2005年04月30日

海外からの電話

今日もウェブ作成。しかし、だらだらとやっていたので、準備が4割、材料作成で3割、設定で3割といった所だろうか。なかなかツメまでいかない。最後は時間切れとなってしまった。明日はちょっと用事があるので触れないと思うが、明後日はとりあえず公開といった所だろうか。

今日も暑かった、風はさわやかだった。天候が明日の夜から明後日終日にかけて崩れるそうなので、明日益子に行こうと考えている。夕方になって決めたので、あわててガソリンが空にかぎりなく近いので、給油に近くの怪しげなスタンドに行く。41.2リッターで5000円弱。高くなったものだ。あまり頻繁に乗っていないのもあるのでそれほど響かないが、さすがに1リッターで20円前後の差は大きい。

夜、ランチョンから電話があった。昨日台北にトランジットし、今日カンボジアに入ったそうだ。私も行こう行こうと思っていた東南アジアエリアだが、結局行けずじまい。特に明日行くというアンコールワットはちょっとだけ憧れだった。ベースになるシュムリアップまでは空路で行くようだが、川ルートでも陸ルートでも危険度は高い。まだまだ安全とは言い難く、何が起こっても不思議ではないエリアだ。

てっきりベトナムに行くと行っていたように理解していたので、明日アンコールワットと聴いてちょっとだけ驚いたが、どちらを先に行きたいかといえば、私もこちらを選ぶだろうと思って納得した。とても暑く、騒がしいそうだ。

彼からの電話はいつも3Gのワールドワイド携帯。ボーダフォンなのだが、3Gのせいか国内エリアの狭さで結構不満が多かったようだ。しかしプノンペン市内ではブツブツとノイズがあるにせよ、タイムラグは殆ど感じなかった。由から開陽台に幕営中や美瑛の宿のベランダで、中国西部の国際電話を携帯で受けた事が何度もあるが、とても明瞭で海外からの電話を受けているとは感じない。不思議なものだ。

以前、とある学生が北極圏から南極圏まで人力で行くというプロジェクトにかかわる際、インマルサットのミニMという赤道上を4機飛んでエリアをカバーしている衛星電話でネット接続設定や、パソコンのメールソフトやウェブ設定をしてやったのだが、この時の電話の品質はあまりよくなかった。端末がアタッシュケース位のサイズで、アンテナがその蓋な為、うまく衛星の位置を捕らえないとなかなか安定しないというのもあった。バッテリーもあまり長持ちせず、メールの送受信がなんとかという2400bpsの速度しかでない端末だった。

イリジウムが撤退し、衛星を維持できないので落とす、という話から、いつのまにかサービス再開という話になっているようで、確かに携帯端末がどこまで文字通りの携帯端末になるかによっては、今後シームレスなインフラを誰もが手にする事ができるだろう。よいか悪いかは別にして…

今国内では私はドコモのムーバを使っているが、いずれ3Gになるのだろう。電話での通話は嫌いなので、どうでもいいのだが、キャリア別の制限がなくなり、1日でも早く携帯電話も携帯IP端末になる事を祈っている。テレビのデジタル放送なんかとんでもない。光ケーブルがくれば、そこから全てのコンテンツを受信すればいいのだから、テレビやラジオ、携帯電話、レンタルビデオすら、全てIP経由で技術的には既に可能になっている。それをそれぞれの企業の存続の為に、消費者に別々のアンテナやチューナー、テレビを買い換えさせようとしているのだから、消費者にとっては無駄な金を、不要な企業のオジサンを扶養する為に払わなければならないなんて、とんでもない事だ。

それでなくても税金や年金など、誰かの失敗政策を我々が尻拭いをしているのだ。黙っていられる訳がない。

写真はそのインマルサット端末を始め、世界縦断に出た学生が持って行ったモバイル機器。左上は私のリブレット60。左下は学生の新品リブレット1100。右上がインマルサット電話、右下が当時唯一単三電池で動いたモバイルギアR330。右側にはACアダプタやジェンダーチェンジャーなどわんさか。

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2005年04月29日

ハイジーの家20周年OPEN

今日、中標津のはずれにある開陽台という展望台がオープンした。冬の期間は雪と氷に閉ざされ、営業ができない為だ。冬の間は、鍵がかけられ、中には入れないようになっているが、下の駐車場までは町が除雪してくれている。中標津の最もメジャーな観光地である為、季節を問わず訪れる人がいる為、公衆トイレとゴミ処理の清掃が、定期的にやってくる。

しかし2月などは駐車場から伸びる階段も雪に沈み、手すりすら殆どが雪の下に隠れてしまう。厳冬期に5~6度訪れているが、うち1度はまったく登る事ができなかった程だ。ただ道東は北海道の中では積雪量が少ない。風が強く平地が多い為、吹き溜まりができやすく、雪も風で押し固められてしまうようだ。

その展望台の1階にある、軽食喫茶のハイジーの家というお店も、今日開店した。今シーズンは記念すべき、開店20周年となる。当然そこに当初から通っていた連中も、20年歳をとったという事も事実だ。

先週大雪が降っていたので、今日の開店は随分大変だったんじゃないかと思う。昨日、丁度別件でハイジーの家のオーナーである、かあさんから電話を貰って少し話したのだが、そういえば雪の状態を聞くのをすっかり忘れてしまっていた。しかし、今日から開店する事は確かだったようだ。

今日は連休の初日。本当は今日までに間に合わせたかったのだが、ハイジーの家のウェブページをまとめていた。さっきまでかかって漸くアウトラインができた所だ。かあさんにチェックを入れてもらったあと、ギャラリーのページをチャチャっと作り、あとはBBSだけとなった。

他にも旧サイトのコンテンツをどう移動し、また旧サイトから自動的に新サイトに飛ぶようにリダイレクト設定をするなど、ごちゃごちゃやる事はある。ここまできて、ちょっとサイトが重いのが気になっている。もう少しシェイプアップするか、先読み設定をしてやらないとまずいかもしれない。

まあどちらにせよ先が見えてきたのでちょっとほっとしている。明日ももう少しがんばろう。

かあさん、のりちゃん、ふーちゃんという3人が、今年のハイジーの家のスタッフだ。大変だろうけど、やっぱり開陽台にはハイジーがあって、かあさんがいないと寂しいというか、変だ。頑張って今シーズンも、あの笑顔と元気な声で、「おかえりー」とやってほしい。

連休に入った事で、ランチョンはベトナムへ、オカルトの方々は鹿児島へ旅立たれたようだ。羨ましいけど、今日みたいに暑いと地球の季節感に不安を感じてしまう。涼しい山の方にゆっくりしに行きたいものだ。きっとそういう所に行っても、ウェブを作っているかもしれないが…

写真は1995年8月の終わり。旧ハイジーの家が撤去され、新展望台にあがった年。その記念すべき跡地に立っていた、真実のプラカードを前に、かあさんと共に。

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2005年04月28日

南のパラダイス

さて、一般的なサラリーマンな私は、一番幸せとも言える金曜の夜だったりする。明日から、久しぶりにカレンダーの並びがよく、長い連休に入るからだ。会社嫌いな私でも、もう何だかんだ言って10ン年勤務。年間年休数は限られているので、途方もない回数通勤し、途方もない回数満員列車に揺れられてきた。自分でもよく続いていると感心してしまう。

ちょっと前なら、これだけカレンダーの並びがよければ、迷う事なくどこかに旅に出た。やれ九州だ、四国だ、八重山だと、南方向に向かうのが通例だった。その玄関が川崎のフェリー埠頭だったり、有明の埠頭だったり、羽田空港だったりする。さすがに沖縄方面に向かう時は飛行機しか今は考えられないが、それも那覇行きの50時間でもうおなか一杯という経験があるというのもあるし、そこまで時間に余裕がある訳ではないというのが主な理由だ。

どこもまた行きたいと思える場所なのだが、やはりこの時期に宿泊回数として一番多いのは石垣島の米原キャンプ場かもしれない。あとは、せいぜい3~4泊程度だろう。その昔、某教団がここで集まって何か宗教活動をしていたり、指名手配になった幹部が逃げ込んでいたりして物騒な事に巻き込まれた時もあったが、それでなくても渡りや旅スレした気合の入った旅人がこのキャンプ場をランドマークにしている位、有名な所でもある。

炊事場は合計9つあり、私は主に屋根のない(なくなった、とも言う)第4炊事場周辺にテントを張っていた。なんでそこなのかわからないが、最初に訪れた時から第4だったのだ。しかし奥にいけば行く程、怪しさは増して長期滞在者が生活の匂いをさせながら暮らしている。私はせいぜい2~3挨拶を交わすだけで、親しくはならなかったが、今思うともうちょっと交流してもよかったかなと思ったりする。それだけ濃いキャンパーがここにはザラにいるというのも現実だ。

第4炊事場以外には屋根があり、奥の炊事場には洗濯物を干すロープや、食器を乾かす網がぶらさがり、石垣市図書館から借りてきた本が数冊綺麗に本棚に立っており、お徳用のシャンプーや食材が置かれていたりする。どうみても普通のキャンプ場とは思えないありさまだ。テントも殆どがコンパクトなテントであり、草や木に半分隠れるように張られて、どうみても移動できそうもない量のダンボールが積まれてブルーシートがかけられている。

米原キャンプ場は、米原ビーチに沿ってある。サイトとの境というよりは、砂浜に沿って奥に林があり、その林をくり抜くようにサイトが細長く広がっている。その為サイトは直射日光にはあたらないし、風が通るので過ごしやすい。ただ風がとまるので、夕方は蚊が出てくる時間は、林を抜け砂浜にいけば風があり、蚊にも刺されない。その土地の特性をわかれば、とても快適な空間になる。

日中はそれこそすばらしい米原リーフが広がるビーチが目の前だ。潮がひく頃リーフの落ち込みまで歩いていきながら、残った魚やタコを探すキャンパーもいる。夕陽が川平のあたりに落ちていき、美しい放射状の光の束が空を光らせ、しばらくすると満天の星空が現れる。それはまさにパラダイスだ。

夜には私の好きなリュウキュウコノハズク鳴き声がテントの上で響き、テントの脇を少し大きめのヤドカリがごそごそ通過していく音でまどろむ夜、遠くで三線と指笛の音をききながら、明日何もしなければならない事の幸せに浸りつつ、眠る。

写真はその入り口。入って左手にある炊事場が第一だ。

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2005年04月27日

日本の道は美しい

日本は海に囲まれた島国だ。

日本には道路が縦横無尽に通っている。以前道は全て繋がっているという話をしたが、これはあたりまえの話であり、でもあらためて思い返す事で、結構すごい事なんじゃないかって再確認したりしてしまう。今だに知床岬や礼文の東海岸に道がないというのも、それはそれで歩けばよろしい。また人が入る事で大切なものが失われるなら、好奇心やジャーナリズムは不要で何よりもルールを重んじればよい。

その日本の道には、走っていたり、ふと休憩する為に停まった所から振り返った視点から見る事で、ひとつの芸術作品に思える程美しい所がある。道は人や車が通る為に作られるものだが、それが貫かれる地形や、周りの風景、そして光と影が、息をのむ程にその存在を語りかけてくるような、そんな所と出会うと幸せな気分になれる。
とはいえ、メジャーな風景はいろいろなメディアで紹介されている事から、それほど新鮮味はないかもしれないが、私も写真でみた場所に実際にいき、何枚かの写真を撮ってみたが、その時の天気もあるのか、あきらかな写真の腕が違うのか、こんなもんか、という程度の写真しか撮れなかった。それが現実なのかもしれない。

やはりプロの撮影した写真は違うものだ。それをしみじみ感じたのは、初代のツーリングマガジン、アウトライダーだった。その中で風景の一部に溶け込み、旅を感じる写真を撮っていたのは、須藤カメラマン。他にもそれぞれポリシーが感じられる写真が沢山あり、ずっと講読していた。バイク雑誌ではなく、バイクで行く旅というまさに自分がバイクに乗る理由にリンクした、毎月楽しみにしていた本だった。

一昨年と昨年の夏の終わり、北海道でその須藤カメラマンと同行する事で、これまで開陽台中心の旅をしてきた私の方向性を少し区切りをつけたいという気持を整理できるかもしれないと思い、新しい旅に挑戦をしてみた。ただ須藤カメラマンの作品はそれこそ私じゃなくても、誰でも旅を感じさせるバイクと乗り手がいればできあがってしまう。とはいえ、実は自分がその作品の中に、ひとつの要素として加わっている事は正直嬉しかった。

写真という作品の中に、日本の繊細さや柔らかさが、島国という地形から、水と土が光と影にコントラストをきかせる風景。そんな中を自分が旅するのを、やはり私は好きなのだと思う。

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その、ツーリング・フォトグラファー、須藤カメラマンの新しい本が出た。実際にバイクや車で日本をまわり、見つけた素晴らしい風景が本になった。この本をもって、旅に出るのもよいだろう。上が新作。下が旧作だ。

2005年04月26日

この風景が広がる

昨日の側道を登り切ると、今はこのようにバイクどめの小さいスペースが現れる。ここに到着し、イグニッションを切ると、今年もようやく来た、という気分で心の底からほっとできる瞬間を感じる事ができる。目の前には武佐サマが、また来たんかと言わんばかりに、堂々とその姿を見せ、風がささやいている。

丁度この写真は、朝苫小牧に到着。7時に港を出て、平取、日勝峠とノンストップで走り、上士幌でガソリンを補給。その後足寄、阿寒、弟子屈、そして開陽台とまたノンストップで走り、ハイジで昼飯を食べようと思って東武にも寄らずにここまで来た。到着は11時すぎ。サイドスタンドを出し、イグニッションを切って、ふらつく足で後ずさり、パチリと撮影。武佐サマにただいま、と声に出してみる。

誰かきていないか、ざっと見回しすが、見つける事ができない。というか面倒臭い。とりあえずハイジに向かうと、かあさんとのりちゃんが忙しそうに厨房で働いていた。フロアにはこの時は、ユーミちゃんがテーブルを片づけている。まずユーミちゃんが気づいてくれた。おかえり。そして奥からかあさんが中華鍋をふりながらこちらを向いておかえりと言ってくれた。はい、ただいま。

こうして、その道の向こうには安らげる空間とあの風景が待っていてくれるのだ。

テントサイトからみた顔がこちらに向かってやってくるのが見えた。ハイジの扉を開けて、少し離れたカウンターの席に腰掛け、こっちをみて声をかけてくる。やあ、久しぶり。みんなは町かい?

