2005年05月31日

桜海老踊る

春と秋の風物でもある、駿河湾の桜海老。春は実はあまり行かないのだが、晩秋の頃、毎年富士の周辺で古い友人と年に1度のキャンプミーティングがあり、必ずとって桜海老を食べに行く。なんでそんな話をしているかというと、先週の日曜、日本テレビでやっていて毎週楽しみにしている「鉄腕ダッシュ」という番組で、桜海老が出てきたのだが、録画していたものを今日夕食時に観たからだ。

何だか日本の味とか料理を偉そうに言う時、大抵が懐石とかではなく丼になってしまうのは私が庶民だからだろうか。それは否めないが、その理由としてひとつ思い当たる節がある。何かというと、私はキャンパーだからだ。一鍋料理と勝手に言っているが、食器に料理を盛る事はせず、つくっていた鍋(コッフェル)がメインの皿になり、ご飯を食べる時は小皿兼コップで重ねて収納ができるシェラカップを使うように、見た目を気にしないからだと思っている。

合理的という理由だけでなく、水をできるだけ使用せず、また洗剤すら使わないようにするには、まず洗うものを減らす事から始まる。バイクに家財道具を載せて走る事は、載せるものを厳選しなければならないという理由と、同じ機能のものを買うにしても、小さく、収納性を重視し、それを実際の機能を比較する。そんな中で、皿とかおたまなどはできるだけ減らすという事から、丼というひとつの皿に全てが集約されている日本料理には相通じるものがあるように思う。

静岡は駿河湾沿いに行くと、必ずスマル亭といううどん屋に寄っていた。今でも時間帯で早朝や深夜などは立ち寄るのだが、3年前にいきなり麺が冷凍になってしまった。冷凍がまずいという訳でも、前がそんなにおいしかったという訳でもないのだが、ここにある桜海老としらすの天ぷらがやはり目的に近かったのかもしれない。しかしある年から旅の友人が、もっとおいしい店があるのを調べてきて、早速皆で行ってみた。

そのお店はやはり静岡をベースにチェーン展開している、鐘庵という。桜海老のかきあげが秀逸で、垂直に海老が立っているのだ。麺もスマル亭よりあきらかにおいしいが、値段はやはり比較すると高めだった。またこの鐘庵には、駿河丼というマグロのしぐれ、錦糸玉子、しらす、桜えびの釜揚げ、わさびの塩漬けが載ったサイドメニューがまたおいしい。

実は東京にも支店がある。スマル亭は茅場町に、鐘庵はおっとさんの家の近く、大塚にある。その大塚店には何度か行ったことがあるのだが、そこでは売りだったはずの桜海老のかきあげよりも、牛丼やセットものが売れるというらしい。確かに桜海老のかきあげそばやうどんを食べようとすると、1コインでは済まなくなる。店の左右にバーミヤンと富士そばに囲まれていては、味よりも値段で勝負しなければならないのかもしれない。しかしやはり味で勝負してほしかったというのは、ファンの一人だから思う勝手な気持である。

まあうどんで言えば、麺通団がおいしいのだが、たまに桜海老のかきあげそばに駿河丼が食べたくもなる。秋のキャンプミーティングではまず確実に食べるのだが、桜海老という季節の味には魅力がある。そしてわさび醤油をかけた丼は、まさに日本の味でもある。

丼という小さい器の中に、沢山の世界が展開する。私はこの丼を使った料理が好きだ。

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2005年05月30日

日本食3大調味料

なぜ吉野屋の牛丼がおいしいか、ということをテレビでやっていた。分析をしていくと、砂糖と油がその理由だという事らしい。果たしてそうなのだろうかと疑問に思いながら、私の好きなものを考えてみた。

以前カツ丼について取り上げた。私はトンカツが好きで、それはある時ソースをかけたカツライスであり、玉子でとじたカツ丼であり、ごくまれにカツバーガーであったりするのだが、カツ丼以外は油と砂糖という部分がちょっと違うような気がする。

日本人の殆どが好むカレーライスと例にとってみれば、これも砂糖と油が微量ながら入っていたとしても、それは大きな要素ではないような気がする。天ぷらにしても、刺身にしても、砂糖と油が主な理由になっているとは正直思えない。

私は砂糖と油だけでなく、醤油と砂糖とみりん、または日本酒という組み合わせにあるように、和食の3大調味料が中心となり、適度な油が深みを増し、あの独特の香りから食欲をそそる原因になっているような気がする。甘辛い醤油と油のコンビネーションが、食欲に繋がるのではないだろうか。

牛丼にしてもそうだ。これにタマネギの香りと甘さが加わり、薄切りの牛肉がタレに煮込まれて白いご飯にのっかっている。想像するだけで腹がすいてくるではないか。これに近いのはカツ丼で、衣の油がうまみをひきたてて、食感もサクサクしていれば尚更文句のつけどころがない日本食になる。

まったく違うジャンルでもあるが、日本では洋食という曖昧だが独自の文化がある。オムライス、ナポリタン、カツカレー、チキンライス…。どれも日本以外では食べられない、日本の味だ。これは材料には海外の味が大きくかかわっており、それはトマトソースであり、デミグラスソースであり、スパイスであったりする。詰まるところ、砂糖と油はどうでもいいのではないだろうか。

こんな事を真面目に分析しても仕方がないが、吉野屋の牛丼がなくなってから、多くの日本人が嘆いている。それは松屋やなか卵の牛めしではだめなのだろうか。確かに、吉野屋の牛丼はひとつの食文化なのかもしれない。
写真は台湾で食べた吉野屋のメニュー。牛丼以外にも、鮭が入っていたり、コンビネーションメニューもあって、なかなか新鮮だった。台湾で遊びすぎてちょっと体長を崩したので、懐かしい味を食べようという事になり、思わず吉野屋に入ってしまった。しかし、これがおいしいのなんの。海外で食べる日本食にはあたり外れがあるのだが、吉野屋の味付けはまさに日本直送。台湾では数少ない、確実に日本食の3大調味料が威力を発揮する、メニューだったりする。

とはいえ、折角台湾に行ったのなら、屋台で牛肉麺や大腸麺、排骨麺や排骨飯、ちまき、魯肉飯などを是非食べたい。夕食前、帰宅バスの途中で書いていると、腹が減ってきた。

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2005年05月29日

ラベンダーといえば富良野を連想してしまう短絡的な頭なのだが、独特のラベンダーの色と香りというのは、やはり富良野周辺に実際に行き、一面のラベンダーの中に立った事があれば、無理もないのではないかと思う。そろそろ我が家の近くは、ラベンダーの季節を迎えている。

ラベンダーにも種類があるようなのだが、花心が乏しい私には、この紫と独特の花と香りから、ラベンダーだと思い込んでいる。近所の公園にはラベンダーが植えられ、結構見事な花ぶりを見せてくれている。今日もくーの散歩ついでに、ラベンダーの写真を撮ってきた。

