ満点の歴史に残るオフ車ではないだろうか。

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2005年03月17日

モンベル

キャンプをするようになった頃、自然と山屋(登山)用品に目が行くようになった。バイクに積載する事は、軽量・コンパクトにしすぎる事というのはない。軽ければ軽い程、小さければ小さい程よく、快適さよりも機能が満たされていればよいのだが、自分が少し余裕がほしい部分は、快適度をあげる事もある。

山屋さんと違う部分としては、ウェアでは歩く速度で移動するのではない事から、ライディングに耐えられるヘビーデューティな造りと構造、日本の気候に適したゴアテックス等の湿気を抑え防水性能が高い点。ギア類にしても、ストーブはフューエルタンクにあるガソリンを使用でき、滞在時が快適になる椅子などがあげられる。

ウェアはこれまでバイク専用というか、モトクロスメーカーや皮パンツなんかも履いた。ブーツもゴツいモトクロスブーツや、ロードレーシングブーツも。しかし北海道をツーリングするようになってから、段々とブーツは軽登山靴、パンツは厚手のジーンズ、ゴアテックス製のアウトドアジャケットやライディング用ジャケットと、それこそ旅先でヘルメットとグラブを取れば小洒落たカフェにでさえ入れるような恰好になっていった。

山屋用のウェアは皆高価だが、モンベルというメーカーだけはそのクオリティと機能性の高さに比べても低い価格設定で好んで使っていた。原付の時に初めて買ったレインウェアから始まり、シュラフやテント、マウンテンパーカはモンベル製だった。

同時にクシタニと、風魔プラス1というショップのレッドホライズンブランドも好きでよく着ていたが、その風魔プラス1が事実上ウェア部門はモンベルの関連会社、ベルカディアに売却され、少し前までレッドホライズンブランドでも、モンベルのタグをつけて販売していた。私が今も着ているのはそのほぼ最後のモデルのジャケットである。

話はちょっと変わって、知人のカメラマンにここ数年、毎年行っている北海道ツーリングの時に現地で落ち合い、撮影のお手伝いをした。このカメラマン氏とはもう長いお付き合いになる。それこそネット上ではビジネス・パートナーとも言えるようなお付き合いをしている。今回、昨年の秋冬物に続いて私が被写体となった写真が、最新の春夏物クロージングとギアカタログに使って頂ける事になった。

嬉しい反面、ちょっと恥ずかしい。写真は素晴らしく、やはり巨匠と呼ばれるだけの事はあって、道が写っている写真を撮らせれば第一人者ともいえる氏の作品に、協力できた事は単純に嬉しいものだ。バイクもほぼノーマルな国産250ccオフロードだし、風景の一部として使われるには都合がよいと言われたが、確かに最近は知人が乗っているバイクは存在感のあるものが多いような気がする。

何にせよ、私の大好きなモンベルのカタログに、自分が被写体の写真が掲載される事はとても嬉しい。このカタログは全国のモンベルショップで販売されている分厚いものだ。中に掲載されている写真は、みな凄いフィールドで撮影されているので、眺めているだけでも楽しい。

辰野社長はカヌーイストの野田さんの小説にもよく出てくる。私がちょっとだけ参加していた事がある、地平線会議でも名前が聴かれた、フィールドでも有名な方だ。そういう人が設立・運営しているブランドはやはり、中身も濃い。日本で生まれたブランドとして、ネパールで偽物が出回る位有名ブランドは、ここだけではないだろうか。

クロージングは宗谷丘陵、ギアは美瑛の哲学の木で撮影されたものだ。

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2005年03月16日

ちょっとセンター街へ

ちょっと午後から横浜に行ってきた。

半分仕事なのだが、殆ど自分から行く事を決めたので、息抜きみたいなものだとも、自分の勉強の為とも言える。思いの外早く横浜駅まで着けたので、天気もいいのでパシフィコまで歩いてみた。