さあ、お楽しみはこれからだ。

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2005年04月25日

その道の向こうに

開陽台は駐車場があり、そこからは階段で歩いて展望台まで結構な距離を登る事になる。当然階段をバイクで登る事はよくない。最初に訪れた年、階段を昇り降りする事を禁止するような看板もなかったが、昔はきっと多くの旅人が階段やその脇を昇り降りした事だろう。階段脇にはタイヤ跡が残っていた。

当時からあった駐車場脇の立派なトイレの裏から、展望台裏の頂上へあがる細い道が伸びている。私は釧路西港から上陸し、東武までノンストップで走り、食料を買い込んだあと、開陽台の頂上までノンストップで走る、という事を長い事やっていた。路面状況がどうであろうと、ハイジを通りすぎ、トイレ横にすーっと消えていく。駐車スペースにバイクを停めているバイクの旅行者が、一体どこに行くんだという目で追いながら、挨拶もしないで脇道に乗り入れる。それが丘の人の証だった。

この脇道で多くのドラマが生まれた。二度と登るものかと言うものもいる。駐車場に停めて歩くさ、というものもいる。昔のように、丘の上のテントの脇に、バイクが停められた時期は、上にあげるのが当然だった。今では開陽台のお約束であるずっと霧が晴れない日が続いたりすると、側道はヌタ場マディ化し、深く掘られた轍とそこへ落ち込む斜面が、転倒の二文字をちらつかせながら微笑んでいるようだった。

滑りやすい粘土質の土は、どんなタイヤだろうと滑らせる。ちょっとアクセルをあけたり、ブレーキをかけるとスライドし、車体は真横を向いてしまう。とはいえ、この状況でコケても怪我するまではいかない。ただ泥だらけになるだけだ。激しくスリップダウンすれば、カウル付きのバイクはカウルを割ってしまう事になるかもしれないが…

この道は丘の人にとって、毎日登り降りする道だ。悪天候が続く日は、数日降りない日もあるかもしれないが、買いものにでかけたり、風呂にいったりする為には、通らなければならない。なので、自然とこんなものなのかという感じでズリズリタイヤを空転させながら、昇り降りするのだった。ある程度晴れの日が続くと、格段に昇り降りしやすくなるが、長雨が続くとなかなか個性的な道へと変わる。

その中で某塾長は、滑りやすい路面よりもっと滑りやすく、トレースする幅が極端に狭いクマザサの土手を、重くパワフルなエリミネーターで毎日何度も昇り降りする。それでなくてもちょっとオフの心得がないと苦労するような側道を難儀しながら登っている横を、レベルの違う速度であっという間に登り切ってしまう姿は、きっと相当なインパクトを与えるに十分な後ろ姿だった事だろう。

また友人の成っちゃんは、低い最低地上高のハーレーのエンジン下を、深い轍に擦り続けながら、足でこぎつつ登り降りをしていた。ハーレー乗りでここまでドロドロにして平気な男は、私は彼しか知らない。他にも雨天未使用という程綺麗に仕上げたカスタムニンジャなども、このドロドロの側道を昇り降りする。それが当然の事だからだ。

この側道はこれまでも、これからもこのままでいい。この路面で怖じ気づくなら歩いて荷物をあげればよい。別に誰も非難しないし、文句も言わないだろう。でも私はこの道を登る。そこに、バイクと共にいる事が自然なのだ。

天国へと続く道?その先には自分と同じように、この場所に何かを感じた旅人たちが待っている。

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2005年04月24日

骨がつながらない…

愛犬のくーの骨折が治らない。骨折したのは去年の12月3日。そして再骨折したのが今年の2月27日。正味5カ月弱もの期間、療養生活をしている。途中再骨折した時は、少し具合がよくなってきた時に、ふと足を草むらにひっかけてしまったのか、折角くっつきはじめていた骨がまたはずれてしまった。正直、これは飼い主の責任もある。

昨日いつもの病院に行ってきた。ゴールデンウィーク期間、毎年行っている益子の陶器市に行く予定にしているのと、犬仲間の人と1日くらいどこかで会いたいと思っている事から、くーの足の状態をみておきたかったからである。

診断は、何ともいえない状態だった。一度はずれてしまった事もあり、少々曲がってしまっている。そしてこれはレントゲンの角度だと思うのだが、スッパリ水平に折れているのではなく、斜めに割れるように折れている為、角度によっては上にかぶさる骨が、どの位その隙間を埋めているのかがよくわからないのだ。

今回はいつもより少し斜めだった為、隙間にモヤモヤが映っているのがわかった。そのモヤモヤは骨のでき始めであり、隙間のまん中だけ。これまでは端の方がもりあがるようにモヤモヤができていた。要は片方から繋がりだし、段々と反対側まで繋がっていくような感じだったのだが、今回のレントゲンでは片方のモヤモヤはあるのだが、それはよく見えず、まん中のモヤモヤが少しわかるといった所だった。

それはどういう事かというと、都合よく考えれば芯の方からようやく繋がり始めたという事。しかしまだまだ完治までは程遠く、この進み方だとあと2カ月はかかると思われる。また都合悪く考えれば、片方しかモヤモヤが出ていないという事から、片方から繋がりだしてはいるが、最後まできっちり繋がらず、裂け目がある状態で骨の再生が終了してしまう事だ。こうなると、またひょんな事で骨折する確率が非常に高くなり、激しい運動もできなくなってしまう。

くーはウェルッシュ・コーギー・ペンブロークという犬種だ。短足胴長なのだが、ものすごく運動能力がある。それは半端ではなく、かわいい姿だけでコーギーを飼うと大変な事になるというのが、飼って痛いほどわかった事だ。散歩の時間も距離も小型・中型犬では圧倒的に多い方で、タフだ。ディスクもエクストリームもアジリティも、この体格のクラスはジャック・ラッセル・テリアと上位を争う犬種でもある。

そんな子が大好きなドッグスポーツができなくなるなんて…考えるだけで悲しくなる。まだ望みは捨てた訳ではない。食事も考え、適度な散歩をしながら、我慢強く見守っていこうと思う。

写真は再骨折前の一度はくっつき始めた頃のレントゲン。一番左端の指、第二関節と第三関節の間の骨が、丁度スプーンの先のように線が入っている。ここが割れ目を真上からみた絵だ。よくわからないが、斜めにパッキリと割れてしまっている。

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2005年04月23日

苦情の電話が五万本

朝7時に起きて朝食を作り、9時にいつもお世話になっている動物病院へ。フィラリアの薬を出して貰う為に血液検査と、骨の状態を確認するためにレントゲンを撮り、診察を受けた。2番手だったのだが、なんと正味2時間もかかり、家に戻った時にはもう昼前になってしまった。

くーの足の骨の具合は何とも言えない状態だった。右前足の内側の指の、第二関節から第三関節間の骨が斜めに割れるように折れているのだが、一度くっつきかけた骨が1度離れたせいか、くっつき方が少々ずれてしまっているようだった。レントゲンをもう何枚も撮ってきたが、今日のアングルがこれまでのとちょっと違っており、ずれが目立ってみえたような気もする。

どちらにせよ、今日の診察でギプスがはずれるという事はなくなり、また1カ月毎日包帯を交換し、散歩も軽く歩くだけの散歩におさえることとなった。完全に治ると信じてきたが、ちょっと不安になってきた。治ってくれなければ、ディスクもエクストリームも楽しむ事ができなくなってしまう。何とか完治してほしい。

犬にとっての半年は、人では3~5年に値する。遊びたい盛りでこの仕打ちは痛いが、これも運命だと思ってとにかく完治を第一優先で飼い主は気を配らないとならないと、あらためて思った。

家に帰ってきてすぐ、会社の後輩から電話があった。社内にウィルスが侵入したかもしれない、との事で、すぐに課長に電話。確認した所、製品に問題がある可能性を感じ、調査を行う事を言い、電話を切った。まず色々なサイトから情報収集を行い、サポートに問い合わせメールを出した上で、会社のネットワークに接続した。

情報によると、どうも最新のウィルスパターンファイルにする事で回避できるらしい。しかし問題となった今日の朝7時半から11時頃までに提供されたパターンと取り込んでしまったPCは、CPU使用率100%となり、その後操作ができない状態に陥ってしまう事がわかった。その旨の全社通知と責任者向けメールを流し、社内の状況とパブリックな情報をチェックしながら合計7回情報更新をし、問い合わせメールに回答を行い、業務を自宅からおこなうはめになってしまった。実質その対応時間は4時間半。

状況の鎮静化が確認できた事で、とりあえず対応をすませたら、もう夕方になってしまっていた。疲れて少し眠ってしまった。その後、テレビ新聞ウェブのニュースでわかる通り、大騒ぎがいかに大規模だったかが報道されていて驚いた。今日は土曜日の為、社内でも出社している人数が圧倒的に少なく、午前中に限定されていた事から、それほど多くはなかった。しかし顧客先からの問い合わせは多数あったようだった。

今回対象となったウィルス対策ソフトは、私が社内のウィルス対策を手がけてからずっとこのベンダーの製品を使用している。競合他社の製品も定期的に製品の品質やサポートの対応、価格などを比較した上で導入している。しかし、今回のように大問題になったのは初めてではないだろうか。

正直、コンシューマ向け製品としてはダントツに品質もよかった。事実売り上げは同じ種類の製品では僅差だが常に1位をマークしている。しかし昨年度下期からこれまでのウィルス対策だけでなく、スパイウェアやアドウェア、ネットワークウィルス対応、感染後の自動復旧サービスなど、あらたな機能が多数取り込まれてきた事で、サービスの品質が極端に落ちてきているのを感じていた。

このような問題はウィルス対策ベンダーの担当営業やサポートに何度もクレームおよび機能改善として伝えてきたが、とうとうこのような大規模なミスを犯してしまった。ゴールデンウィークを前にして、企業の対応姿勢が問われる事になるだろう。今回のような事がおこることで、企業の受ける損失はあまりにも大きい。製品の使用許諾内容には、今回のケースのようなトラブルの責任はベンダーは負わないという事にはなっているが、信用欠落はいかんともし難い。

ウィルスや不正アクセスなど、悪意あるプログラムはインターネット上に増える一方だ、しかしこれらを防御する為にテクノロジーもどんどん発達している。いつの時代にも悪意ある者の存在は仕方ないものだが、これに対する防御システムへ投資する規模や、実践、品質を守る為の企業姿勢は、必須というか当然のレベルに達していると感じている。しかし、これらの設備投資や経費は売り上げに直結しない為に、常に後回しになっているのも現実だ。

このウィルス対策ベンダーに本日だけで問い合わせは5万件あったらしい。5万という数字を聴いて私は植木等の五万節じゃあるまいし、と思ってしまったが、真面目な話、この事件を今後どうフォローしていくかによって、この企業の生き残りがかかってくる事だろう。

写真は台北市内のMRT(地下鉄)に貼られた同社の広告。日本語じゃなくても何が書いてあるか雰囲気でわかってしまう。

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2005年04月22日

その男、和琴のおっと

キャンパーの友人は、基本的には公の場に出るのを好まない。人前に顔をさらすなんて事は、苦手と言っていい。キャンパーにもいろいろあって、今もファミリーキャンパーのように家族がキャンプを楽しんでいる所をホームページや掲示板に載せたりする事も多いようだが、基本的に顔がよくわからない程度の写真までしか載せないのが私の親しくしている友人達に共通して言える事かもしれない。

いわゆる、シャイという奴なのだろうか。恥ずかしがり屋で、時にはナルシスト寄りでもあったりする。そんな旅人の友人をここで切ってみようと思う。というか、事前に切ってもよいと許可をえられた場合か、既に顔写真をパブリックな場に公開している者に限り、書いてみたいと思う。