富良野のシーズンはもうちょっと先。6月あたりだと思うが、桜前線のように、南北に細長い日本では、季節が花のシーズンであったり、梅雨前線であったりと、形をかえていろいろな季節の動きが目に見える。日本はこうしてみるとなかなか味わい深い自然を身近にみせてくれる国でもある。

富良野といえば、うりちゃんからの報せで、森林公園が閉鎖になったという話を聴いて、少々悲しい気分になった。かしわ園、鳥沼と次々旅人が多く集まっていたキャンプ場が閉鎖され、その次にもしも閉鎖されるなら森林公園だろうと想像していただけに、やはり富良野は見すぼらしくマナーの悪さの目立つ場所に蓋を閉じるのかとすら思うほどだった。

しかし実際は森林公園キャンプ場は今年も開かれるようだ。少しだけほっとした。とはいえ、実際自分の首を締めているのは、旅の恥はかきすてとばかりにはめを外し、それが集団心理で大きな問題に発展してしまう図式になるのは、多かれ少なかれ昔も今も本質的にはかわらない。変ってきているのは、その程度問題なのだろう。

どこまでなら許され、これをするとどうなるという判断がどんどん曖昧になり、人によってはその越えてはならない線が見えないものがおり、確実にそれが増えている。最近ニュースになっている犯罪や、町中をどれも同じマフラーをつけ、夜中だろうが早朝だろうが走り回る中型スクーターやスカチューンを施した同じような改造をした中型バイクが、信号は守らない、歩道だろうが乗り入れ老人や子供がよけなければならないような停め方をする連中が毎日必ず二桁はみかける。

今日も公園内を散歩していて、4人組の近所の大学生がサッカーボールを思い切りドリブルして近づいてきてこちらに飛んできた。普段はあまり声にしないが、今日は怒鳴りつけると、仲間の一人が「怒られてやんの」と人ごとのように言い、謝る言葉もなし。怒られる事を知らない子供が大きくなると、このようになる。なんと情けない事だろうか。

開陽台でも何年か前、障害者と展望台のスタッフ、納品、ゴミ処理用の車しか許されない横のアプローチを、バイクで登ってきてテントサイトに横付けし、撤収を始めた子がいた。大きいバイクに乗って、皮のジャケットを来て、ゴッパーテントを使っていた子だ。しいたけがその子に近づき、すぐ降ろしてくんないと言うと、いきなり絡んできた。こちらも柵に座っていた友人数名でしいたけ達に近づくと、いきなり弱気になり、ふてくされてしばらく佇んでいたが、少しするとバイクを降ろして、階段から荷物をもっておりていった。

彼はしばらくして、あらためて我々の所にきて、さっきはすみませんでした、と素直に謝ってきた。最初から素直にそうすればいいのだが、それができない。まだ謝ってきただけよいのだが、逆ギレと簡単に口にする子は、それがよくない事という事を理解できていない。少し前なら「開陽台のヌシがうるさくて」とかやっかみの噂を流される事になったかもしれないが…

近く公園をみても、旅先での出来事をみても、正直腹が立つ事や憂鬱になる事が多い。何でこんな社会になってしまったんだろうと思うが、自分もそれほどよくできた人間でない事は、分かっているつもりだ。でも口に出して注意する勇気が、程度が分からない無能な人間に逆に被害にあう事も少なくない社会。時と場所を選んですべき事なのだろうか。なかなか答が出るようなものではないようだ。

美しい花をみたいだけ。すばらしい風景を見たいだけ。ただそれだけでその場所に行く。そして、同じような思いをもった人と知り合い、友人になる。それはやはり、基本的な人が生きていく世界でのマナーというものがあって成り立つものだ。今、それぞれが自分と自分の次の世代の事を考える事が大事ではないだろうか。

花は今年も変わらず咲く。人もかわらず、次の年も美しく咲くために、後世に引き継がなければならない。

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2005年05月28日

ロッキー改造計画4th

先日ロッキー改造計画3rd、ETCを装着した我が家の愛車、ダイハツ・ロッキー。今日は午後かなり遅くなってから、ずっと懸案だったリアウィンドゥ1箇所とリアサイドウィンドゥ2箇所、合計3箇所のスモークフィルム貼りを行った。

ロッキーが我が家に来てから、もう9年目にもなる。マリンランナーという低いグレードの販売店オプションを装着したモデルなため、いろいろな所で不便な部分があったりする。このモデルは1600ccのエンジン1種類で、グレードの数は3種類程度しかなく、最上位がカンタベリーというあのキウィのマークのラグジャで有名なアパレルブランドのコラボモデルだったはずだ。私もオールブラックスモデルのラグジャを1枚、学生時代に持っていたのはどうでもいい事だ。

このロッキーという不人気車は、とにかくマニアックにできていて、レジントップというリアのFRPトップが窓ごと外す事ができるようになっている。外すのは1人がかりでは流石に厳しい重さがあるのだが、これを外すと本格的なロールバーが顔を出す。また運転席上のチルトルーフも取り外す事ができ、オープンのまま走る事ができるのだ。またリアにはオプションでキャンバスの幌があり、ヘビーデューティな本格4駆なのである。

このRVは、丁度スズキのエスクードと比較されていたようだ。しかし初期のエスクードはボディ豪勢も弱く、本格的なRVとは言えないものだと思っている。フロントホイール中央にある、フリーホイールハブを手動で回し、4駆に切り換えるパートタイム型なのも、旧モデルのジムニーやランクルの40系から70系と同じ構造だ。ビスカスの4駆全盛の時代だったが、最近はどうなのだろうか。普段走る分には2駆で充分なのだが、この構造がまた1600ccふぜいの4駆についている所が、ダイハツのこだわりのような気がしている。

ソニーのカセットレシーバーがついていた位で、他には何もついていないモデルだが、今になって少しづつ手を入れている。6年前にロッキー改造計画1stとして、アルミホイールとスタッドレスを、2年前にロッキー改造計画2rdというべきポータブル・カーナビを装着した位なのだが、今日、漸くウィンドゥにフィルムを貼る事ができた。その作業の中で、このレジントップの機能で、リアウィンドゥを外し、自室でスモークフィルムを貼るという手法が取れてとても助かった。

ウィンドゥフィルムはエアコンの効果や、丸見えの車内がどうも気になっていて、いつか貼ろうと思っていたのだが、なかなか面倒臭くて手をつけていなかった。勢いというのは大事だ。当分、ロッキー改造計画はステップを踏みながら多段階で進む予定である。仕上がりは真っ黒で、外からはよく見えないようになった。

写真は関係ないがロッキーのブルーゼファー最後の航海の写真。あと数便で航路が凍結されるという時、貴重な十勝港での乗船を待つ姿。

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2005年05月27日

もうちょっとの快適さ

ムーンライト1はある意味、ひとつの究極の形として今も出動の時をまっているのだが、あまり環境が過酷でない所、おだやかな場所でのテント設営で、少々の小雨なら快適に炊事や出入りができるテントが欲しくなっていた。どのテントが欲しい、というのではなく、漠然とした感覚だ。簡単にいえば、ムーンライト1よりもうちょっとテント内を快適に過ごせるといいのにという所だ。