今日は昨日までとちがって暖かくなると言っていた。朝だけはやはり冷え込みが激しい最近、ちょっと大げさなコートを来て通勤するのだが、帰りは結構汗をかいてしまう。朝以外は、もうコートがなくてもいいかなと思っていたので、今日は下がコーデュロイのパンツ、上はボタンダウンにネクタイ、ツイードのジャケットにマフラーという出で立ちだ。

途中、モンベルショップを運よくみつけ、カタログをチェックしに行く。なんでカタログをチェックしに行ったかについては後日。クライミングウォールがある結構広いテナントだった。同じフロアにA&Fも入っており、最近使うようになったロッジのダッチオーブンやスキレット、コンボクッカーなども並んでいる。昔はこんなもんもって旅できるか、と思っていたが、最近は車で犬を連れていく旅が多い為、案外炭をおこせばダッチでの料理が楽でうまい。料理の間も、犬と遊んでいられるのがいい。

そんなちょっと春の散歩を楽しませて貰いながら、帰りは歩かずに、みなとみらい駅から東急で渋谷まで一気に帰った。昨年4月までは、この路線で通勤をしていたのだが、ちょっと懐かしい。

最近、朝も夕も通勤時、シリコンオーディオプレーヤーAD-FL10-256でFMを聴いている。J-WAVEだ。特に帰りに好んで聴いているのはGROOVE LINE。ピストン西沢さんと、秀島史香さんの掛け合いが楽しい。

いつか放送時間に渋谷に行く事があれば、この放送をしている渋谷HMVスタジオに行って、ご本人たちをみてきたいと思っていた。ふらりとめったにいかない人でごった返しているセンター街に入っていくと、すぐに右手に見えてきた。店舗に入っていくと、今まさに聴いているJ-WAVEを通りに向かってガンガンに流している。

目指す2階のスタジオを発見。人がたかっていたが、放送の真っ最中のDJのお2人と、ディレクターとスタッフ数人がいるのが見えた。写真撮影禁止とは書いてあったが、エスカレータホール側から携帯のカメラでパチリ。やはりブレてしまったが、こんな感じだった。

その後、バスで帰宅。久しぶりに30分位だが、ちょっと早く帰宅できて嬉しい。でももうこんな時間。ちょっと寝不足が続いているので、もう寝よう。

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2005年03月15日

ハイウェイ・スピリット(8台目)

めでたく限定解除をし、晴れてどんなバイクでも乗れるようになった。ある意味これで「バイクは私のライフスタイルです」と言えるようになったとも言える。この程度が取れなくて、バイクが好きだと言う事が恥ずかしいキャリアになったから、だ。

カタナのライディングの楽しさ、KDXのダートパフォーマンスの楽しさで十分だったのだが、限定解除を絶対に取るのだという自分への追い込みの為、そして憧れでもあったGPz900R(A7黒)を新車で手に入れる最後のチャンスかもしれない(これは後日大嘘だった事は誰もが知っている事)、という事もあり、3台目のパートナーがやってきた。

厳密に言えば、限定解除を取る前に、ショップから引き取り命令が出、限定違反で埼玉のガレージに乗って帰った。その途中、ガス欠して交番の前を押しながら横切り、ガソリンを入れた事は情けない思い出だ。その重さを身に沁みた出来事でもあった。

正式に免許を取り、埼玉のガレージから自宅に900Rを移動させた日からほんの1週間目、900Rのスクリーンとバックミラー、KDXのリアバックが盗難にあった。まだ走行40km程度で、アッパーカウルに傷がついた。あまりにショックで、この頃から通いはじめたモトショップ世田谷に盗難にあった朝、持ち込んだ。ミラーもスクリーンもない900Rが哀れという事と、自宅に置いていては、安心して眠れないという状況に陥ってしまった。

当初、スクリーンは純正、ミラーはA6以前の小柄なものに変更するつもりでいたのだが、このショップは一筋縄ではいかない。この頃からカスタムへの泥沼に入り込んでいく事になる。スクリーンは純正ではなく、ヨシムラ・スクリーン・クラフトのスモークが少し高いだけだったので発注したのが、すべての始まりだったのかもしれない。バックミラーもA6までのシンプルなタイプに変更してみた。