まずは、和琴のおっと、という男についてだ。

和琴のおっとさんは、「和琴」にいた「おっと」さんだ。おっと、という名前については、初めてロングツーリングに行く時に、相棒と2人で行ったらしく、その時に片割れの名が残っているそうだ。北海道ではいろいろなキャンパーネームというあだ名がつけられ、それで呼ばれているという話を先達から聴いて、変な名前をつけられるなら自分たちでつけていこう、とヘルメットの後頭部に、「おっと」「どっこい」と自らで書いたというのが始まりらしい。

どこをどう走ったか知らないが、和琴に沈没。レストハウスでのバイトなどをしながら長期滞在する事になり、そこで計画通り「おっとさん」と呼ばれていた。世話焼きで、料理も整備も一通りなんでもこなし、大柄な体格からもその存在は目立っていたようだ。またマンガ好きであり、旺盛な好奇心から当時最先端だったパソコンを手にいれ、大量にある本のデータベースを作ろうとしていたらしく、その頃からITに興味があったようだ。

ある冬、ジムニーにスタッドレスを履かせ、厳冬期の北海道に幕営旅行に出た。彼は浜小清水で流氷を来るのを待ち、和琴や鶴居でテント生活をしていた。その帰りの近海郵船フェリーの中で、偶然私の開陽台での友人と出会った。その友人は今では道民になっているのだが、彼が私に絵はがきを船内で書いていてくれたらしい。それをおっとさんは見ていた。

おっとさんは帰宅し、北海道にでかける前に始めたパソコン通信で、アウトライダーの小さなコミュニティに参加した。いや、実際はアウトライダーではなく、須藤カメラマンが主催のコミュニティだったのだが、そこの名にアウトライダーが使われていた。

その場所は北海道を旅している間に開設され、既にいろいろなツーリストが書き込みをしていた。自己紹介や旅の話など殆どリアルタイムに、今の生の情報を交換できるリアルさに没頭していく。しかしふとその中の一人の文章に目がとまった。どうもその内容は、どこかで聴いた事があったからだ。

しばらく考えて思いついた。それはこの前フェリーの中で会った開陽台のキャンパーじゃないか。彼が書いていた絵はがきは、このアウトライダーのコミュニティに参加している奴の手に届いているという事か。それに気づいてから、その事に返信をつけるまではあっという間だった。

私は突然の関係者の登場に驚き、すぐに掲示板には簡単な挨拶だけとし、本人と直接のメールをやりとりした。お互いがきっと顔をあわせた事がないが、同じ匂いのする旅人で、同じ趣味を持っている奴なのかもしれないが、実際どんな人間なのかわからない。ネットの怖さで、オフラインという場で会うまでは顔もあわせたことがないにも関わらず、古くから知っている友人に感じてしまう事に、当時はまだお互い気づいていなかった。それまでの文章だけで、相手を理解し、想像し、イメージができあがっていく。不思議な世界に興味を持っていく。当然、これは商用ネットであり、まだインターネットもごく特殊な人が利用している程度のものだった。

実際に会ったのはいつだったか。今では古い友人であり、相手が何を気にして、何をしたがっているのか、言わなくてもわかる仲だ。生年月日も約4カ月しか違わない、同じ世代の男が、北海道の旅とバイクとネットで繋がったのだった。

面白いエピソードがある。

ひとつは、1994年のゴールデンウィーク。私は八重山諸島の石垣島にある、米原キャンプ場にテントを張り、1週間程幕営生活をしていた。その時5月3日からの3連休に、地元の人々がそれまで静かだったキャンプ場に大挙して押し寄せてきた。私はその時、第4炊事場にベースを張り、その周辺に居た旅人と交流をしていた。その中で際立って濃いキャンパーが居た。カイ君と呼ばれる、Z750GPに乗る旅人だった。

私が町からキャンプ場に戻ってきて、自分のテントのすぐ近くまでファミリーテントが貼られた現場を見て、「なんだこれは、まるでお盆の和琴じゃないか…」と口に出して呟いた。すると、そのカイ君が、「和琴かぁ。和琴のおっとなら知っているんだけどな。」と同じように呟いた。…その瞬間、私ははじけるように笑い転げてしまった。こんな南の地で名が出てくるとは…和琴のおっと、おそるべし、と心底思った出来事だった。

もうひとつは、アウトライダーのコミュニティで、私やおっとさんはそれなりにアクティティブメンバーであり、書き込みも多かった。その為、多くのメンバーの人に、我々の名を憶えて頂いていた。

ある夏、和琴にはおっとさんや私の共通の友人が多く滞在していた。カヌーのスタッフをやっていた年だった為、レストハウスに関係して働いている者は全員身内だったと言っていい。

あるおっとさんの名を知るものが、おっとさんがいない時期にレストハウスに行き、「和琴のおっとさんって居ますか?」とスタッフに聴いたらしい。するとその中の一人が、「知らねえよ、そんなデブ!」と答えたのだった。その答えた一人は親しい友人の一人なのだが、開陽台においてもそうだったが私達の名を口に出して、訪ねてくる旅人が1人や2人ではなかったらしく、正直面倒臭かったらしい。

どちらもおっとさんが多くの旅人に印象を深く与え、慕われていたのがわかるエピソードだ。

彼のサイトを見ればわかる通り、今ではしっかりパパしている。でもバイクには乗り続けような。そして旅は続けていこうな。お互い、ジジイになるまで-

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2005年04月21日

湖畔の住人

昨日の日記で、富士山から富士山の麓で毎年やっているキャンプという話になり、和琴という場所話になってしまった。すると、和琴のおっと、という人からコメントがついてしまい、まさに和琴の事を書け、と言われているような流れなので、和琴の事を書いてみたりする。

和琴は観光地だ。まあ開陽台も観光地なのだが、いわゆる来るものは拒まず、という感じで和琴はとても寛大な気持ちで出迎えてくれる。しかし、開陽台はそうではない。特に自転車なんかで訪れた場
合、来た時と同じ位、辛い行程をかけて他の地へ移動しなければならない。それだけでなく、半数以上の旅人は、あの冷たく寒い霧と厚い雲に覆われた絶景でない開陽台に失望し、そそくさと丘をおりていく事になる。訪れるものに優しくない観光地なのだ。

和琴は最初の北海道ツーリングの年、1985年に訪れた。しかし観光バスと観光客に阻まれ、1枚写真を撮っただけで立ち去ってしまう。ここで1泊でもしていたら、また違う人生だったのかもしれない。しかし、私は和琴ではなく開陽台に向かった。

それは遠回りだったかもしれない。私がこのまま和琴に居れば出会ったであろう連中と、私は10年後の天竜川の河口でようやく出会う事になるからだ。この10年は、和琴と開陽台にはそれぞれの時間が流れ、それぞれに旅人のストーリーが綴られ、年をとっていったという事だ。時間を越え、時代を越えて繋がるという、壮大な物語とも言えるのではないか。

和琴ではこの10年間、どんな事があったのだろうかと思う事もあった。私の開陽台での10年は、確固たる目的地としての存在になり、この場所が多くの人生を交差させてくれたのだが、和琴でも多くの同じような出会いと別れがあっただろう。機は熟し1994年秋、私にとって記念すべき出会いというか、私が和琴の中に加わらせて貰ったキャンプがその天竜川だった。

実はその2年位前から、やはり和琴と交流のあった私の親しい開陽台の友人が、この集まりに私にも声をかけてくれていた。しかし時期的に私が会社で主催していたキャンプツーリングがあったり、体調を崩したりして、丁度10年目という節目の年になるまで、参加の調整ができなかったという事もあった。

その後は和琴にも立ち寄り、テントを張る事が増えた。確かにとても快適で、朝4時頃から騒ぐカラスがいなければ、カレンダーをなくしてあっという間に季節が変わっていってしまうだろうと思われる程の場所だった。そう、パラダイスと言うにふさわしい、平和で快適な場所、それが和琴だった。

今では和琴の人々もいろいろと生活が忙しくなり、和琴に訪れる事はとても少なくなったと思われる。開陽台にしてもそうなのだが、世代交代は進んでいる。しかし最近の常連さんが、こうして人生の半分近くを友人として付き合い、普段の生活の中でよりも、心許せる友人として付き合っていける友人をもてているのだろうか。私は何よりの財産だと思っている。

和琴と開陽台。道東エリアでは老舗とも言える、ツーリスト定番の地なのかもしれないが、1985年から2000年にかけて、私もひとつの時代を感じられた事を誇りに思う。年をとって、ヨボヨボになっても、カブみたいなバイクでふらふらと集まり、テントを張って酒を飲み、歌を歌い、焚き火を囲みたいものだ。

その和琴パラダイス、湖畔でのお茶の時間は、このように時間という観念が写真の上ですらない。

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2005年04月20日

同じ匂いのする旅人

いつもコメントくださる女神様のBBSで、富士山のネタにちょっとレスを書かさせて頂いた。某キャンパーの集まりに参加するようになって、今では富士山の近くで毎年定例キャンプをし、焚き火と歌というタイムスリップしたかのようなイベントがあるのだが、この写真もその1シーンだ。

私はお酒に弱い事もあって、晩秋のキャンプでは寒さが身にしみてくると、いそいそと一人先にテントに戻り、冷えきったシュラフにもぐり込んで震えながら暖まるのを待った。薄いナイロンの壁を隔てて、ほんのりと焚火で照らされたテントの向こう側から、歌い声や笑い声が聞こえてくる。それを聴いていると、ウトウトと気持ちよい眠気に包まれる。

私は北海道にソロツーリングにでかけ始めたのは1985年の秋だった。そしてその翌年、日本縦断の旅をしたのだが、1988年には仕事に就き、それまでのような長期間の旅ができなくなってしまった。合法的に1カ月以上の期間で旅ができた、とても気楽な時期だったとも言える。実際この頃の私は開陽台を目指す旅人の一人であったが、多くの旅人は自分が落ち着ける場所をみつけ、旅をしていた。和琴半島の民間キャンプ場もそのひとつだ。

和琴は町からも程近く、キャンプ場も民間の為、最低限のものは敷地内で手に入る。無料の露天風呂すらすぐ近くにあり、いわゆる設備の整ったキャンプ場だった。そしてただ便利なだけでなく、屈斜路湖が広がり、ロケーションも最高と言ってもよかった。

目の前には静かな湖が広がり、後ろは林があって建物も見えない。俗世間から切り離されたパラダイスと言ってもいい程の快適なサイトだった。ここに、今でこそ長い使いになった連中が、私が同じように厳しい天候に耐え、町や風呂まで時間がかかる不便な場所である開陽台にすっかり自分の居場所を見つけていた頃、同じようにキャンプ生活をしていた。

彼らは1988年から、内地で年に2度集まってキャンプをしていた。主に東海地区で行われ、何をするでもなく、集まり、テントを張り、酒を飲み、歌を歌い、焚き火を囲んだ。このイベントは、時には集まれる人数が少なくなったりもしたが、今でもしっかり続いている。

逆に開陽台のキャンパーの知り合いにもいろいろなグループがあって、私が親しくしていた連中は特に集団意識はなかったが、丘にあがればよく会話をし、星を見上げた。この頃、お盆の数日だけ再会するようなグループは数えきれない程あったようだが、それなりに長期間滞在していた大きい集まりは3つだったと思う。みんなどうしているのだろうか。ある意味、ハイジが我々の情報中継をしてくれているとも言えるが、皆当時は20歳前後だったとすると、今はそれなりに仕事でもポジションに責任がかかってくる頃だろうし、そうそう旅にも気軽に出られなくなっている事だろう。

私の知り合いのキャンパーは、髭がぼうぼうでも、ナリは汚くても、実はとてもデリケートな感性をもっている者が多い。声はどこにいても周りに聞こえてしまうのだが、テントの薄いナイロンで、とりあえず最低限の部分だけは見せない、という部分がある。自分がそうであるように、周りに迷惑をかけたり、かけられる事を嫌い、さりげなくその場から立ち去ったりする事が、同じスタイルのキャンパーは持っている。

まあでも、あいかわらず広いテン場なのに、人が張っているテントのすぐ近くにわざわざ張ったり、周りにはまる聞こえなのに夜テントの中で大声でしゃべっている者とか、まったくマナーや配慮に無縁な連中も必ずといっていいほど居る。しかし、必然的に同じスタイルのものは相手に同じ匂いを感じるのか、すぐに名前はしらなくても、目があえばお互いニヤリとし、友人になってしまうものだ。

この旅や幕営生活で知り合いになった友人とは、一期一会ではなく、必ずといっていい程、約束や計画をしなくても再会してしまう。学生時代の友人や、会社の友人とは比べものにならない程、決定的な共通の意識が、あっさりとしている人間関係に見えて、言葉が不要な程深い絆で繋げていてくれる。

私は旅で知り合い、同じ匂いのする、デリケートな友人達を大事にし、これからも信頼しあって付き合っていきたい。焚火と歌と酒は、その繋がりに不可欠な要素なのかもしれないと思っている。

今回はあえてハイパーリンクをあまり使わないでおいた。同じスタイルのキャンパーは、人目にさらされるのを好まない。なので、あえてはっきり書いていない部分もある事を記しておこう。