とはいっても、チャチなテントは嫌いだった。当時でいえばディスカウントショップで売っていたハーフフライでグランドシートがドカシーと同様の素材であるゴッパー(5,800円)やキュッパー(9,800円)テントのようなものは当然、ロゴスコールマンのテントですら、視野に入らなかった。理由はあまりたいしたことはないが、やはり快適で安心できる眠りが基本で、あとは小型であり、細かい部分に配慮がされていて、高すぎない事。これだけである。

気になるテントといえば、当時野宿ライダーの寺崎さんが愛用していた、というかスポンサードを受けていたようだが、Mt.daxのツーリングポイント2というテントだった。Mt.daxというブランドは実は山ヤブランドではあるが、それほど有名ではなかったと思う。ザック類が多くラインナップされていて、カメラバックなどは結構凝っていた。そこが出すテントは、実はこのツーリングポイントシリーズと、フリーダムスピリッツシリーズというエキスペディション環境でも活用できるクオリティを持つものだった。

古い友人のしいたけ兄は、ここのフリーダムスピリッツを結構長く愛用していたが、最後は長期間張りすぎで、フライシートが紫外線で弱まり横に大きく裂けてしまった。私もほぼ同じ時期に、ツーリングポイント2を手に入れたのだった。

ツーリングポイント2のよさは、コンパクトになり、魅力的な軒型前室がある事だ。反面マイナス点としては片方しか出入り口はないとか、ポールが細くて弱いとか、テント本体の上部がメッシュで閉じる事ができないとか、フライシートが少し短いとか、テントとフライシートがくっついてしまい、結露してしまう事など、使っていくうちに多くの問題点も出てきた。しかしそれぞれ工夫をしながら結局この後3に買い換えて数年前まで所有していた。

購入のきっかけになったのは、高田馬場のかもしかスポーツが常連客に向けて毎年行うバーゲン、我楽多市でMt.daxのテントが全て1万円で売られていたからだ。しいたけ兄のフリーダムもここで買った。このテント以外にもいろいろすばらしいものが出るので、その筋では有名なバーゲンだ。最近は随分品数も減ってしまったが、当時は厳冬期用シュラフや、ストーブ、ランタン、コッフェルなども半額以下でよく出品されていた。わざわざ北海道在住の友人が買い出しに来る位のバーゲンだった。

流石に突風には弱く、どうしても前室を作るポールの部分や、張り綱が裾の部分からでしか取れない事から、強風時は気が抜けない。しかし、おだやかな日はこのテントの設営の素早さや玄関ともいえる出入り口の快適さ、収納サイズが少々眺めだがコンパクトで収納し易いというメリットが多く、結局荷物を減らしたい時のツーリングでよく使った。主に、九州、四国、北海道、関東近郊のキャンプ、そして八重山で活躍した。

写真は石垣は米原キャンプ場第四炊事場前。ここにこのツーリングポイント2を張ったのは2度。突然のスコールにも、シーミングしたフライから雨漏りはなく、水はけも考えて張った事から無事だった。天井のメッシュも熱いと思える時に威力を発揮する。ただ欲をいえば、反対側にも小さくていいから出入り口をつけて欲しかった。多くのコンパクトテントにいえる事だが、通気性がわるいからだ。

それと、フライシートがテント本体とテンションが足らずべったりくっついてしまい、そこから結露して内部が濡れるというのを避けるため、前室用ポールに細めのロープと自在をつけ、左右で2本余分に張り綱が張れるように手を加えたりした。それは多いに効果があり、満足だった。またフライの末端に、エクステンションとなる張り綱のフックを使い、できるだけ本体とフライを離すように工夫をしていた。

しかしそれ以上のテントではなかったため、最終的には私の手から離れていってしまった。コスト・パフォーマンスという点や、初心者のキャンプツーリング用としては、非常にレベルが高いテントだと思う。ただ、我々の中では、所詮1万円だからという前提があったからこそ、使っていた人がいたとも言えるのも事実だったりする。

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2005年05月26日

続・月明かりの中で

私が2つめに買ったテント。それは、ムーンライト3の居住性も収納サイズも小型化した、ムーンライト1だった。これまでいろいろなテントを使ってきたが、これほど小さくなり、また設営が楽で、雨や風に強いテントはないと思っている。その分、居住性が損なわれるのだが、その許容範囲というのは、人それぞれの感じ方次第だ。

私は振り分けバックが好きで、RG250ガンマIIの時代、10代後半頃からロングに出る時には必ず使っていた。当時はあまり選べず、US ARMYと書かれているビニールレザーの黒いタイプか、キャンバス地のカーキのタイプが選べる程度で、他にはなかったと思う。私は少しでも撥水性の事を考え、黒い小サイズを使っていた。ベルトが2本のタイプだ。

雨が降れば中に水が溜まるような構造で、上から当時はどの過程も使っていた青か黒のゴミ袋をかけ、ガムテープでテーピングをして走っていた。しかし載せるタンデムシートの横、サイドカバーにすれる所がすぐに穴があき、土砂降りでは気休めにしかならなかったのだが…。

振り分けバックには重量物を入れる。誰でもそうであるように、長年のパッキング経験で自分の積載スタイルはそれなりに決まっている。低重心積載を心がけていたのだが、パンク修理やモンキーレンチなど重いもの、炊事用品、サンダル、カッパなどを入れる事が多く、転倒した時などにへこませたパーコレーターやシグボトルは今も残っていたりする。

その片方に、できればテントを入れたかった。当然ポール(テントのフレーム)は折り畳んでもそれなりにかさばり、テント本体とフライシートを畳むにしても、それなりに収納時のサイズはどこに積載するか悩まされるものだった。できれば濡れたまま収納しても、洋服などが濡れないように、独立させたいというのがあった。

それまで使っていたムーンライト3はよくできたテントだったのだが、収納時のポールのサイズがいかんともしがたく、バイク乗りにとっては少々難しいサイズだった。強度を保つためには仕方がないのだろうが、そこでソロツーリングに向くテントを探した。

ダンロップのJシリーズなどは候補だったが、プラペグが付属している事やフルフライではない事が気に入らなかった。充分な性能を持っているのは充分承知の上なのだが、やはり、そこで比較にならないほど、居住性以外満点に近いテントが、ムーンライト1だった。

ムーンライト3と同じ素材で、これでもかというほど小さくなる自立式テント。設営が30秒もあればでき、フルフライで前室もあり、テント本体とフライを接続する金具を繋げ、エクステンションコードを使ってできるだけしっかりとペグを打てば、実はそれなりに居住性は確保できる事が買ってからわかった。中では上半身を起こした状態で、着替えができる程度なのだから、充分といえる。それこそ、台風なみの強風でもポールが折れたり潰れる事もなかった。まあ張り方に配慮は必要なのだが…

そして何より、この小さい振り分けバックの片方に収納ができるサイズであった事。価格も安く、申し分のないツーリングテントだというのは、実は今でも変っていない。その後、振り分けバックはロード用のJTCの少し大きいタイプになったり、RED HORIZONのオフロード用振り分けになったが、用途は変っていない。