この憧れのカワサキを手に入れたら、絶対に付けたいものがあった。それはKERKER SYSTEM K2の2本出しマフラー。殆どがスリップオンというエキパイはそのままで、サイレンサーと途中までのエキパイをボルトオンするだけのタイプが定番とも言えた。しかし私はエキパイからすべてKERKER製のものを選び、装着した。この2本の先から奏でられるサウンドは、心を震わせた。

当時仕事は毎月100時間を越える残業が続いており、休みは土日のどちらか1日という事もあり、その休みはバイクショップに行くか、日帰りツーリングと決まっていた。当然悪魔のようなショップに入り浸る事で、日に日に私の900Rは変貌していく。いや、殆ど外見はノーマルとはわからないが、足回りは殆どすべて交換。エンジンパワーをあげるよりも、バネ下重量を軽量化し、マグネシウムホイールや目の字断面のスィングアーム、飛行機すら停めるロッキードの4podブレーキ、鋳鉄のフルフローティングディスク、オーリンズのサスなど、これでもかとレーシングパーツを組み込んでいった。

ある日、アウトライダーパティオという私がスタッフをしていた集まりで宇都宮に餃子を食べに行く集まりに900Rで行くと、どこがカスタムしているんだ?というような言葉を耳にしたりした。しかし、KERKER 2本出しの奏でる轟音は、タダモノデハナイニンジャである事を、証明していた。いや、基本的にカスタムは自己満足なのだから自分が納得できればよいのだ。

箱根ターンパイクを友人と異様な速度で大観山パーキングまで駆け上がったり、永源寺への高速巡行ツーリング、そして激しい日帰りのワインディングツーリング…これまで経験した事のない速度域で、高次元にバランスを取ったライディングを経験した。50ccに初めて乗って、走り出した感動、400ccからカタナに乗り換えた時に感じたこれまでにない感動、そしてそれをはるかに凌ぐ新しい領域を見せてくれた900Rは、私にとってどれも高いインパクトと今でも忘れられない衝撃を味あわせてくれた。

しかし鋳鉄ディスクやマグネシウムホイールなど、ハードな一般道を走る事や、保管する時の湿気の問題など、不自由な面の方が目立ってしまう。保管は屋内、乗る為には電車+徒歩で片道1時間強の場所に通わなければならない事から、結果的に乗る回数も極端に減っていってしまう。保管場所も限界に近づいてきていた。そしてたまに乗れば、仕事のストレスからなのか、サーカスのような走りをする事も多く、命の危険を感じてきたのも理由のひとつなのかもしれない。

私が理想のバイクショップと認めていたモトショップ世田谷も、社長の夜逃げにより惜しまれながら閉店。その後環八沿いのカタナショップ、FORにメンテを頼むが、最後は雑誌ロードライダーに私のバイクを使い、ショップカスタムとして勝手に掲載されてしまう事で、あまりのレベルの引くさに縁を切ってしまう。そして結果的に7年所有したあと、車体の購入価格より10万UPした価格で、知らない人に引き取られていってしまった。

こうして比較的に長い期間、私のメインバイクとしてカスタム900Rは君臨してきた。大げさだが、私はある意味初めて自分が満足のいくまで手を入れ、理想の形に仕上げたバイクだったと思っている。カスタム900Rは私のバイクライフを語る上で欠かせないほど、バカらしくお金をかけた、理想のバイクだったと言える。

ハイウェイや高速コーナーを、KERKERサウンドを奏でながら走り抜ける。いつかまた保管場所や時間に余裕ができたら、リッターバイクに乗りたい。それはカタナか、外車かわからないが、カワサキである可能性も十分にある。

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2005年03月14日

ひとつの頂点(7台目)