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2005年04月19日

ウチナーバーガー

今日はお昼前から某ソフトウェアベンダーの新製品デモを見に六本木ヒルズへ。

弁当を食べてからオフィスを出るにはちょっと時間が足らないと思い、乗り換え駅の汐留で少し早い食事をとる事にした。駅に隣接しているビルへ入る。どれも普段よりかなり予算オーバーなので悩む。定食を扱っていそうな店に向かうが、途中カレー屋に呼び込まれ、さっさと食べて行くならカレー屋でいいかと思いなおし、入店。この夢民という店、自宅の近くに昔、汚いお店を構えていて、すぐ近くに移転し小綺麗になったお店のチェーン店。何だかいきなりいろいろな所でこの屋号をみかけるようになった。

よく並んでいるので美味しいのかもしれないと思っていたが、初めて入った。インド式カレーと書いてあるが、出てきたカレーはどこがインド?というものだった。正直、もっとインドらしいカレー屋は沢山ある。ベジタブルカレーとダルカレーとチキンカレーなど3種類を食べ放題でラッシー付き、なんていうカレー屋にはよく入ったが、正直なんで行列ができるのか不思議だった。まあ好みの人もいるのかもしれないが…

大江戸線で六本木へ。久しぶりに来るが、丁度昼時だったのもあって、サラリーマンや観光客が町にあふれていた。六本木に夜遊びに来たのはもう18年位前か。若かった頃だ。会社に入って先輩と飲みに行ったりしていたのだが、もうそんな事でお金を使う事もないだろう。

六本木ヒルズに来るのは2度目。前回は、台湾ですごく美味しかった魯肉飯を食べたくて、バイクの友人のすぅさんに教えて貰った髭鬚張魯肉飯をテイクアウトしに来たが、いきなり迷ってしまった。今回は事前に場所を調べていったのでスムースに到着。今後の仕事に反映させなければならない材料を数点仕入れて直帰した。

六本木からバスで帰ったのだが、ふと昔六本木にはハーレー乗りが集まるザ・ハンバーガー・インがあった事を思い出した。入った事はなかったのだが、普通のハンバーガーではなく、アメリカンハンバーガーなので、皿にハンバーガーが盛りつけられて出てくるのだが、ふと食べたくなってしまう。

ハンバーガー屋は数多くあれど、やはり今の時期だとJefを思い出す。ゴールデンウィークには八重山へ、というパターンが数年あったのだが、以前は石垣にもJefがあって、必ずぬーやるバーガーとゴーヤーバーガー、そして正直おいしくないのだがゴーヤーリングを頼んだ。やはり沖縄や石垣ではA&Wもその昔、日本縦断の時に愛用していたがここのオニオンリングもおいしくないが頼んでしまう。いや、おいしくないというか、私の口には油っこくてあわないと言うのが正解かもしれない。

ゴーヤーバーガーもぬーやるバーガーも、最初出会った時はちょっとした衝撃だった。怖いものみたさに食べてみたのだが、これがなんともいける味である。正直クセになり、訪れる時は必ず1度は食べていた。しかし残念ながら石垣にあった店はなくなってしまったようだ。

まだ食べた事がない方は、是非ご賞味あれ。タマゴでゴーヤをとじ、ランチョンミートのしょっぱさがバンズによくあって、沖縄を感じられるはずだ。

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2005年04月18日

貧乏キャンパー食

ちょっと重い話を続けたので、下らない話を。

若い頃、丘の滞在日数が長くなると、東武で安いものを買い込む事が多くなる。私も別に誰に聞くまでもなく、1986年から東武を愛用していた。その後、休業日に仕方なくA-COOPやヨーカドーを使ったが、9割は東武に向かい、何不自由なく買い出しをして丘に戻る、という事を繰り返していた。まあ途中お世話になっているバイクショップに寄ったり、風呂に寄ったり、るっくやタケウチカナモノなどに寄ったりするのだが、まあ東武は一番立ち寄る回数が多かった、中標津市内の施設じゃないかと思う。

ダイエー系なので、毎月1日は一の市が催され、100円均一のコーナーで必ず数品買い物をしたりする。その中で生ものを数日買い置きできない開陽台では、インスタントやレトルト食品を数点必ず買い込む、というパターンになってしまう。その時に妙に手が出るのは、安売りのホンコンやきそばとダブルラーメンだった。

マルタイの棒ラーメンなども安くなった時に買ったが、ウマイ訳ではなくて、とにかく腹をふくらませればよいというものだったと言っていい。朝っぱらから、インスタントラーメンも食べたが、やはりパンとコーヒーというのが朝のメニュー。お昼はハイジかラーメン、夜は米を炊いたりスパゲティを茹でたり、といった所だろうか。まあたいした食生活ではなかった。反面、シェフフクちゃんが居る時は、ご相伴をあずかる日も少なくなかった。明らかに和琴より土地柄もあって、食生活の水準は低かっただろう。

たまに痛んだ果物とかが半分で100円とかで出たり、賞味期限が近いデザートなどがちょっと贅沢だったが、何せお金をかけなかった。たまにお店で食べるものはちょっと豪華であったりするのだが、それも会社員になる前は貧乏だった。ハイジーでもライ亭しか食えなかった頃もあったが、ライ亭すら高級だったかもしれない。

貧乏な北海道の旅人は、きっとこれを食べた事があるだろう。それが、東京ではめったにみかけない、S&Bのホンコンやきそば。懐かしい思い出のメニューだ。

その愛着のある東武が、バイパスの方に移るらしい。中標津も随分変わっていくが、旧国道沿いへの愛着の方が、個人的には強い。

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2005年04月17日

旅の始まりと行く先

今日は伯父の四十九日の法要。昼前から夕方までお寺にでかけた。上下ブラックスーツだったので、日差しの下だと汗ばむ程の暑さだった。5月下旬の陽気だったらしい。ここ本当に気温差が激しく、調子が狂ってしまう。その間、くーは留守番だった。

帰ってきて疲れたので少し休憩。夕食前にまたウェブの続きをしようとPCルームに籠もったのだが、結局材料がなくて古い写真をあさっただけで夕食時間になってしまい中断。先が思いやられる。できればGW前に形をつくりたいのだが、この調子だとどこまで進められるか…

その作成中のウェブページは、。ハイジーの家のオフィシャル・サイト。ハイジーの家ができた1986年は、日本縦断の旅の中だったのだが、。ハイジーの家には立ち寄らなかった。まだ北海道の事を何も知らなかったくせに、新しくできる施設に妙に反感をもっていて、入ろうともしなかったのだった。この事は後にかあさんに毎年のように責められたのだが…1987年の旅では、しっかり。ハイジーの家に入り浸る事になった。

丘の上はまだフリーで、柵もなく、カメハウスの横までバイクを横付けする事ができた。悪天候の日はカメハウスの中で寝る者もいたようだが、私は基本的にテントで過ごし、夕食時だけはその時会話した旅人たちと取る事が多かった。そんな中、多くの人が訪れる場所という事もあって、問題を起こすものも多少出てきてしまうのは仕方がない事だ。とりまきができたり、グループ意識が強くなり排他的になり、いわゆるヌシ的な存在が登場してくる事は、当時の北海道各地ではお決まりのパターンだったようだ。

私は深く関わりあわなかったが、。ハイジーの家にいるといろいろな話を耳にする事になる。特に80年代後半から私も夏から秋にかけて毎年訪れるようになり、いろいろな知り合いが増えていったのは確かだった。基本的にはソロの集まりばかりなのだが、多くは20歳前後の若者が殆どという事もあり、その精神年齢の差には幅が出てしまう。

私は1986年にこの丘で出会い、摩周湖で泳ぎ、数日を一緒に過ごした連中とは、何年もしてから1人と再会したのだが、本当の深い付き合いになったのは、1987年の夏の終わり、一人の男と出会った。彼の名はしいたけ兄ちゃん。彼の話は個人情報保護に抵触する為と、長くなるのでここでは割愛するが、彼を介した旅人との知り合いが広がり、今の私があるといっても言い過ぎではない。この丘で私の旅人としての方向性が、決まったのは確かだ。

その運命の夏の終わり、私は開陽台に連泊する一人のツーリストだった。この写真のように多くの旅人がそれぞれの旅を楽しんでいるが、この中で何人、今も旅を続けているのだろうか。

旅は若き日の1ページなんかじゃない。旅はシナリオのないノンフィクション。ハッピーエンドになるか、バッドエンドになるかはわからないが、自分の物語はひとつしかない。旅をしていれば、その物語はずっと続く。自分がその物語を終わらせようと思えば、旅を終わらせればいい。簡単だ。

私は無職になってまで旅をしていた訳ではないが、それなりに自分が許す範囲で、時間のある限り旅の為の資金作りと旅をしてきた。当時はそれなりに一生懸命だったのだが、今思い返すとまだまだもっと旅をしておけばよかったと思う。それだけ旅は面白いものなのだから。

そうこの夏の終わり、この丘で「よんきち」は生まれたのだ。

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2005年04月16日

ウェブページ作成

開陽台に毎年、季節を問わず上るようになった話はまだ具体的に書いていない。

というか書いてもどこからどう書いていいかわからない程、長い事ライフスタイルとしてきた事の為、なかなかうまくまとまらない。思い出せない部分すらある。なので、早いうちにコンテンツとしてまとめないとと思いつつ、自分のウェブページというものに対して必要以上に構えてしまう。そのせいか、何度も挑戦しては納得ができず、放置という事をもう二桁を越える位、繰り返している。

ウェブページについては、ボランティアで人のサイトを立ち上げた事は既に二桁を越えている。ビジネスで手がけた分はまだ少ないが、なぜか自分のサイトとなると進まなくなってしまうのだ。私のPCにはその残骸がいたる所にあり、それすら整理がつけられない。

同時にある時から私がウェブマスターをしている(はず)、開陽台ハイジーの家のウェブサイトを先に何とか仕上げたいと思い、重い重い腰をあげた所だ。このサイトについても、今まで何度かとりかかったのだが、納得できず破棄した事が何度もある。とりあえず中標津商工会におられた旧管理者の方が転勤になった為、掲示板の運用を頼まれ、そしてハイジーの家のかあさんにも頼まれた事で、私のドメインでトップページと掲示板だけを動かしているままだ。

かあさんには、私が昔使っていたMacintosh Performa5220にMacOS8を入れて、Internet ExplorerOutlookExpressを設定し、自宅に設置しに行った。地元のISPと契約して、送られてきた設定資料と未開封のISDNモデムがある状態で接続設定をしにいったので、設定に相当な時間がかかってしまった。夕方から設定しに行き、夜になってもまだ終わらず、途中夕食をご馳走になったが、設定が終わったのは夜23時すぎだった。しかしこれでかあさんが自宅からメールのやりとりをし、ウェブサイトが見れる環境になった。

その夜、とうさんの運転する車で、丘のテントサイトまで送って貰った。シュラフに潜り込んだのは、0時半頃だったと記憶している。なぜかボクちゃんもずっとつきあわされていた。その後かあさんは、パソコンを使いこなし、私の心配をよそに掲示板への書き込みやメールのやりとりもどんどんマスターして活用していった。今は私のオンボロMacはその役目を終え、Windows機になり、快適になったようだ。

こうして家族付き合いさせて頂いている事もあるが、何より私の運命的な出会いであった場所である、開陽台のウェブページを作るという事は、すごいプレッシャーがあった。その為、自分のサイト構築並みに、しっかりしたものを結果として求められているという認識の元に、長年足踏み状態になってしまっていたのだ。あと同時に、自分がウェブページ作成に限らず、俗に言うスランプに陥っていた事も大きな要因だ。

仕事の面で、いろいろ心配事や悩みが重なり、自律神経失調症と診断されるまで落ち込んでいた。いた、というよりも今でもまだそうなのだが、自分の中で考えがまとまらない時期が長い事続いている。これもひとつの言い訳なのだが、やはり大事に思っているサイト構築にあえてそんな状況の中、今とりかかっているというのは、それなりに理由がある。

ハイジーの家は、今期で20周年を迎える。そのオープンは今月末だ。それまでには何とかオープンしたいが、とりあえずまとまった時間が取れる、ゴールデンウィーク期間をターゲットに進めようと思ったのだ。

しかし思いのほか写真がない。かあさんの写真は山ほどあるのだが、飲食店のウェブサイトとしては少々材料が足らず、難儀しているのも確かだ。かあさんにお店の情報を全て聴いている訳ではないので、とりあえず作ってかあさんにチェックをして貰い、公開へというスケジュールで進めようとしている。

ここまで気合を入れてこんなものか、と言われる出来になるかもしれないが、とりあえずリニューアルをする決心を自分でつけ、何とか完成にこぎつけたいと思っている。

写真は旧ハイジーの家のベランダで至福のひとときを味わっている私。

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2005年04月15日

幸せの黄色いハンカチ

ご存じ、山田洋次監督の映画だ。山田洋次監督と言えば、「男はつらいよシリーズ」でひとつの邦画の時代を築き上げた方であり、また最近では2002年に監督を勤めた時代劇作品「たそがれ清兵衛」は、2004年度のアカデミー賞にもノミネートされた事が記憶に新しい。