このムーンライト1で北海道は5度行っている。そして八重山にザックに入れてバックパックのキャンプをした事もある。またこのムーンライト1は2代目であり、その後前室が台形になり少し広くなったのだが、その直前の三角の先端を持つモデルだ。このコンパクトさは秀逸である。

いろいろテントを買って使ってきたが、今でもこのサイズではムーンライト1が満点を与えてもいいと思っている。そして今後ソロで行く時に、使って行く事だろう。

写真はお恥ずかしながら喫煙していた1987年秋。羅臼国営、いわゆる羆の湯の朝。後ろには米原城がみえる。オプティマス8Rをこの頃は愛用していた。

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2005年05月25日

自分のフネ

最初に乗ったのは、友人パジャンカだった。理想的なフォールディングカヤックで、スタイルも美しかった。当然カナヅチな私は川を最初に下る事なんか考えもせず、ある夏開陽台で生活している時、和琴に遊びに行った時、それは実現した。

開陽台からどこかに行くという事は、知床ファイアー…もとい、知床峠を経由してぐるっと半時計周りに一周してくる半日コースや、根室へ蟹を買いに行ったりエスカロップを食べに行ったり、釧路の和商市場で昼飯を食べてくる1日コース、熊の湯や川北、からまつ、薫別など温泉に入るついでに林道を走って来ようという午後コース、周辺の秘密の林道を走り繋ぐひたすら林道アタックコースなどのバイクで回るコースや、クテクンや武佐岳への登山コースや、忠類、西別をはじめ、標津や風蓮の支流の小さな川で釣りをしながら歩くコースなど、山ほどあるエリアである。

海は標津・別海が比較的近い。ここで栗蟹や北海縞海老がおいしい。湖といえば、一番近くて裏摩周展望台からの摩周湖だ。神の子池はちょっと例外。このように環境としては恵まれたすばらしい地だ。なので開陽台をベースにして、道東を満喫する事ができる。

結構な確率で、開陽台から下らない日があるのだが、たまには少し遠出をする。といっても片道1時間程度しかからないが、静かで大きい屈斜路湖に突き出す和琴半島の根元、和琴半島湖畔キャンプ場はそのゆっくり遊びに行くには最適な場所である。

ここには多くの友人がいる。いつ行っても誰かしら居るという時代だった。和琴レストハウスのスタッフも知り合いだし、いわゆるほっとできる場所の一つだ。しかしアプローチが楽というのと、ロケーションが素晴らしく、有料ではあるが安い為、いつも大勢のキャンパーがテントを張っている。歩いてすぐの隣接した温泉や、弟子屈の町までも比較的楽に行ける為、長期滞在でもとても快適だ。

この場所で多くのドラマが生まれた訳だが、長期滞在のキャンパーの中には、道東に腰をおろすものが増えていった。ある年の秋に、友人がここで結婚式を挙げた。私はスーパーカブで入り、結婚式参列の為に3泊を過ごし、その1カ月後あらためてXR250Rで再度1週間強のツーリングをした年。初めて静水だがカヌーを体験した。

音が打ち寄せるささやかな波の音だけが聞こえていた。ぽちゃん、ぽちゃんという音の中、ズズっというフネの底がすれる音がし、すーっと中島の方向に滑るように進んで行った時の驚き。パドルが水に入り、出る時の音以外何もしない中、和琴半島の先へむけて漕いでいった。

こんなに気持ちのよい乗り物があったのだろうか。喫水が浅いので、すぐ真横が水面だ。残念ながら屈斜路湖は深くて水の色がそれほど透明感をもってない為、深さがわからない分少々恐怖感はあるのだが、しばらく操作しているうちにこの日は風も波もなく、そう簡単に沈する事もないと思う事ができ、楽しかった。

たまに漕ぐのをやめ、空を仰ぐ。青空の下を走る雲がゆっくりと動いている。どこかで鳥のさえずりさえ聞こえる。エンジンが回っているバイクとはまったく違う世界だった。この世界に圧倒され、まだ川を下った事もないくせに、東京に戻り、いきつけの登山用品店で割引が効く事を確認しつつ、注文してしまった。

今はなきリバースチールマジェッタ1。船体布はハードなタイプにし、3ピースに分解できるパドルと、ニンバスのライフジャケットをつけて、購入した。自分のバイクどころか、自分の船が持てて、それだけで嬉しくてすぐにでもどこかの湖に行きたくなった。

進水式は本栖湖の浩庵キャンプ場だった。おっとさんがアリーの311を持ち込み、沈はこうやるんだと体を張って見せてくれた。私はスパークリングワインを買っていって、バウにかるくかけて進水式をし、小雨まじりの中少しだけフネを漕いだ。その後、椎名誠監督の映画、「あひるのうたがきこえてくるよ。」の舞台になった福島県の沼沢湖や、栃木は中禅寺湖の菖蒲ヶ浜キャンプ場に泊まりながらカヌーのある休暇を楽しんだ。

この写真は菖蒲ヶ浜キャンプ場で乗った時。なぜかフネを出す時は晴天が殆どない。

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2005年05月24日

再生の過程

今日、ちょっと早めに帰る事ができたので、くーを病院に連れていった。今度の週末に行くつもりだったが、なんせ週末は大混雑。先生が丁寧なので、前に1人患者がいても順番が回ってくるのに30分以上かかったりする。しかしこの先生はご夫婦に最近新しい若い先生が来られたが、とても親切でかつ、いつ休まれているのか不安になる程、休みがない。いつでも急患の時は診てくれるし、診てもらう方が恐縮する程だ。前に診てもらっていた病院とは大違いで、適正な価格でかつ親身になって診てくれる。

昨日土砂降りにやられ、着ていた服どころか、荷物の全てが濡れ、酷い状況になってしまったが、今日もまた夕方にわか雨が降るらしいときいて、荷物を考えてでかけた。とはいってもデジカメと財布はもっていかねばならない。携帯はおいていった。

先日ETCを取り付けたが、まだカードがきていないので「カードが入ってません」と怒られながら出発。ポツポツと雨が降り始めていた。思いの外空いている明治通りを抜け、病院の横にある100円パーキングが今日は空いていたのでそこに入れる。ちょっと割高だが、きっと出る頃には雨が降ってくるだろうから、車まで歩く距離は短いにこした事はないと思い、決断する。

午後の診察は16時から。既にその時間は過ぎており、先客は2匹。くーの順番まで30分位かかったが、その後レントゲン室に悲しい目をしながら入っていった。今日は男の先生がレントゲンを撮ってくれるようだ。骨の具合がしっかり分かるだろう。飼い主はとても心配で、結果によっては先の見えない療養生活がまだ当分続く可能性もあり、複雑だ。

動物病院の待合室は、どこもそうなのだが、結構狭い。人が座る椅子がきっちり並んでいるが、犬などは相性があるのですぐとなりに座る事すらできない場合がある。ここでちゃんとコントロールすればいいと言われそうだが、なかなか簡単にはいかない。性格によるものも大きいし、相手がいる事なので、理想と現実は大きく違うものだ。