私の車歴シリーズも漸く半分を超えた。

どれも思い出深い相棒だが、7台目になるこのバイク、私のワクワク度の高さで言えば1~2位を争う車種だったりする。

ZX4-G1、KDX200SR-1と同時所有の時期、とうとう限定解除に挑戦を開始した。仕事もそれなりに忙しい時期だったが、府中自動車試験場近くの杉本二輪練習所に、時にはごまかし、時には休みを取って通った。当時限定解除試験の予約が1カ月に1~2度取れればよい方だったので、試験の前の週に1時限、試験の直前に1時限乗るようなサイクルで練習を詰めていった。

丁度試験に通っている最中、ZX4が友人経由で離れていった。どちらかというとインラインフォー400オンロードの方が、普段練習になったのだが、乗れるバイクが2stオフ車だけになってしまう。同時に試験に絶対に合格するようにと、自分を追い込む為に最終型と噂の高かった900ccの憧れのバイクを予約し、週末にはショップに眺めに行くか、試験に行くかという事もあった。

結局、限定解除は6回、12時限の練習で合格。その回に合格した人は、100人以上受けて2人だった。免許の裏に限定解除の判を貰って練習所に挨拶に行くと、君は今日受かると思ったと言われた。教官とその時知り合い、同じ試験を受けた人から、朝から乗りに乗れていたと言われ、とても嬉しかった事を思い出す。試験の帰りは、嬉しくて信号が変わる毎にホイールリフトしながら家に帰り、午後から仕事に出た。

その事を会社の同期に言うと、それまで乗っていたナナハンをお祝いにくれるという。彼のバイクはSUZUKI GSX750S1。カタナと呼ばれるスタイリッシュだが結構なオールドバイクだ。鹿児島出身の彼は、今の会社に入社時、鹿ナンバーのこのカタナで上京。箱根や伊豆を一緒に走った仲だった。その彼は、いろいろな理由により、バイクを維持できなくなり、処分したいという事だった。ただあまりにお金がないという事なので、申し訳程度で2万円で譲って貰った。

彼のバイクを受け取りに会社の寮に行くと、至る所が錆び、エンジン音もバラバラとタイミングがあわず(あとでわかった事だが、1気筒死んでいた)、ミスファイアまで起こり、何度もエンストしながら乗って帰った。その時の嬉しさというのは、900ccが手元にあるにもかかわらず、ずっと興奮しっぱなしだった。そう、憧れのナナハン、それもカタナを手に入れたのだから。

その後行きつけのショップでオーバーホールを依頼した所、丁度フルカスタムでカタナ1100が入ってきた為、処分するパーツはすべて私のカタナに装着してくれる事になった。いきなり、フロントはニッシンの別体マスターシリンダー、ブレーキホースはグッドリッジ、リアサスはヨシムラカヤバ、マフラーと前後ホイール&タイヤ共に1100のものがそのまま装着された。

タンクには錆が出ていた為、知り合いの板金工にオールペンを依頼。シートも汚れていた為、ブラックレザーに張り替え。フロントウィンカーや外装パーツも装着し、私の理想のカタナが出来上がった。

900はおいたままで、殆どこのカタナで週末はでかけていった。箱根、正丸峠、湘南、そして北海道へ。殆どアメリカンと言える程、フロントホイール径が大きく、ブレーキの効きの悪さで定評のある乗りにくいバイクは、正丸峠の下りでも素晴らしく軽快なコーナリングで私をエキサイトさせた。これほどライディングが楽しいバイクはこれまでなかったかもしれないと、本気で思っていた。

ただひとつ、遅い事。直線ではメーター読みでも180km/h以上は出ない。友人のCB750FBの方が少し伸びがよかったが、パフォーマンスは同じようなものだった。このZX-4よりも遅いかもしれないナナハンは、私にとって「ナナハン」という憧れを手にした事と、「カタナ」を手にした事で、初めてバイクに乗った頃の気持ちを思い出すだけでなく、それ以上に大型バイクの楽しさを教えてくれた。