山田洋次監督は、北海道を舞台にした人情溢れる映画をよく撮られていた。その中で、中標津は開陽台も舞台のひとつに選んだ「家族」という映画もあり、私にとって邦画においてとても興味のある作品を多く手がけられている。そのひとつ、「幸福の黄色いハンカチ」という1977年の映画が、今日デジタル・リマスター版としてテレビで流れている。それを見ながらこれを書いている。

当時の北海道の町や風景が映画の中に残っている、数少ない作品だ。若き日の高倉健が主役で、同監督の作品では何度もヒロインを勤めている賠償千恵子、武田鉄也や桃井かおりが脇を固める。当時ベストセラーとなったマツダ・ファミリアでロードムービーよろしく、道東から道央へ旅をしていく。

かの有名な倉本聰監督の北の国からは、ご存じの通り富良野を舞台に大ヒットしたドラマである。ストーリーの重さよりあまりに日本離れしたロケーションのせいか多くの旅人を富良野へ誘った。北海道というのはやはり寒い北のイメージからか、演歌に近い暗さと深さが似合うのかもしれない。

私が北海道を深く感じたのは、以前書いたかもしれないが、炭鉱の町に立った時だった。それは夕張ではなく、上砂川だったが、夕張はどちらかというともっとメジャーな炭鉱の町で、当時どちらの炭鉱もまだ稼働していたので、繁栄のあとは残っているだろうという勝手な解釈だったのだが、その後夕張をしっかり見ようと思って訪れた時、上砂川よりもはるかに大きな衝撃を受けた。その繁栄から過疎へのギャップを町のあちこちから感じられたのだった。これも北海道の歴史そのものなのだろうと。

今回あらためて見て気づいたのだが、夕張に入る前、銀座カンカン娘が歌われているシーンが、なんと悲別ロマン座の前でのロケだったようだ。私はこの悲別ロマン座で最初の波におそわれた。中には保存が進み、中にも正式に入れるようになっているようだが、当時は足の踏み場もない程崩れており、中に入るには危険を感じた位だった。2度目に訪れた時は中央の屋根が崩落していたが、きわめて旧型の映写機が、映写室に残っているのをみつける事ができた。

この映画では、夕張の町の中は子供達であふれ、商店街はにぎやかに人々が行き交っている。これだけの人々がこの町で生まれ、育ち、そしてどこかに移っていったのだという事を考えるだけで、胸が熱くなる。

そして、この映画が作られたあと、エンディングの黄色いハンカチがたなびく長屋は、手は入れられているものの残され、誰でも自由にみる事ができるようになっている。建物の中は、沢山の黄色い紙に旅人のメッセージが壁や天井が見えない程貼られ、武田鉄也が運転したファミリアも収容されている。ベタな観光施設だが、今では訪れる人も少なく、静かに佇んでいる

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2005年04月14日

旅するカブ

先日知り合いの方との会話と、友人のサイトで、カブの話題が出た。町中で旅仕様?なカブをみかけたという話だ。カブは言わずと知れた、ホンダの世界に誇るバイク、スーパーカブの事だ。もっぱら、一般にはそば屋のおかもちカブ、郵便配達の赤いカブ、新聞配達のプレスカブなどが有名で、働くバイクとも言われている。

見た目もレッグシールドと言われる白い横に張り出した部分がオヤジ臭いと言われるが、実はとても機能的にできていて、小雨やはね上げる小石や泥から洋服が汚れる事を防ぎ、スーパーで買い物したあとの袋を、ばたつかないようにぶら下げるフックも裏についていたり、寒い日は風よけになる。

クラッチレバーはなく、ロータリーミッションを使い、右足だけでシフトアップ・シフトダウンができる。スクーターのように遠心クラッチより、エンジンブレーキなどを効かせ、速度調節も楽にできる。通常左右にウィンカーやヘッドライトスイッチなどが振り分けられているが、左手をフリーにさせる事ができるように、右にスイッチ類が集中している。キャリアもしっかりしたものがつけられ、必要十分な動力性能が与えられている。

そしてホンダを代表するテクノロジー、低燃費が加わり、それこそ灯油ストーブみたいなシート下のガソリンタンクにひとたびガソリンを満タンにすれば、実走で50km/L以上という低燃費で、ガソリンタンクの小ささをカバーし、長距離を走る事だってできる。

このカブを旅の足としてつかう旅人は少なくない。ユーラシア横断や、渡りとい言われる北海道と八重山を季節にあわせて長い旅をする者など、低予算で長期間旅をする旅人にとってこれ以上最適な車種はないとも言える。そんな旅にどっぷり漬かれるカブは、いつか乗ってみたかった。そして友人のカブ90カスタムを借りて、秋の北海道を走った時にその決心が固まった。

丁度、開陽台ハイジーの家の旧店舗最後の閉店パーティにあわせ、妙な拘りからバイクで行く事を考えていた。フルスケールのバイクは何台かもっていたが、何故か小排気量で行きたかった。そして丁度その時、友人が察してくれてカブの90カスタム、セル付き角形ライトで、スピードメーター内にフューエルメーターを備えた、名前の通りカスタム版を使えよと言ってくれた。

私は人のバイクで旅をするどころか、試乗すらまずめったにしない。バイクとはそういうものというポリシーがあったのだが、今まで数回試乗させて貰った事はあれ、数日借りる事はなかった。それがカブだからという意味で少し気楽な気分で借りる事ができたという所が正直な所だろうか。何はともあれ、私はカブと共に有明埠頭から、近海郵船のブルーゼファーに乗り込んだ。

カブ90は、当時旅人の友人が乗っていたハンターカブ、CT110よりはるかに実用的なバイクだった。いわゆる働くバイクだ。本音を言えばCT110が欲しかったのだが、少々高すぎた事と、事実上新車を手に入れるのは大変だった事から、カブの購入を見合わせていた。しかしこの90で走る都内と道東は、思いの外快適であり、楽しかった。

この影響もあって翌年、CT110が無理ならば、という事から、一番ベーシックな丸形ライトでセルなしの90DXを買ってしまった。そして早速、荷物を沢山乗せる為にある程度防水性能をもたせたケースをキャリアにドリルで穴をあけ、ボルト止めしたり、武川のレーシングショックに換装したり、バックミラーを小型のタイプに変更したり、いじって楽しんだ。旅やカスタムパーツのステッカーもいろいろ貼った。写真で見てわかる通り、ナラシ後マイクロロンも入れたし、工具もスナップオンを使ってはいたが、さすがにEARL'Sのホースやカストロールのオイルはハッタリだった。

その翌年の夏、和琴で友人の結婚式があり、この自分のカブ90DXで北海道に行った。林道や旅先で食べたメロンのシールや、泡波のラベルを貼ったりして、妙なバイクになってしまったが、旅にでる毎に妙なステッカーやシールが増えていってしまい、妙にうるさくなっている。

この写真は帰りのフェリーに乗船前。ライディングスタイルは、しっかりツーリング装備というのがアンバランスだが、私が乗る場合はこんな感じになってしまう。逆にビーチサンダルにドカヘル、短パンにタンクトップで八重山を走るのも嫌いじゃないが…

長く付き合えて、壊れないスーパーバイク。似たようなバイクあれど、ホンダのカブがやはり頂点に君臨している。よくハーレーはバイクじゃない、ハーレーだ、という言葉も聞くが、カブもそうなのだ。

そう、カブはバイクではない、カブなのだ。

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2005年04月13日

冷たい雨

今日も冷たい雨が振ったりやんだり。朝6時すぎに家を出ると、何とか傘をささなくても歩ける程度の小雨が降っていた。長年使っているモンベルの折り畳み傘をバッグに入れ、バス停に早足で向かう。水溜まりをタクシーが遠慮なくはねて行く中、バスを待つのはあまり気分のよいものではない。

毎日、行きはバスを2本乗り継ぎいだあと、電車に乗り、職場へ向かう。帰りはバス1本分を少し早足で時間をかけて歩くようにしている。あまり効果はないかもしれないが、ささやかな運動のつもりだ。電車だけで通勤する場合は、バスを使う以上に歩かなければならないだけでなく、とにかく日本有数の乗車率を誇る電車でもある事から、とにかくストレスがかかる。それならば、少しばかり時間がかかったとしても、バスを使う事でちょっとした旅気分を味わいながら、本を読んだりパソコンを打ったりしながら過ごす事ができる。

雨の日は窓が結露して、なかなか外をみる事ができない。手のひらで少しばかり結露面をぬぐい、その間から雨に煙る町や、行き交う車をぼーっとしながら眺めているのも嫌いじゃない。何を考えている訳でもなく、ぼんやりと目線を雨の町に向けているだけだ。

雨の中、バイクや車で旅をしていると、休憩をとらない訳にはいかない。といっても休憩が多い訳ではなく、逆に休憩する回数は極端に減ってしまう。人間の生理現象で、トイレや食事などで仕方なく休憩を取る時は、結構さあて停まるぞ、とか、さあて走るぞと気合をいれなければならなくなる。

そんな時に写真を1枚、とっておくと後でその時ぼんやりと休憩していた時間を少しだけ思い出す事ができる。時にはレインウェアを着脱する事であったり、我慢していたトイレだったり、手がかじかんで動かなくなっている手で、濡れないようにカメラを取り出し、結露しないように気を配りながらシャッターを押す。コンパクトカメラだと、ピントが雨だれのついた窓にあってしまい、撮影した意味がなくなってしまう事もよくある。マニュアルフォーカスのあるカメラがやっぱりいい。

暖かくというか暑くなったあと、また冷たい雨にずっと降られていたような感じがする。日中はオフィスの中にいるが、ちょっと銀行に行こうと思い外に出ようとロビーまで降りると、激しく横殴りの雨が降っていた。海にかこまれている場所なだけに、風が強く雨が降ると傘が役に立たなくなってしまう事が多い。

海沿いは風が強い。高知の中村から室戸岬までや、日本海の親不知周辺、増毛から留萌、羽幌あたりまでのオロロンライン、稚内から網走までのオホーツクラインなどが、経験上強い印象として残っている。冷たい雨の中、結露したバスの窓を見つめていると、旅先での雨の情景を思い出すのは、一種の現実逃避か、はたまたデジャヴか…

写真はわかる人にはわかる、宗谷岬駐車場脇のみやげ物屋の中から。雨に濡れる我が愛車が凍えている。オーバークール気味な夏だった。

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2005年04月12日

偶然の出会い

旅で出会った人と、その後再会したり、親しくさせて頂く事は楽しい。それが普段の生活スタイルの中からはまず交差しない人生である人と出会い、そしてよい知人関係になれる相手だともっとその出会いに価値が生まれる。不思議なものだ。

LIVING WITH DOGSというサイトがある。犬を飼い始める前から、犬との生活について、いろいろウェブサイトを探しているうちによくヒットしたサイトだ。その内容はとても深く、素人の私にとってはとても尊敬できるサイトだ。真面目に犬と一緒に生活するには、どういう事に気を配り、そしてどういう楽しみ方があるかという事を真剣に取り組んでいる。そしてコンテンツの豊富さは他に類を見ない。非営利というスタンスからも、その思い入れが感じられる。

いろいろ勉強させて頂いた。我が家のお気に入りにも、気がつくとLIVING WITH DOGSというタイトルが入ったページが複数、登録されていた。とにかく犬を飼う事、犬との生活の情報、犬とどんな事が共に楽しめるかなど、情報に飢えていたとも言える。くーを迎えるにあたり、何が必要かをところかまわず吸収しようと思っていた。

そんなある日、神戸にくーを連れて、初めて公共交通機関を使い、ドキドキしながら山手線に乗り、品川駅で新幹線に乗ろうと、リザーブした新幹線を待っていた。おとなしくしていてくれるだろうか、まわりに迷惑をかけないでいられるだろうかと、ホームでそわそわしていると、一人の女性が後ろで歩みを停めて、くーが入っているクレートを覗き込んで微笑んでいた。

犬がお好きな方なんだろうと思い、話かけると、しばらく話し込んでしまった。これから神戸に向かうという事、犬を飼い始めてまだ半年ちょっとという事、初めての電車旅行だという事など。その女性はにこやかに、おとなしくしているくーを優しい目で見ては、大丈夫と励ましてくれた。

結局乗車する新幹線がホームにやってきて、車両の最前列のリザーブした座席に収まり落ち着くまで、その女性はホームから窓ごしに私たちを穏やかな微笑みで見守ってくれた。その優しさに手を振って、別れた。

実はホームに電車が入ってくる直前、その女性は1枚の名刺を下さった。そこには、犬がソファの上で寝ているかわいらしい小さな絵と、LIVING WITH DOGSという文字と、本名が書かれていた。え?このサイト知ってる。まさか、と思ったが、毎日のように見ていたサイトの主催者の方だったのだ。

別れ際、ぜひレポートを書いてください、と言われた。私は必ずといい、握手をさせて頂いた。

約1週間近い神戸旅行から無事帰ってきて、さっそく写真を数枚ピックアップして、その女性にメールを送った。優しさへのお礼と、簡単なレポートによる、旅の報告をさせて頂いた。すると、その旅のレポートがLIVING WITH DOGSのサイトに掲載されてしまった。