くーはこの半年の療養生活で、相当警戒心が強くなってしまった。家からあまり出ない訳で、他の犬とのコミュニケーションも取る機会が減っている訳で、なかなか難しい所なのだ。ストレスから体調を崩す犬もいるわけで、運動で発散していた事がまったくできなくなった今、飼い主としてはコントロールに悩む所だ。

姉妹犬の福来ちゃんが、くーよりも早くディスク競技デビューを果たした。この姉妹、実際に会うとそれ以上近づくなといわんばかりに、一定の距離をあけたり、体が相手から妙に逃げていたり、突然ガウガウをはじめたりする。普通の嫌いな相手とはあきらかに違う反応をする。邪気がないというのがぴったりくるのが犬で、ナチュラルに好きなものは好き、嫌いなものは嫌いというのが態度で出る。その中で人間社会で共存する為に何が必要なのかを飼い主しっかりと認識し、飼い主が学び、実践しなければならない。要は犬ではなく、全てが飼い主の姿勢次第なのだ。

この姉妹はディスクやボールに対して興味をすごくもっている。どうやら親戚犬や知り合いのコーギーを飼われている方の話をきいても、殆どがこの遊びを好むようだ。あと犬同士で遊ぶよりも、人に可愛がってもらったり、遊んで貰う事を好む。愛嬌があるといえばある犬種だ。しかし、短足胴長で、立ち耳、表情が豊かとかいう愛らしい姿が午後の紅茶のCFでもあったとおり、先行するのだが、実際はコントロールは難しい犬種だと思う。

飼いやすい犬として本にも紹介されているが、実際に飼ってみて底抜けの運動能力と、バテても走りたがる体力、引っ張り、パピーの頃の破壊癖などは有名だが、我が家も含めてこれほどまでとは思ってなかったのではないだろうか。引っ張られている飼い主さんを良く見るが、それが小型犬なら苦にもならない。しかしコーギーだとしっかりしつけを入れないと、飼い主が危険な目にあう可能性もある。

我が家がそれができているとは思わないが、危機感をもってしつけ教室に通ったり、リーダーウォークをするにはどうすればよいかとジェントルリーダーなどを使ってみたりしながら試行錯誤した。今は怪我をしている関係で、しつけとご褒美がなかなかバランスがとれず、厳しいしつけはやっていないのだが、少なくとも元気になれば何を飼い主は求めていて、それを望み通りする事で沢山褒めてもらえたり、ご褒美として遊んでもらえるというような褒めながら理解させるようなしつけを早く再開したい。

レントゲン室から抱えられてでてきたくーは、妙にあばれていた。あとで水が欲しかったんだと気づくのだが、なかなかこのあたりも飼い主としてまだまだだと思わされる。現像の為30分くらい待たされ、診断。するとこれまで回復を示すような表現を一度も使ってもらえなかったのだが、先生から「お、よいですね」という待ちに待った言葉を耳にできた。レントゲンからは、中心がしっかり繋がり、まだ割れた部分の突起が線としてはっきりわかるが、繋がり具合が確認できるものだった。

しかしだからといってすぐに運動開始にはらない。左右の前足の太さもすっかりアンバランスになってしまったし、完全にこの骨折の跡が消えるまでは、当分は包帯の生活だ。競技というよりは、運動のリハビリは秋ころからはじめられればよい方だろう。まだまだ飼い主がしっかりしなければならないと思わされた。

少々喜びながら、病院の外に出ると昨日ほどではないが結構大粒の雨が降ってきた。あわてて車を出して帰る。しばらく走っていると目の前が見えなくなるほどの土砂降りになった。昨日ほどではないが、20秒くらい外に出ていれば下着までびっしょりになれるだろう。梅雨前後はこういう季節がよくあって、そろそろ夏だなあって思いながら濡れるのもよいものだが、ここ最近の異常気象でその季節感がずれかけているような感じだ。

この夏は北海道をツーリングできないかもしれない。ここ2~3年で自分がこれまで20年近くしてきたライフワークについて、切り換えようとしている。それは全て切り換えるのではなく、少し余裕をもち、プレッシャーを減らしつつ、新しいスタイルを試す中で、楽しみを得ようと思っている自分がいる。

由とくーと一緒に、この夏、熱い時期ははずして、秋あたりに北海道でも旅するか、と言ってみる。

写真は左が昨年末骨折した時。そして右が今日のもの。確かに、再生の過程が確認できる。もう少しがんばろうな、くー。

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2005年05月23日

土砂降りに会う確率

薬局に寄りたくて、きっちり定時で会社をあがり、ゆりかもめに乗る。レインボーブリッジを渡る頃、都心の空には黒い雨雲が垂れ込めていた。そういえば今日は関東北部では午後から大気が不安定になり、局地的な大雨が降る可能性がある、とテレビの天気予報で言っていた。この時間に帰れば大丈夫だろう。

ただこれまでも運がわるいというか、あと少しという所で強烈な夕立にあい、1時間くらい足止めを食らったり下着までびしょ濡れになりながら帰った時が何度かあった。あとほんの5分。そういう状況にあうという事は、本当に自分がツイてない人生なんだと怒りと落ち込みが一緒にきたりする。

まさかな、と思っていたのだが、今日もまさに家の一番近いバス停を降りた途端、ものすごい雨が降ってきた。走れば3分、歩いても5分なのだが、そのあとちょっとが運命を分けた。下車したバス停前の郵便局の軒下で様子をみていると、少しだけ息をついたように雨足が弱まった。今なら走って帰れると思ったが、反対車線の屋根のあるバス停までいかないうちにもっともっと強烈な土砂降りと突風がやってきた。

反対車線のバス停は結構大きな屋根がついていた。ここでやり過ごすしかないと思っていたが、雨は真横に降ってくる。既に鞄もシャツもパンツもびっしょりだ。それでも1分もしないうちにすっかり洋服は濡れてしまった。仕方なく濡れて帰ろうと思い、歩きだしたのだが、もうバケツをひっくり返し、その中で突風が吹いているようなもので、20歩進んだ所で呼吸もできないほどの風と前がまったく見えないほどになり、倉庫の軒のしたに隠れた。それでも軒はあまり意味をなさず、容赦なく雨がかかる。

胸ポケットに入れていたシリコンオーディオが危険だ。鞄の中にはパソコンも入っている。しかしここに居ても濡れるだけだ。とにかく雨と風の中をとぼとぼと歩いた。虚しい気持ちとなんでこんな目にあわなければならないんだという怒りを感じながら、家になんとか着き、風呂にすぐに入った。芯まで冷えきった体と気持ちが落ち着くまでしばらく時間を要した。

ここまで洋服を着て濡れたというのは、このような夕立にあった時か、カヌーで沈した時位だ。カヌーで沈した時はそれなりに覚悟ができているのだが、今日みたいなのはやりきれない…