このあと、5台を乗り継いで現在に至るのだが、今ロードスポーツをもし買うなら、今度はカタナ1100ファイナルの中古か、神戸ユニコーンのイナズマベースのカタナが最有力候補だ。基本設計は既に20年以上も前のオールドバイクだが、私にとっては魅力溢れる車種だったりする。

荷物も沢山積めるし、林道だってガンガン走れる。そしてコーナリングや眺めるだけで楽しめるビックバイク。私にとってある意味理想のバイクがこのカタナである。

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2005年03月13日

雨と雪の境目

今日は朝早く起きてウェブの仕事をしようかと思っていたのだが、昨日からの頭痛がまだすっきりしないのと、妙に眠くて起きられなかった。

平日毎朝、5:40に目ざましをセットしているのだが、今日は当然停めていた。が休みでもこの時間になると一度目を覚ましてしまうのは、習慣というものなのだろうか。とはいえ結局2度寝して、くーに踏まれて眼が覚めると10時近かった。外は晴れているようだ。

遅い朝飯を食べて、洗濯をすると、空は一転雲に覆われてしまった。遠くには太陽があたっている建物もあり、こういう晴れの中に分厚い雲が移動する天気は、冬の北海道でよくあったように思う。そして、そんな天気の時は大抵雪が舞ってくる。

お昼すぎにやはり雪が降ってきた。あわてて干していた布団や洗濯物を入れようとすると、あれよという間に横殴りの雪が洗濯物に付着する。今年は雪原に行けないが、都心で雪をみる機会が妙に多いようだ。北東方面から大粒の雪が、多数部屋に飛び込んできた。

秋の北海道。某道東の丘にある喫茶店が、冬は閉店する為、閉店の宴が11月の頭にある。お店は4月のGW前まで展望台の施設も含めて閉鎖される。以前は展望台の外にそのお店はあったが、やはり同じ時期はお休になった。このお店とは、1986年にできてから、長い付き合いになっている。

その閉店の宴に出る為に、何度か北の大地を訪れた。道東はその頃、晴れる確率が非常に高い。案外梅雨がないと言われる北海道は、夏の期間雨が多く、また道東は霧も多く、冷え込む。霧の道東は風物でもあるのだが、やはりしっとりとまんべんなく濡れる霧は、バイク乗りにとって厳しいものだ。

晩秋というか、初冬と言える閉店の時期に、雪に降られた事は何度もある。しかし雨や霧になると体にしみじみと寒さが入り込んでくる。バイクで帯広経由で中標津に向かった時、昆布刈石のダートを走り、霧雨にやられた。気温は雪になるギリギリの2度。写真を撮ろうにも、視界も悪いし、何より停まってカメラを出す行為がまどろっこしい。ダートなんか入らず、R44をそのまま走ればよかった。いや、R272で丘に直行すればもっとよかったんじゃないか、と後悔しながら走った。

今日あたりの気候は、その頃の道東と酷似しているかもしれない。雪がそれをふと思い出させてくれた。

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2005年03月12日

最高のキャンプ用品ショップ

コーヒーを飲む為のパーコレーターも、キャンプ用品ショップで購入する。

最近の犬仲間とかでキャンプの話をすると、キャンプ用品はホームセンターやスポーツオーソリティのような総合ショップで購入するものだという。当然そういうお店で買えるものは、大柄なものが多く、テーブルや椅子、2バーナーなど、到底バイクで運べるようなものではないものばかり。テントもコールマンや小川テントなどのファミリーテントが主だ。

私が中学生時代から、キャンプ用品は実家の近くにある、コージツかICI石井スポーツといった、俗に山ヤさんが行く登山用品屋だった。中学時代に自転車で秩父とかにツーリングした時は、コージツで固形燃料とメタクッカーを買ってでかけた。その後バイクツーリングをする時も、小型軽量で燃料の入手方法が楽な、山ヤさんが使うものしか視野に入らなかった。テントも収納効率や雨や風に強いタイプ。