見本とし、いろいろな事を教えて下さったサイトの方と偶然知り合ったおかげで、まだ犬との生活に対して未熟な私のレポートがその方のサイトに置かれるなんて、思ってもみなかった。経験した旅が、いつしか同じように公共交通機関を初めて使う旅をする方の参考になれば、これほど嬉しい事はない。

年賀状のやりとりなどをさせて頂いていたが、しばらく連絡はとっていなかったある日、その女性からメールが来た。どうも雑誌の取材に協力してほしい、という事だった。私たちが協力できるならと、いろいろテーマの材料を揃えて取材の場にいそいそと出ていった。犬との旅に関する記事の取材だった。

そうして、しばらくその取材の事も忘れていた今日、その女性から電話があった。どうも、取材元の不手際をご自分の事のように詫びたいという事で、わざわざ電話をして下さったようだ。私としてはとんでもない事で、こちらが恐縮するばかり。こうして出会って1年以上たっていても、犬を通して知り合えた方と、繋がりあえる喜びをしみじみ感じていた。

家に帰ると、その本が届いていた。JAF出版の、「ゆとり旅 ゆとり旅 いつも愛犬といっしょ」という税込みで3900円もする分厚く高額な本であった。その本は、来月には発売されるだろう。沢山のくーの写真と、くーと初めて電車での旅をし、素晴らしい女性と出会ったきっかけとなった旅の出来事がレポートして掲載されている。

旅で出会う人とは、いろいろな幸せをくれる、とても大事なものだ。


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2005年04月11日

道は繋がっている

道というものは、必ずどこかにつながっている。そう、自分の家の前の道でさえ、海に遮られる事はあっても、フェリーの航路でつながっている。自らタイヤというゴムの固まりが転がりだせば、一筆書きよろしくアスファルトやコンクリート、砂利や土というように路面状況は変わろうと、必ず地球上の殆どの場所へつながっている事になる。

自分の足でも、それは同じ。地球上のどこだって、航路さえつながればどの大陸でも行ける。飛行機という空の航路でさえ、つながる事になる。不思議なもので、それが自転車やバイクという乗り物と出会う事で、突然自分の前に扉が開かれて誘われるが如く、どこまでも行ってみたくなるものだ。

旅をするようになって、どこに行きたいという事でもなく、とにかく走りまわる事に魅力を感じるようになった。ブラインドコーナーの先にある風景は、どこも違うものだった。港町でも、それは同じようでいてどの海の表情も違っていた。出会う人も当然ながら、一期一会であり、その場所にしかいない人との出会いだった。

週末やちょっとしたまとまった休みになると、泊まりがけで旅に出た。関東近郊から、初めてのロングツーリングだった四国へ。四国への旅は、神戸までの距離が辛く、そして新鮮だった。睡魔との戦いと、慣れない前傾姿勢による体のきしみや、微振動から来る手の震えなど、辛い事ばかりだったが、これほど遠くまで旅に出た事はなかった事や、六甲の夕陽や瀬戸内の夕暮れと朝もや、黒潮寄せる海の美しさ、食べ物の美味しさなど、素直にこれまで見たことのない日本がそこにあった。

しかし自分がどこを目指しているのか、どこに行きたいのかよく分かっていなかった。その場所がおぼろげに見えてきたのが1985年。

最初は網走の農場に住み込みで働いた時に、その場所に訪れた。それはあきれる程まっすぐな道と、変わらない風景の道東。この場所はバイク乗りとして知っていたが、本当は初めてはバイクで来たかったという気持ちの方が強く、何故か意識がこの場所に訪れる事を拒否をしているような感じだった。この時、車の免許も仮免許で、仕事のあい間に農場の人が少し観光をさせてやろうという配慮からの訪問だった。天気は霧。何も見えなかった。

その夏の終わり、本当はバイク仲間と来る予定だったが、都合により私一人だけの旅になってしまう。私は半分意地になってソロで初めての北海道を走る決心をし、有明埠頭までの道を走った。すると、苫小牧行きの船は昨晩出航してしまい、今晩は出ないという。私の行くべき道はここで終わっていたのか、思ったが、窓口の人は釧路行きが出るという事を教えてくれた。

元々時計まわりで北海道を一周しようと思っていた予定を、私が走るべき道は反時計まわりで行けと言ってくれたようだった。それから始まる私と近海郵船というパラダイスへ続く海路との長い付き合いが、この日から始まったという訳だ。私はさろまという船に乗り、夜半に東京湾につながる海上の道を船と共に走り始めた。

釧路西港からは、地図もよく見ないまま、釧路市内を迷いながら走り、R44に出る。そしてR272を走り、2度目の開陽台へ。やはり霧に迎えられたが、霧が風に吹かれた時、一瞬だったがこれでもかと広がる根釧原野をみる事ができた。この時、この場所に来る事は私にとって重要な意味を持つなんて思ってもみなかった。

丘を降り、そこにつながる道はとても有名な道だった。多くの人が写真を撮り、その場所に来た事を楽しんでいた。道の勾配がとても美しく、天へと続くように見えるまっすぐな道。なぜか、まわりには誰もいなかった。ここまで、自分のバイクで走って来た。それは自分の家から、この道も繋がっている、という事だ。

道というものは、途切れているものではない。必ず行き止まりでも、ループ橋でも、どちらかは繋がっている。そこの上を走る旅人は、当然ながら必ず出会うものなのだ。

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2005年04月10日

新宿区

私は新宿生まれの新宿育ち。実家は新宿駅から歩いて10分弱という所に住んでいた。我が家は古くからこの地に住んでいる一族らしく、3代以上続く事からまあ俗に言う「江戸ッ子」っていう奴らしい。チャキチャキとかいう表現があるが、随分違うような気がする。

小学校は新大久保のホテル街を通って徒歩20分かけて通っていたし、中学校は歌舞伎町や今コリアンタウンとして有名な職安通りを通ってやはり片道20分かけて通っていた。まあよくグレずに育ったものだと言われる環境だと言ってもいい。友人にはその筋の人の子も居たし、風俗店に囲まれた家に住んでいたのもいた。

とはいってもどうしようもないのは居なかったように思う。不良グループと言われるのは居たけど、話のわかる連中だったし、一時は写真部の暗室がたまり場化した時なんかも、ちゃんと説明したら納得してくれて出ていってくれた。その中で少々モメたのはいたが、主要メンバーの数名とそれなりに付き合えた私は、彼らの協力もあって喧嘩になったりいじめにあったりした事はなかった。まあそれ以前に小学校では少しはあったのだが…

私が思うに、よく新宿という場所はやり玉にあがるが、この地に住んでいる人々はそんなに捨てたものじゃないと思っている。東京の人は冷たいなんてよく言われるけど、そういっている人は東京に住んでいる東京以外の出身者に対してそう感じさせられているだけで、郷土愛のようなものを東京に感じていないからこそ、他人に冷たく土地に愛着を持てず、そういう事を安易に口に出しているような気がする。幼なじみはみんなおとなしく、近所付き合いもそれなりにあった。

私の実家のまわりは、一時期ひどくスラム化した。まあ俗にいうガキが集まる店ができて、そいつらが夜中だろうが明け方だろうが騒ぎ、ゴミをまき散らし、ハメを外してまわりの事に気配りがまったくできなくなるような状況を毎週末繰り返していたせいだ。その店がなくなるまで私は相当ストレスを感じていた。丁度受験の時期もあったし、治安が悪化して気が気ではなくなった時もある。こんな地から早く離れたいと思っていた。

しかし今も母親は利便性を考えて離れずにいる。父親が残した家というのもあるのだろうし、病院が近くに沢山あるというのも理由らしいが、元々東北の生まれの母親は都心が好きらしい。反面私はそれこそ高校生位から既に山が近く静かな地、例えば八ヶ岳の近辺や北海道にいずれ暮らそうとずっと思い続けていた。

しかし仕事もあるし、生活基盤としては実家の近くの方が何かとよいというのもあり、今も新宿に住んでいる。一度家を出た直後に住んでいた家は大失敗したが、今は実家には歩いたら40分位かかる同じ新宿区にいる。しかしお台場にある会社には片道90分程かけて通っている。近くて遠いのも、東京の不思議の一つなのかもしれない。

今住んでいる所は比較的静かだ。某大学が近いせいか、今だに下宿が多い。それこそキッチントイレ共同で、30000円/月のような部屋が沢山ある。それはそれで仕送りをもらって地方から出てくる学生が住む環境としては正しいのかもしれないが、当然この時期になると学生は入れ代わり、東京に出てきて希望に満ちあふれている若者がそういう部屋に住むケースも少なくない。隣接する下宿で、マナーを守れない若者が現れるのもこの時期に多いのはそのせいだ。

今年はまだ現れていないが、これから気候がよくなってくると、窓を開けっ放しにして騒いだり、木造の家の中と電波の入り具合に何が違うのか、わざわざ物干し台に出てきて携帯ででかい声で電話しているのがいて、窓をあけて寝られない日もあったりする。このあたりは結局注意されて東京の人間はどうの、という発想が生まれるありがちなパターンではないだろうか。結局自分がしている事はおいといて、他人に言われた事やされた事だけをクローズアップして第三者に言う。そしてそれが一人歩きしていく。

私としては、日本のいろいろな場所をこの目で見て、その地の人と会話する旅がしたくて日本縦断とかしてきた事もあり、交通マナーで特定の場所は好きになれないというのはあったが、どこもそれぞれの文化や特徴があって好感を持てた。その地の人をひとくくりにして何かしら意見した事はなかったのだが、何故だか東京や大阪という大都市は、一括りにして意見される事が多い。

まあ今住んでいる場所はそれなりによいと思っている。97年の夏からもうそろそろ8年。いつか北海道や自然の多い地に移住する事を夢みながら、今を大事にしていこうと思っている。

写真は近所の酒屋でみかけたオリオン生ビールの山。この酒屋は圧倒的にオリオン生の割合が多い。名護の酒屋を思い出させてくれる新宿の街角、という日常で旅を感じられるのも、気に入っている。

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2005年04月09日

桜満開

朝から某医大に肺機能検査。自転車で行くが既に春というか初夏といった気候。新しくなった棟に自転車をつけ、検査フロアへ。受付開始50分前なのだが、既に1人来ていた。新しくなった病院は、私が2カ月に1度行っている別の医大と比べてやはり新しい分設備にお金がかかっている…というかシステムが新しい。エレベーターなんかも油圧式らしく遅い。ケーブル式よりは安全で振動も少ないのだろうが。

今回はレントゲンの検査もあるが、数年前から検査を委託されている人が変わったのか、ぎりぎりに来て先着順が曖昧になっていた事もなくなり、20分前には来て、事前に受付用紙入れも用意されている。その為チャチャっと検査を済ませ、10時前には自宅へ戻る。

朝飯も豆乳飲んで頭痛予防薬を飲んだだけだったが、お昼までもうすぐなので我慢する。ちょっと休憩し、昼は1.4mmのパスタで残っていたホールトマトとホウレンソウと豚バラ肉細切を炒めて何やらわからない料理を作る。ガーリックオリーブオイルと鷹の爪、具という順で炒め、ホールトマトを入れて塩コショー砂糖で味つけ。パスタをからめて出来上がりという感じ。

食後、神田川沿いまでくーを連れて散歩に行った。案の定すごい人だ。小さい橋がかかっているのだが、どの橋にも人だかり。川沿いに遊歩道があるのだが、ひっきりなしに人が通っていた。桜はというと、ほぼ満開。木によって散りはじめているのもあれば、まだ少しつぼみを持ったソメイヨシノも残っている。目的は写真を撮る事なので、とりあえずくーと桜を撮りながら、数枚桜だけも撮る。

2月後半くらいから桜の季節まで、昔はよく千葉は千倉にツーリングに行った。千倉の民宿に1泊し、海のものを食べながら、春が少し感じられる山が好きだったからだ。房総半島は思いの外、のどかな所が多いので好きだ。原付に乗りはじめて、初めて泊まりのツーリングに出たのもここ、房総半島だった。その時は国民宿舎に1泊したが、初めて自分のバイクでフェリーに乗り、初めて自分のバイクで宿に乗り付けてチェックインしたという事が嬉しくて仕方がなかった。しかし、林道走行の途中、至る所でゴルフ場をみつけ、がっくりしたのも憶えている。

桜と旅といえば、学生時代に親しくしていた伊那の友人の家にこの時期よく行った。周辺では高遠の桜が有名なので、桜の時期は大変な渋滞ができる。確かになかなか見応えのある風景だった。まだ見たことがないが、北海道は日高の二十間道路にある桜は一度みてみたいと思っている。

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2005年04月08日

暑いと思い出す島

暑い…今はまだ4月のはずじゃないのか?という言葉を口に出してしまう程の暑さ。東京は24度もあったらしい。本当におかしい天気だ。季節というものがどんどん境のズレをひろげ、いつしか生き物への影響が大きくなり、人類滅亡となる日も近くないのか…そういえば、開陽台の一番古い友人、S兄の子供の頃の夢は世界征服だったな。と意味もなく思い出してみる。

昨日は何だか相当気分がダウンしていて、愚痴っぽい日記になってしまった。今日は少し回復し、この気候もあって例年この時期に夢みる八重山の事を思い出した。今月末から一般サラリーマンにとって大きな連続休暇、ゴールデンウィークだ。八重山など飛行機でいかねばならない場所に安くそして確実に行く為に、発売日の朝から八重洲のANAやJALに並んだ事もあった。そして、しっかりと島を楽しんできたものだ。