風呂に漬かりながら思い出した。カヌーといえば、私も廻りの友人がカヌー遊びをしていた時、丁度野田知佑さんの本も読んでいた事もあって、欲しくなった。そしていつか、釧路川を下るんだと思っていた。とはいえ、カナズチな私がそんな事本当にできるのか、と自問自答をしつつ…

カヌーをやっていた友人は、やはり和琴の友人達だった。中には北海道の主要な川を全て下った者や、ガイドをやっているのも少なくなかった。私たちが丘の人であれば、彼らはやはり水の人、湖や川の人という雰囲気だった。そしてとうとう彼らの指導を受けながら、釧路川を下る日がやってきた。

屈斜路湖から釧路川の流れ込みに入り、美登里橋までの短いコースだ。数艇のカヤックと、2艇のカナディアン。それは楽しい初体験だった。蛇行して流れが溜まっている内側などには、沢山の鱒がホバリングしているようにじっとしていた。喫水の浅いカヤックからは手が届きそうだ。倒木がある所はガイドの友人が教えてくれる。どこに何が沈んでいて、コースをどう取るかは全て頭にたたき込まれているようだ。私はそれについていくだけだが、エンジンもなく、ただ浮かびながら流されつつ、コントロールする楽しさを満喫していた。

終点近くで、友人のカナディアンが岸にひっかかり沈した。それに乗っていたチャボという和琴キャンプ犬が死に物狂いで犬カキしつつ、丁度近くを通った私のカヤックに向かってきた。私は手を伸ばし、チャボの両前足の脇を抱くようにして、自分のコーミング部に引きずりあげた。チャボは川の冷たさか、恐怖からかわからないが、ガタガタ震えていた。私の腹にぴったりと体をつけ、じっとしていた。

沈した飼い主、松ちゃんと、眼鏡を流してしまったじんじんさんは、笑いながら船を引き上げていた。青空が川面に映る午後の釧路川で、笑い声が響いた。濡れるのも、たまには良いかもしれない。チャボはいい迷惑だったのだろうが…

鞄の中はこれでもかというほど雨が入り込んでいた。靴も水没した為、当分乾きそうもない…

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2005年05月22日

林道と芸能人

ナイナイサイズという、ナインティナインが司会のテレビ番組で、寺さんが登場すると聴いたので、忘れずに観た。

寺さんとは、寺崎勉氏の事。野宿ライダーとしてカリスマ的な存在でもあり、ファンの集まりとして寺崎組がある。私は実際にあったことは1度しかない。また寺さんの実家に知り合いが行くという時、誘われたのだがどうしても都合がつかず、断念した事があったが、まだ機会はあるだろう。一番最初にRAMBLE寺さんのウェブページは私が作ったのだが、その後は現在に至るまで全て巨匠が担当している。

今回ナインティナインの矢部氏がバイクに乗り、山梨の山の中をオフロードバイクで走りまわるという企画。免許持っていたのは驚きだが、やはり姿をみているとニーグリップも腕の使い方も殆どバイクに乗ったことがないような感じ。最近お笑いの人でもバイクに乗っている人がたまに番組の中で映ったりするが、気合の入ったバイク乗りは岩城滉一氏とか藤岡弘氏位の人を指すのだが、まあ矢部氏はキャラというのもあるので、充分ではないか。

ただ番組が進んでいく中で、ライディングの時にみせる表情がたまに真面目になっている時もあったので、このあたりはバイクという乗り物の性質上、乗りながら演技をするなんていうのはなかなか難しいものだから当然だろう。反面、素の表情がなかなか面白い。

これは厳しいだろうと思われる大きめの石が敷きつめられている川幅がある早川を渡るシーンや、ガレた急坂を登るシーン。怪我しなくてよかったというのがディレクターの本音ではなかったろうか。同行した寺崎組メンバーがパフォーマンスを見せてくれて面白かった。寺さんも思いの外、お茶目なパフォーマンスで番組はとても面白かったと思う。

最新号のアウトライダーでは、久しぶりに巨匠寺さんがコンビを組んでナチュラル・ツーリングをやっている。何だか昔のアウトライダーの匂いがしてとても楽しい記事だった。お二人ともあれから随分お歳を召したのだろうが、やっぱりカッコいい。まだ現役のバイク乗りだ。

実際、自分が林道を走っているシーンはなかなか残せない。家にXR250Rで林道を走っているシーンのビデオがあるが、自分を撮影する場合は三脚にビデオカメラをたて、そこを往復してあとで編集したりする事もした。大抵意識しすぎてギクシャクするか、わざとらしくなってしまうのだが、誰も見ていないのだからまあいいだろう。旅人は結構そういう事を皆やっているのではないだろうか。ソロでの旅だからこそ、そういう事も気兼ねなくできた。

何だかテレビをみていて久しぶりに林道を走りたくなった。写真は関東近郊では一番走った中津川林道の長野県、山梨県、埼玉県の県境、三国峠付近で撮ったもの。後ろの荷物の上に大きい鍋が裏返しに載っている。ここは三国峠から秩父方面に抜ける方がジャンピングスポットが沢山あって楽しいのだが、11月晩秋の廻り目平キャンプ場で5年連続秋のキャンプをやっていた時、これからキャンプ場に入る直前のものだ。この夜はチゲ鍋の宴。実はこの付近にある川上村には、学生時代レタス農家に住み込みで仕事をした経験があったりする。

ライディングウェアは原付の頃思い切って買ったクシタニはエクスプローラーのツアージャケット。転倒の跡が数カ所残る、寒い時期の戦闘服だ。

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2005年05月21日

勝負は午前中

今日は忙しかった。

持病の定期通院の予約が9時から9時半で入っている為、8時すぎに車ででかけ、8時半に受付機に診察カードを通し、8時40分にカーオーディオ専門のショップに到着。車検証やキーを外したり用意していると、ショップのオーナーが登場。失礼だが結構年配の方だった。しかし話をすると、職人さん独特の雰囲気があったからなのか、この人は信用できると感じた。

ETCの本体とアンテナの装着位置を相談し、9時丁度に病院に向かった。このお店から徒歩で20分くらいかかる。私の診察予約を考えると、私の順番まで間に合わないので、タクシーでも拾おうかと思ったが、前の道が渋滞気味だったので仕方なく走った。

すぐに発作がおきたが、薬で抑えて走り続ける。山手通りを越え、ワシントンホテルの前を曲がり、都庁の前を通過。なんとか12分程度で走りきった。当然汗だくで、息があらいまま診察室の扉をノックし、看護婦さんに遅れた旨を話すと問題もなく、次の診察にまわしてくれた。

診察はいつもすぐに終わる。6歳からこの病院に通い続けているんだから、いまさら診る所なんかないみたいに、薬を出して貰うだけだ。しかし年に1度は検査しているので、今日は検査のフルコースの日となった。まず血液検査と尿検査。次に心電図。そしてレントゲン。今日はここで終わり。次回の予約日に肺機能検査をし、その後診察となり、その時に検査結果が全て出る。喘息についてはそんなに画期的に治療が進んだ訳ではない。正直大学病院で病気が完治する人はごく僅かなんじゃないかと思う。全てデータを取る為だけの場所のような気がしてならない。