ストーブやコッフェル、ランタンなどそれぞれの話はきっとこれからおいおい書いて行く事になると思うが、私が愛用しているものを入手できるショップは少ない。上で書いたショップ以外で、私が好きだった山幸はなくなってしまった。ちょっとキャンプツーリングブームの頃に、ソロからファミリー用がまんべんなくあった池袋SRCは新宿に移ってきてから、あまり行く機会がなくなってしまった。池袋の秀山荘、高田馬場のかもしかスポーツ、神保町のさかいやスポーツなど、数えきれない程よく足を運んだ。

しかし、その中で常連と言える程店員と仲良くしていたショップは、スタッフが一度すべて人事異動でいなくなり、数年前にそのメンバーがまたそっくり新宿西口店に戻ってきたコージツ。店長から副店長、みな顔なじみだ。

そして今は無くなってしまった写真のここ。ロングツーリストのたまり場。きわめて偏った商品展開と、生粋の旅人がオーナーという、究極のショップだった。

オーナーとは、偶然開陽台で出会った。私がいつものように、北海道に上陸し、町中で食料を買い込んだあとに丘にあがると、丁度丘を下るオーナーA氏と奥様とお子さんが、私の旅人の友人たちと談笑していた。記念写真を取り、別れるまで1~2時間しかなかったと思う。まあいつもの旅人同士の出会いだった。その時、キャンプ用品ショップを開くので、遊びに来てくれとステッカーをもらったが、いつかいこうと思って、そのままそのステッカーは大事にしまわれた。

しばらくして、旅人の友人ランチョンから、濃いキャンプ用品屋をみつけたから、行ってみないかと誘われた。私の会社の同僚や、旅の友人を誘ってバイクで厚木IC近くのマクドナルドで待ち合わせをし、そこに行ってみる事になった。

行ってみると、車通りのある道に面している店の横の空き地で、バーベキューグリルが出て火がついており、オーナーともう一人が何かを焼いていた。店の中に入ると、一部の壁に怪しいものが沢山貼られている。多くの旅の写真の中に、八重山と沖縄本島を結ぶフェリーに乗船すると貼らされる「石→那」のステッカー、サトウキビのバイトに使われた麦わら帽子、サッポロクラッシックや北のきりんの空き缶、レトルトの中身汁の空き袋、吊るされたハンモックには洗ったあと乾かしているようにコッフェルが無造作に入っていたり、至る所に旅の匂いがプンプンしていた。

なんだここは。ここだけまったく別の世界じゃないか、と感じた。正直鳥肌がたつ程、旅人の血が騒いだ。こんなショップがあったのかと、そして教えてくれたランチョンに感謝した。

少しオーナーと話をしたり、店の中をうろうろみていると、ふと中に私が1985年から目的地として旅をしている北海道は中標津の開陽台の写真に目がとまった。ここのオーナーもあの丘の夕日と朝日と星空を知っている。そう思っただけで嬉しくなった。

数枚みていくと、ぎょっとする写真を見つけてしまった。
私が映っている写真だった。
まさか、誰が貼ったんだろう。誰か知り合いがここに来たという事か?

何の事はない、私はオーナーと丘で会っていたのだった。そう、あの日数時間だったが会い、写真を取り、ステッカーを貰い、再会を約束した旅人、その人であり、写真はオーナーのものであった。

家に帰り、数年前に頂いたステッカーを探してみつけた。旅人の再会というのは、偶然ではなく何か見えない力が働いているような気がした。それは必然なのだという事。旅というパワーの持つ、不思議な力によってめぐり合う運命だったのだろうという事を、確信していった。

残念ながらこのショップは今閉店してしまったが、私の中でこのショップがナンバーワンのキャンプ用品ショップである事はこれからも変わらない。

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2005年03月11日

うまいコーヒー

コーヒーが好きだ。とはいっても、そんなに味にうるさい訳ではない。
以前はストレートのマンデリンが好きだった。最近はレギュラーの安いものを買ったりしているが、1日に仕事場とかだと5杯前後は飲むだろうか。フリーズドライでも最近は美味しいと感じられるものが随分出ているようで、拘りはそれほどない。

しかしこだわ