八重山の旅の4度のうち、3度は出発した日の午後には、日本最南端の碑の前に立っていた。大抵初日に波照間に入り、2~3日ゆっくりして、一旦石垣に戻り他の島に同じような日数をかけて滞在し、後半は米原キャンプ場にテントを張り、バイクでうろうろするというのが定番だった。与那国は当時まだ飛んでいたYS-11で往復したが、他の西表や波照間、竹富などは全て高速艇だった。それもなぜかあんえい丸の航路があれば必ずあんえい丸に乗った。ファンキーな乗り心地を選ぶのは、友人の話があったからこそ。実際他の船会社のどこよりも、船長が海人っぽいから好きだ。

沖縄と八重山は私の中ではまったく違う。完全に言い分けている。八重山はそう、パラダイスのひとつだ。沖縄は沖縄であり、パラダイスとは違う。北のパラダイスは和琴という意見が私のまわりには多いが、不便極まりなく自然環境の厳しい我が開陽台こそ、パラダイスだとは思っている。要は私のお気に入りの地の事をそう呼んでいるとも言える。

北海道も八重山も、深い苦しみを持った歴史をもっている。一応、いろいろ歴史本や関連の話をみたり聴いたりした上で、八重山には向かう事にした。その中で、椎名誠監督のうみ・そら・さんごのいいつたえは石垣は白保に行ってみたいと思わせるには十分だった。

原付バイクで白保に行き、近くの雑貨屋でオリオンビールを買い、1日中海をみていた。たまに地元のオジーが小さいサバニを出して漁にでかけて行ったり、戻ってきたりしている位で、人も少なかった。リーフに砕ける白波が、はるか向こうで音をたてていた。そして、たまに空の上を石垣空港に着陸する飛行機が通過していく。いくらビールを飲んでも酔った気がしない。

大浜にある1771年にあった大津波で地上に残った津波石がある、という話を聴いて、見に行った。とてもそれが海底から陸に打ち上げられた石とは思えない大きさだった。そしてその岩を拝む、オバーの姿も見た。海と共に暮らす八重山の人々と、その歴史中で培われた信仰心というものに、感動すらおぼえた。島に引き込まれるきっかけになった最初の八重山の旅の出来事だった。

ゴールデンウィークとはいえ、日差しは強烈だ。噂には聴いていたが、バイクを走らせていると涼しい為、腕を出して日焼けしていても、暑いというより心地よかった。それがあとで大変な事になろうとは思ってもいなかった。八重山に入ってから毎日太陽にあたっていた事もあるが、バイクで石垣島一周や与那国島一周をしていた関係で、ハンドルに手をおいた形で、太陽があたる部分だけが酷い日焼けをしてしまう。皮がむけたあとにまた日焼けをし、完全に火傷状態になり、シャツすら着るのが厳しい状態になってしまった。

写真の白保でのまる1日海を見ていた時に、とどめを差してしまったようだ。帰ってから両腕の火傷で大変な事になり、引き続き会社を通院の為に休んでしまう。地元の人はまっ昼間に決して半袖を着たり不用意に肌を露出しない。まったく情けない状況になってしまった…

そろそろ八重山への旅の季節。でも今年もゴールデンウィークは旅に出たとしても近場になりそうだ。また是非、八重山を旅したい。

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2005年04月07日

桜の開花とは裏腹に…

暑い…春というよりも、いきなりこの暑さは何なんだ。明日は少し落ち着くようだけど、何だか訳わからん天気ばかりで、この世の終わりかと思える。こんな暑いのに、札幌ではまだ44cmの積雪、上越地方でも異常な根雪の量らしい。何かがおかしい。

今日も研修。しかし、今日はお昼すぎて職場から連絡があり、同僚が2人本社に戻っていってしまった。私は正直今回呼ばれた件では何も力になれないので、そのまま講座を受けたのだが、このような事があるたびに私の胸は痛む。反面、私の担当業務の時は他の人に助けは求めないのだが、このあたりのギャップで今の職場はとても嫌な感じがする。

春だというのに、また憂鬱な週末だ。丁度明日も明後日も母親の所に行かないとならないし、土曜は朝から私自身の検査が某医大で予定されている。そういう事もあり、私は明日職場に行っても、あまり関われないというのも現実だ。

いつからなんだろうか、この会社がこんなに社員のモチベーションを落とさせ、また真面目に取り組んでいる社員がどんどん病んでいくのを目の当たりにするようになったのは。何かがおかしい。幹部社員や会社でいわゆる偉い人と言われる人たちは、一体何をしたいのか。正直わからない。

そんな落ち込んだ気持ちで家に帰るが、まだ太陽が差している事あり、気分転換にくーと散歩にでかける事にした。桜が満開なので、できれば季節感のある写真を撮りたいのがその理由だ。土曜は上にかいた通り検査があったり、日曜は天気が悪いという予報もあるので、撮れる時に撮っておきたい。

いつもの公園に行くと、やはり妙に人が多い。先週も気の早い花見客は沢山きていたが、桜はもうそろそろ見頃だ。8~9分咲きといった所だろうか。日が暮れるまで撮影して、帰った。都心の公園で撮れる写真はやはりアングルも限定されてしまうが、親バカよろしく沢山撮影した。

明日はきっと疲れる1日になるはずだ。憂鬱だが、少し早く寝ておければと思う。

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2005年04月06日

麺類

今日は某ベンダー主催の研修。サーバOSのセキュア設計という内容の座学だったが、少しいつもよりゆっくり家を出た。研修では職場の同僚が偶然申し込みをしていたので、一緒に受けていた。彼は私よりもこの分野ではスキルが高い。私も少しはがんばらないと…

オフィス街は真新しいスーツで胸に名札をつけ、いたる所にグループをつくってたばこをふかしている入社したての新人のような若者が目についた。どこを歩いても煙く、喘息持ちの私にとってはたまらない。

外だからといって、喫煙場所を設けているビルも、健康増進法なんか考えていないのだろう。ビル風が吹くあたりで、出入り口の左右に吸殻入れを置けばまんべんなく出入りする人に副流煙が襲いかかる事を考えていない。当然灰は吸殻ではなく地面にパラパラと舞うどころか、風に巻かれて通行人にかかる事になる。

オフィスビルの地下でお昼を食べたが、時間も時間だった事で異様な混み方だった。普段は420円の仕出し弁当なのだが、ランチの女王というドラマのように、ランチを楽しみにしている女性はいたとしても、もっとおいしくもっとリラックスして食べられる場所の方が、少々味が落ちたとしても私は選ぶかもしれない。今日はオムライスとスパゲティのセットだったが、一人であれば丼ものやコンビニでおにぎりなどを買って、さっさと食べて終わりにするだろう。

まだ明るい時間に研修は終了したので、実家まで歩いて行った。今日検査入院から退院してくる母親の様子を一応見に行く為だ。検査結果は大きな問題はなく、とりあえず安心という所だが、もう老人の域に入っている事から、何かと気苦労が耐えない。しかし自宅にはおらず、上のフロアに居る本家の方に顔を出すとやはり話し込んでいた。

まだカテーテルの跡が痛々しく、血圧も安定していないようなので、さっさと寝るように促し、少し身の回りを整理してやって帰路につく。途中、このあたりではナンバーワンと思える麺通団で天ぷらと持ち帰りうどんを買い、コージツにまたちょっと顔を出して雑談をし、アルタ裏を抜け桂花ラーメンでおみやげラーメンを買い、バスで帰る。

来週の月曜、生協の宅配が来るまで、お米を切らしてしまっているので、いろいろ買い込んだのだ。さすがに毎日麺というのも少々飽きるが、麺類は好きだ。ラーメン、うどん、そば、素麺、なんでも。まあ何とかなるだろう。

実家のあたりはいつのまにかラーメン屋がどんどんできて、今ではテレビに出るようなラーメン屋も数店。いつも行列ができている。その中に讃岐うどん屋ができたのだが、ここが関西人御用達の本格的な讃岐うどん。我が家の近くにも、チェーン店のはなまるうどんや、こがね製麺所というのもでき、それでも十分だと思っていたのだが、ここのうどんの美味しさにはちょっと差をあけられたという感じがする。四国を旅した時のセルフうどんが思い出されて、こういう店が近くにできてとても嬉しい。

めん類といえば、昨年の夏漸く北海道は夕張のラーメン屋、のんきやに行けた。おばあちゃんも健在で、少々衛生面には問題はあるが、このラーメンは食べておくべきだと思って少々寄り道をして寄ったのだ。

夕張は言わずとしれた炭鉱の町。至る所に炭鉱の面影が残り、メロン映画祭など町おこしも活発だが、その昔の反映は跡形もない。私は北海道を旅するようになって、炭鉱の町で感じる北海道が、雄大だとか気持ちのよさとかいうものとは別の、本当の北海道の厳しい時代を感じる事ができて好きなのだ。初めて知ったのは、上砂川を訪れた時。私はそういう場面に出会うと、総毛立つという表現がぴったりくるように、鳥肌がたち身震いする。炭鉱の町や廃村をみると、怖さではなく重さを感じるのだ。

そんな中で時間がとまったような店。それがのんきやだ。このおばあちゃんが歴史そのものだ。それがどうも、今はこの店舗がなくなり、おばあちゃんもいない、という話を聴いてしまった。まだ自分の目で確かめていないが、とうとうくる時が来てしまったのかもしれないと少々動揺している。

扉のない出入り口から先に、夕張のモノクロームな風景が目に飛び込んできたあの夏の日の夕暮れ時、あのラーメンの味が思い出される。

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2005年04月05日

病室と春

今日は午後半休を取って、母親の検査入院の立ち会いに中野の病院にきている。今検査の真っ最中なので、待合室でこれを打っている。

しかし、昨日から何だか仕事が慌ただしい。ちょっとキレがちにこなそうとするが、どうも頭痛がすっきり抜けない。職場の空気が最悪なのだ。健康増進法なんて何の事?っていう会社だ。

今日もまた下らない発想をした「えらい人」がはじめたワーキンググループの立ち上げがあり、リーダ養成だの何だのとていのいい理由をつけて、下らない資料を作る為のメンバー選任会議があった。情けない事に、トヨタ方式の導入とか言っている。本当に週刊誌で読んだような話をすぐに全社導入する会社だ。そのおかげでどれだけ若手のモチベーションを食いつぶしてきた事か…

地下鉄を使って至近駅から徒歩15分くらいの距離だったのだが、昨日とうってかわって暑い。早足で歩いているせいもあって、汗をえらくかいた。途中大きな公園があり、ご老人がお茶などを飲みながら日向ぼっこをしていた。穏やかな午後だ。

途中、コーギーの散歩をしているおばさんをみかけた。ちょっと太めのコーギー。これから暑くなっていくと、きっと辛いんだろうなぁと思いながら、見送った。くーのように9kg前後でさえ、夏は苦手だ。すぐに舌が思いっきりのびて、口のよこに垂れ下がる。バテてますと顔全体で表現しているようになってしまう。

病院につくと、平日の日中なのに大繁盛。病室も満室だった。設備の整った病院というのはそれなりに人気があるのか、また郊外の病院のように設備や人材が不足している病院も多い事からすれば、大都市の病院はレベルが高いのかもしれない。しかし、どうなんだろう。

私は6歳から中学生くらいまでは毎週病院に通っていた。今でも2カ月に1度、通っているのだが、これまでに両腕にされた注射は数百本、撮ったレントゲンも100回弱といった所だろうか。健康な人に比べて、危険な環境にさらされていると言ってもいい。そういう立場からすれば、設備の整った病院のどこが優れているのか、実感できない。単に待たされる時間の長さでは、今までの人生で結構な割合を占めているのではないだろうかと思ったりする。

私は病院が嫌いだ。年をとると病院が好きになるのか、安心を求めに通うのかわからないが、病院は年配の方であふれ返っている。正直、医療ビジネスに不景気はないのではと思う程。しかし、実際に現場の看護師さんはものすごいシフトの中、ハードな業務をしているものだ。子供の頃から病院に行っていて、看護婦さんという職業はとても大変なんだなあと思っていた位、それは伝わってくるものだった。

病室の中にいると、外の寒さや暖かさは分かりにくい。窓から桜でもあればまだ視覚的に分かりやすいのだが、時間が停まってしまったかのようだ。カーテンで仕切られ、ささやかなプライベート空間となる病室は音は素通しに近い。やはりちょっと特殊な環境だ。看護師さんの目が届く範囲で、何かあればすぐにナースコールができる環境は安心なのだが…

今日みたいな天気の日は、おいしいフルーツを食べて元気をつけたくなる。お見舞いといえば花か果物の盛り合わせというのは、やっぱり病人に元気を与えるものという事なのだろう。しかし私の頭の中ではフルーツといえば、フルーツ大国台湾。私は士林で食べたマンゴーかき氷がとても好きだ。氷館のそれも有名で雑誌に紹介されたりしているのだが、こちらの方が好みだ。