そして院外処方箋を貰い、すぐ横の調剤薬局で薬を受け取り、カーオーディオショップへゆっくり歩いて向かった。途中朝飯を食べようかと思ったが、時間がないのでそのまま20分歩き、ショップに11時丁度に到着した。既に作業は済んでいた。

ETCは綺麗についていた。配線も美しい。ただカード自体はまだ手元に届いていないのですぐには使えないが、これで料金所通過が少し快適になる。また兼ねてから念願だったカーオーディオの換装についても相談した。カセットレシーバーしかついていないので、MP3が聴けるCDレシーバーが欲しいのと、あまりに酷い音をなんとかしたいのだ。真のオーナーである由はあまり気にしないのだが、実は秘密の計画があって、それなりにしっかりした音の出るカーオーディオにしたいと常々思っていた。でもあまりお金をかけたくないのも事実だ。その条件もよく理解してくれた上で、オーナーは親身になって相談に乗ってくれた。

ドア下にスピーカーを装着する事を薦めて頂き、実際に装着できるか内装を手早く剥がしてくれたのだが、板金のスペースと、今どきめずらしいく手回しハンドルで窓開閉をさせるため、スピーカーを装着する事でハンドルが干渉してしまう事が判明。パワーウィンドゥなら多少加工は必要だが装着できたかもしれない。同時に予算も含めて当初の予定通りリアスピーカーを強化する方向で考える事にした。

実際に前後共にマウントされているスピーカーユニットはあまりにお粗末だった。内装はボール紙に毛が生えたような板で、その上にビニールが張られているだけだ。ここにスピーカーがついているだけで、まともなエンクロージャーとして機能するわけがない。これで音があまりに貧弱な理由が分かってきた。このショップは板金を追加してまで、エンクロージャーとして機能するようにボディを改造する事までしてくれる。しかしそれはそれなりにお金がかかってしまうので、避けたい。何とか方法はないものか…

悩んでいると、今の紙っぺらの内装をMDFボードにして強化する手を提案してくれた。価格を相談し、その方向で話をすすめていく。とはいえ、実際に装着するのは2日がかり。6月中旬になってしまうそうだ。でもずっとこの車を乗ってきて気になっていた事が次々クリアされていくので、正直嬉しかった。長く乗っていたい車だからこそ、ここでリニューアルしたいと思っている。

今後の予定をいろいろ決めたあと、お昼近くになってしまったのであわてて実家に行く。実家の母親に少し遅くなったが母の日のプレゼントとしてDVDプレーヤーとソフトをセットで導入してやる予定なのだった。しかし母親が1時前にでかける予定なので、とにかく時間がない。結局危険だが路上駐車し、15分で設定から使用方法の簡単な説明まで行い、時間は12時半。なんとか全ての予定が終わった。

朝から何も食べていないので、車を数百m移動し麺通団で天ぷらと生うどんを2箱購入、自宅に戻ったのは13時になっていた。ただこれで終わらず、昼飯は天ぷらうどん。わかめ、ちくわ、春菊、かき揚げなどを載せ、長葱と半熟の玉子を入れて豪勢なメニュー。食べてどんぶりを洗って14時半。長い午前中だった。

写真左はアンテナ&スピーカー部、右はダッシュボードの中の本体。機種は、Panasonic CY-ET700D

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2005年05月20日

ダイハツのロッキーさん

我が家にはバイク(2輪)が3台、車(4輪)が1台あり、無事今年もなんとかだが税金を全て支払った。住んでいるところが山手線の内側という、一般的には地価の高い土地柄なだけに、駐車場代が家計に響いてしまう額である。しかし、一度車がある生活をしてしまうと、なかなか手放す事はできないようだ。

私自身、自分で車のオーナーになった事はなかった。やはりそれは実際維持するだけであっぷあっぷになってしまい、それならば趣味のバイクか、移動はバスか電車で充分と思っていたからである。そんな私だが、ずっと車を欲しいと思っていなかったなんて事はなく、実のところ今までかるく10回位はローン計画まで考えて車種を選んでいた。ただそれが実行に移そうという前に、何らかの諦め要素が働き、実現しなかっただけなのだ。

ある時はニッサン・キャラバン、ある時はロータス・ヨーロッパ・スペシャル、ユーノス・ロードスター初期型、スバル・サンバー、ダイハツ・ロッキー、シティ・ターボ2、トヨタ・ランドクルーザー60、カローラ・レビンAE86などなど…よくもここまでいろんなジャンルの車が欲しくなるもんだと自分でも感心するが、その時々で真剣なのだ。1ボックスはキャンピング仕様にして、とか、ヨーロッパはヒストリックカーレースに出る為とか、サンバーは冬の北海道を数カ月放浪する為に中で寝られるようにとか、ちゃんと理由があったりする。

結局保管場所がなかったり、あまりにも維持費が高すぎて無理という結論が出るのは分かっているのだが、夢を見てしまうようだ。バイクの置き場所なんかは、今だに徒歩と電車で片道1時間強の所に保管している位、都会という所はバイク1台置く事すらはばかられる不便な地でもあるのに。

その中で、私がバイクのカスタムに没頭していた12年ほど前に、そのショップの店長が乗っていた車が、ダイハツ・ロッキーだった。その人は何に対しても拘りがあって、その前はメルセデスのステーションワゴンだった。それがいきなりロッキーに買い換えてきたのには驚いたが、1600ccのこじんまりしたRVにしては、とにかくサスからシャーシー、内装までヘビーデューティーに作られていた。当時の対抗車種のエスクードや、ホンダのRVモドキよりもはるかに真面目に作っていた4WDだった。こんな車もいいな、とダイハツに行ってカタログを貰ってきた位、気になっていた。

そして今から8年前、我が家にロッキーがやってきた。というよりは、由が神戸で乗っていた車なのだが、とても女性が乗るような車ではない。曲がらない・停まらない・遅いという、普通の道を走る上では正直不便極まりなく、ましてや装備が貧弱で、パワーウィンドウもなく手回しだし、リアシートも分割やリクライニングもしない、4ナンバーなみのエマージェンシーシートのマリンランナーという廉価グレード版であった。まあロッキー自体はグレードが少なく、最上位との差はエンジンや車体が変わらないから、あとはオーナーが便利装備について気になるかどうかである。

あと車内がこれでもかというほど狭い。キャンプ用品を満載にし、くーの家(キャリー)を搭載するともう満載状態だ。当然シートもフラットにならないし、社内でビバークなんて事はまず狭すぎてできない。そういうケースでは、以前実家で乗っていたレガシーなんかはフルフラットで氷点下20度の北海道でも安眠できた。ロッキーに限っていえば、外にテントを張るか、宿を取るかになってしまう。

突如として、一時期憧れた車に乗り、キャンプなどに出かけるようになったのだが、それからしばらくはノーマルのままで乗っていた。所有者は私ではなく由であり、あくまで私は運転をするだけなのだ。こんな車を持っている由は、あきらかに変わり者と言われてもおかしくない。