高くてめったに食べられないアップルマンゴーが手に入れば、かき氷とコンデンスミルクをかけて、ジャクジャク食べる。また台湾に行きたくなる。

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2005年04月04日

冬にまた逆戻り

朝から冷たい雨が降っていた。昨日のぽかぽか陽気に比べると、なんと10度以上の差らしい。冬に逆戻りだ。ツイードジャケットにマフラーを巻いて会社へ。でも雨はお昼にはやむそうなので、いつものモンベルのトレッキングアンブレラをさす。

この傘はリップストップナイロンの40デニールだかの薄手の生地を使っている。山岳テントのフライシートに使われる生地だ。結構壊れないで長年使っている。既にロゴも消えてしまっているが…

お台場も風が強く、すっかりパンツの裾が濡れてしまった。こんな気候、北海道であればブリザードだろう。ブリザードは視界も悪く、呼吸もできない位辛い。車での移動でさえ、危険が溢れている。

最初ブリザードというものにあったのは、五竜遠見のゴンドラを下りた山頂近く。スキー中だった。真上には太陽が見えているにもかかわらず、ものすごい風と吹雪で、ゴンドラやリフトが何度もとまった。そんな中、ホワイトアウトに近い状態になり、ルートを見失わずに麓に降りるのも一苦労だった。途中何度も柱や木の裏にまわり、風がやむのをまったがまったく衰えず、休憩しながら下った。普段滑り慣れている所でも、天候次第で命に危険が及ぶものだ。

中標津のいつも世話になるバイク屋さんの御大から、中標津と計根別の間で一晩を過ごした経験を聴いたことがある。スノーシェルターもなく、いつもの国道なのだが、見事に前にも後ろにも進めなくなり、数台が立ち往生したという。天候があまりに荒れてしまうと、エキパイに風が吹き込む事で、エンジンをかけていられない状況になり、装備によっては凍死さえ珍しい事ではない。冬の北海道の厳しさをつくづく感じさせられた。

車で冬に走っていると、写真のような状況になる事もある。長距離トラッカーはこんな視界や路面コンディションでもそれなりのテンポで走り抜けるが、そういう車ばかりではない。慎重に、また対向車と後続車の様子をみながら、リアフォグとフロントフォグをつけ、走る。まだこの当時はカーナビもなく、自分の経験だけでたどり着く事ができた。

同じ日本でも、これほど厳しい気象状況に出会う地もある。八重山などでは台風が直撃すればそれは壮絶な状況になる。リーフがあるおかげで、高波は自然の防波堤が機能して直接被害を与える事は少ないが、自然のパワーというのにいつも驚かされる。

日本はそういう意味でもいろいろな表情を見せてくれる、小さいけど豊かな季節感をもった国だ。もっと郷土愛をもって接したいのだが、社会はそんなに住みやすくて生活水準や経済指数が高いものではない。この素晴らしい自然や気候をもっともっとみんな感じて、もっと日本を好きになれば、何か変わるかもしれない。

穏やかな日と厳しい日の両方を経験した時、そんな気がした。

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2005年04月03日

公園へ撮影に

朝から雨のはずが、何だか晴れている。それも妙に暖かそうだ。

朝から本当はちょっと仕事をするつもりだったが、だらだらとしているうちに昼になってしまった…なんともったいない休日だ。少しだけPCに向かっているうちに、散歩の時間になり、昨日よりも混んでいるだろうと思いつつも、せっかく天気がよさそうなのでカメラを持ってでかけた。

今朝からくーが足を少し引きずっている。再骨折してからまだ1カ月。最初に骨折したあとから比べると、その回復ぶりは段違いなのだが、ギプスをつけると直後は右前足をあげて痛い、というようなポーズをするのだが、ひとたび外に出るとしっかり地面に足をついてグイグイと引っ張る。うっとうしいのか、それともわざとなのか、包帯を巻かれた足が嫌らしい。でも本当に痛いのかどうかがやっぱり飼い主がわかってやらなければならないので、心配は心配だ。昨日は比較的長時間歩いていたので、今日は早めに切り上げようと桜のある公園へ。

昨日よりどちらかというと少ないかもしれないが、でも普段の公園の何十倍も人で溢れている。某大学のクラブかサークルか、花見のブルーシートの上で、ディキシーを演奏していた。まるでお祭りだ。

わずかに昨日より開花した花が多いようだ。桜以外にもいろいろな花が咲いていたので、親バカよろしく目線をカメラに向けるので大変だ。なかなかカメラ目線をくれない。既に雑誌には5回ほど出ているのだが、カメラには慣れてくれない。一度知人からフィッシュアイを借りて、前使っていたNikon NewFM2でフィルム1本撮影したが、レンズとくーの距離が10cmを切る位近寄らないと効果があまり出ないので、舐められる覚悟で撮影したが、やっぱり目線をうまく導けない。THE DOGのカメラマン氏のような写真は難しい。

カメラは小学校時代からいじっており、亡き父親がヤシカエレクトロ35GTというカメラを持っていて、よく触らせてもらった。中学2年に写真部に入り、自分の一眼レフ、ペンタックスMXとレンズを24回ローンで買った。クラブでは暗室もあったので焼く事もここで一通り学んだ。写真雑誌のコンテストに応募したり、富士スピードウェイにレース撮影に行ったり、自転車ででかけてはいろいろな被写体を撮影していた。

その後も写真はメインの趣味ではないにせよ、何をしていてもカメラというものは持っていたかもしれない。そして14年前にずっと欲しかったけど買えなかったニコンに買い換えた。やはりフルマニュアルのNewFM2。旅に出る時は必ずといっていい程、持っていったが、逆にあまり使わなくなってしまう。

デジタルカメラを使うようになって、最初はコンパクトなタイプばかり6台も買い換えた。反面フィルムカメラへの思い入れも消えず、どうせ一眼レフを使わないならと、レンジファインダーの最高峰とも言えるライカM2、それも私と同じ年のタイプを探して購入。レンズもズミクロンの50mmと、ズマロンの35mmを手にいれ、前者は山崎光学の山崎氏に前玉の研磨をして頂いた。旅のスナップを撮るカメラとしては素晴らしいパートナーと言えた。

そして犬を飼う同時に、走り、飛ぶ姿の写真をもっと撮影したくて、再び一眼レフを購入。今度は全てNikon資産をヤフオクで売り払い、キャノンEOS 10Dに広角標準系ズームと、望遠系ズームを揃えてしまった。その効果は大きく、久しぶりの一眼レフは撮影する事の楽しさをまた一次元上の世界で感じさせてくれた。

今はその10Dを再度ヤフオクで売り、20Dとなった。しかしそれと同時にくーが骨折してしまい、今は出動の回数が極端に減ってしまっている。今はとにかく早く足を治して、元気になってもらわねば。

という訳でこれは20Dで撮影したくー。桜はまだちょっとだ。

PS. 宗教の壁を越え、歴史に大きな1ページをめくったヨハネ・パウロ2世のご冥福をお祈りします。

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2005年04月02日

桜咲く頃

桜が記録的な開花の遅れらしい。今日は4月2日。近所は某大学生で溢れ、サークルの看板を先頭に行く者がかざし、その後ろを昔の日本人観光客よろしく、長蛇の列をつくって公園やキャンパスに移動していく。

私の学生時代は、そんな事はしなかった。確かにサークルに入り、新歓コンパのような事もしたのだが、妙に冷めていたと思う。校歌を歌わされたり、上下の関係を強要されたり、そういうのも必要なのかもしれないが、私は高校時代に上下の関係が厳しいクラブに居た関係で、大学生になってからもそういう事はウンザリだった。

彼らは何を期待して大学に入ったのだろうか。私なんかよりもはるかに賢く、また勉強もできるのだろう。大学に入った事で、それらから開放され、何をしたいのか、何を目指したらいいのかわからない中、流されていくのも仕方ないのかもしれない。

高校時代は、夏休みも朝練というのがあって、早朝から学校に集まった。夜も遅くまで練習があり、クラブ一色だったと思う。夏休みは練習が終わるといつもの公園に集まって、くだらない話をした。

学校では3ナイ運動というのが流行っている時代だったが、私立だった事もあり、免許は自由に取れた。さすがにバイク通学なんか許される訳がないが、まあそういう事に反抗してしたい事をしたい、と思うのも自然な流れだったのかもしれない。練習のない休みの日や、どうしても気が向かない日は、サボって湘南までバイクを走らせたりもした。

大学に入り、2年まではそれなりに取らねばならない単位の為に比較的真面目に通っていた。しかし1年目の夏は初めての北海道、2年目の夏には日本縦断に出るなど、これまでできなかった旅を合法的にできるようになった事が嬉しかった。

大学生の春、桜咲くキャンパスは、厳しい受験を乗り越えた喜びと期待と新しい出会いという、何も心配のない時期だったかもしれない。浮かれるのは仕方がない事だ。大学の4年間にだって、それなりに悩みはあった。でも人生の中でどれだけ深いものだったかというと、とても些細なものだと思える。

会社に入った4月も、仕事についていけるかというような心配や、自分より回りの人間ができるように見えて、不安の比率は増えていた。でもやっぱり新しい生活が始まる事の方が、期待の方が上回っていたような気がする。

その時期には必ず、桜が咲いた。

四季を感じられる国。ニッポン。政治やこの国を高度成長期にひっぱりあげてきた人々が住みやすいのか住みにくいのか、わからない国に造り上げてきた。国政への不満の高まりや、愛国心の薄れなど、レベルが全世界的にも低いと言われる日本だが、旅をして素のままの風景や文化を見る事で、しっかりした日本への愛着を感じる事ができる。

そのひとつが四季なのではないだろうか。

薄曇りの下、今日の桜。まだ僅かだが、しっかりと春がやってきているようだ。

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2005年04月01日

温泉と丘の時間

丘から風呂に行く時は、以前は数カ所を選べた。

マルエー温泉なかしべつ温泉中標津保養所温泉養老牛温泉ホテル大一トーヨーグランド、天佑川北温泉、開陽温泉などが主な所だ。その後天佑川北は一旦閉鎖し、今は地元の人だけに開放しているという。他に露天では川北からまつ等が有名だ。

開陽温泉は一番開陽台から近く、とても便利で設備もよかったが、開館当時は異様に高く、キャンパーはまず行かなかった。しかし閉鎖直前に500円か700円かそこらになり、何度か利用した。原野商法で開陽温泉周辺の土地が東京のニュースで放映され、少々驚いた。

私が丘に上がり始めた頃は、今ではシマフクロウの餌付けに成功した事で、冬はカメラマンが大挙して訪れるホテル大一の日帰り入浴がまだ安く、飲み物もついていた。露天の前を流れる川が冷たく、のぼせた体をその川で冷やしたりしたものだった。

マルエー温泉は一番この中では安い。町の中からアクセスがよいせいと、ホテルが併設されている為、比較的メジャーだ。なかしべつ温泉はライダーハウスが併設されている側は古い湯船のままだが、隣には綺麗になり一時名前が問題になり提訴問題になったが、今はなかしべつ温泉の名でどちらか選んで入る事ができる。保養所温泉は長期滞在者が回数券を買って入り、休憩所でゆっくりできたが、オーソドックスな温泉だ。トーヨーグランドも風呂は結構好きである。

天佑川北温泉は格言が沢山貼られている面白い温泉だった。湯船も四角く区切られていて、2曹式の古ぼけた洗濯機があったのを記憶している。お湯は熱めだった。今近くに鉄の湯という温泉ができたそうだが、まだ入った事はない。長期滞在キャンパーが定期券を持っていて、ここに入りにきていた。開陽温泉は近代的なクアハウスで、開陽台の麓、ダートを少し走って森の中に建物が突然現れた。

温泉以外では、私が丘にあがるようになるひとつのきっかけとなった男が住んでいたTアパートから歩いてすぐの所に、温泉ではない熱いお湯の羽衣の湯もあった。

開陽台からはどの温泉に行くにしても、結構な距離を走らねばならない。スーパーなどに行くのも同じだ。それだけ何もない所にその丘はある。

霧が出ている時は別だが、晴れている日なぞは、風呂に入ったタオルをリアやバックミラーにくくりつけて丘に戻ると、その頃には乾いてしまっている事もあった。しかし夏は、乾くと同時にタオルには無数の羽虫がはりつき、折角風呂に入ってもいい気分ではなかったりする。

あまりに貧乏な旅人は、水道で頭を洗ったりするが、私はそこまでしたことはなかった。しかし、朝早くから晴れた日などは、テントから朝5時にはもう我慢ができずあぶり出され、電線ロールの芯のテーブルの前で、肘掛け椅子に座り、ぼーっとしていた。すると、観光客の声が聞こえる。

「あら、あんな所でテント張ってるわ」
「あら、動いたわ。」
「何か飲んでるわね。何かしら。」

時には親子連れがやってきて、子供を放し飼いにするとその子がテントを覗き込み、おかあさんにこう報告した。

「ねえねえ、何か人がいるよ。生きてるみたいだよ。」

大きなお世話だ。

写真はエイプリルフールですから。冗談です。まさか公道をヘルメットなしで走るなんてね。こんな恰好で温泉や街には降りませんよ。エイプリルフールですから。今日は。

だから私の顔もちょっと出してみたりして。:-p

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