今年の秋、9年目の車検がある。そろそろいろんな所にガタが来ている。もう少し乗り続けると東京都は税金が1割程度あがるそうだが、この車が気に入ってるので乗り続けるつもりだ。しかしそれにしてはちょっと装備が貧弱なのは確かだった。これまで手を入れたものといえば、ヤフオクで福岡から買った現在ついているダンロップ・デジタイヤ+アルミの4本セットと、ヨコハマのスタッドレス、そして今だにガムテープでダッシュボードに搭載されているパナソニックのポータブル・カーナビ位。

実はこのロッキーは阪神大震災を経験している。同時に由の乗っていたセローもそうなのだが、あの大変で危険な状況下で、親戚の為に大変な貢献をしてきた。RVでちょっとした雪でも4駆に切り換えればオールウェザータイヤで坂を登る事ができたし、通るのが大変な被災地をオフロードバイクで乗り越え、水を確保したり、運んだりした。由やその親戚の為に、大きな役割を果たしてきた事もあって、私もそれに敬意を払ってできれば乗り続けていきたい。

明日、私の定期通院の前後で、このロッキーにETCを取り付ける。同時に後日だが、現在のカセットレシーバーしかないオーディオについても見直し、1DINのMP3対応CDレシーバーと、少々パワーのあるリアスピーカーに交換しようと計画している。また後ろのウィンドゥフィルムも貼ってないので、これも夏までに貼りたい。そうして少しこの車を生き返らせる事ができるような気がしている。

ウィンドゥフィルムはくーの為でもあり、冷房の効きをよくさせる為でもあったり、オーディオについてもくーが大音量の音楽でひるまないように少し慣らせてやりたいと思ったり、グローブボックスの中を占めているカセットテープを撤去し、MP3を焼いたCD-Rにしてスペースを有効活用したいとかを考えている訳だ。

ETCはもう少し早くつけたかったが、まだ遅くはないようだ。長い目でみれば少し割安になるはず。しかし手回しの窓の車にETCもないものなのだが、それはそれでギャップは楽しもうと思う。

写真は開陽台下のロッキー。こういうダ^トはお手の物だ。

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2005年05月19日

長いトンネル

歳をとった、なんていうと、お叱りを受けると思われる知り合いは多かったりする。50代でも熱いライディングをする人が、大勢知り合いにいるからだ。親しくしている一回り上の世代の方は、殆どがアウトライダー・パティオがきっかけで知り合った人なのだが、目が覚めるような熱さなのは間違いない。

なんだか30代中盤を越えてどっと疲れが出、日々の仕事だけで何だかいっぱいいっぱいな生活をずっとしているような気がする。そんな中でも海外へのバックパックの旅をしたり、国内ツーリングをしたり、くーがやってきたりした訳なのだが、逆にそういう事がなければどうなっていたのか分からない。

はたからみればそんなに過負荷な日々ではないのだが、もう何年も気分的に圧力を感じ続けている。いくら頑張っても実らない成果、実績をあげても結局目立つものや上に受けのよいものが優先される矛盾だらけの仕事場に嫌気がさしているというが大きな原因だと思っている。じゃあ辞めればいいじゃないか、という事は簡単だ。私にも守らなければならない生活がある。簡単にはいかない。

とはいえ、このままでは潰れてしまう。したい事は沢山あっても手をつけられない。そう、遊びやプライベートについても同じなのだからやっかいだ。自分が自分でなくなっていくような気がしている。そんな中で、予定していた北海道ツーリングの準備をして出かける直前で、体調不良が原因でキャンセルした事があった。その反動は自分でも思っていた以上にきつかった。

やっぱり自分にとって毎夏の旅や、ささやかな開陽台の旅はどれだけエネルギーになっていたのかがよく分かる出来事だった。丘にあがれない夏。それまで15年以上続けてきた事の消滅というのは、ますます日々の心の病気を重くさせるには充分な出来事だったのだ。

20代の頃は、夏に北海道を走る事だけで、1年もった。仕事についてもがむしゃらに損得なしで取り組めた。2~3日の徹夜や土日出勤なんか普通で、残業時間も80時間を切る事は入社後からずっとなかった。20代の最後に記録を更新し、160時間残業が3か月続き、それが原因で過労で肺炎。1か月以上休み、その後も体調は思わしくなく復調する事はなかった。

30代に入ってから、段々と仕事場での矛盾が表面化、というか気がついてしまい、いかに理不尽な職場なのか、もう自分を誤魔化す事ができなくなってしまった。その中でどう仕事をしていくかで、激しく落ち込んでしまう。一度崩した体調は戻る事なく、無理がきかなくなってしまう。持病の喘息が悪化し、風邪をひけばすぐに肺炎を併発し、既に5回肺炎をおこしているほどだ。この年齢で真面目に仕事に取り組んだおかげで、どれだけ取り返しのつかない事になってしまったのか。

このままでは終わらない、という気持ちで、今はその機会を待っている。日々勉強なのはこの職業に限らず人間必要な姿勢なはず。しっかりと今吸収すべき事を吸収し、身にしていかなければならない。ただこのプレッシャーに自分から飛び込んで自滅しないように、気をつけようと思っている。

写真は20代中盤、最も仕事にも旅にも積極的に悩みまず取り組めた時だ。場所は太平洋シーサイドラインの霧多布近く。しかし懐かしがっているだけではどうしようもない。50代でも積極的に働き、遊び、走っている人を目指し、私もこの長く暗く細いトンネルを抜けないとならない。

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2005年05月18日

ビタクラフト

炊飯ジャーが壊れた。というか、内釜のテフロンがしばらく前からはがれていたので、買い換えたかった。

現在のは、96年に私が一人暮らしを初めた時に買った、ナショナルのIH炊飯ジャー。5.5号炊きだ。IHのはしりとも言える頃だったので、結構高かった。主食なので、やっぱりそれなりにこだわってIHを買ったのだが、まあそれから約9年、それなりに頑張ってくれたと思う。

米を炊く事については、キャンプでちょっとした自信がある。ガソリンストーブで炊く事が殆どで、釜にはコッフェルを使う。決めては水の量と火加減と蒸らす時間。麺類で済ます事も多いが、やはりうまい飯はちょっとした幸せを感じる事ができる。やっぱりこのあたりは日本人なのかもしれない。

通常、私は米にはそんなにこだわりはない。大抵の米は、水加減と炊き方で味は決まると思っている。なので実際は味オンチなのかもしれない。まあでも米の粘りやは歯ごたえのようなものは、米の質に大きく左右されるのもわかるが、なかなかそんなに酷い米はないような気もしている。このあたりはポリシーみたいなもので、お金を出せばそれはおいしいものやいいものは手に入るだろうが、安い材料でいかにおいしく頂けるような中に、アウトプットを見いだすようなものとしている。

米は大抵、5kgの無洗米。最近は胚芽精米のものを選んでいるが、本当は玄米を食べたいと思っている。単に高いという理由でこの米を選んでいるが、味もまあまあそんなもんだろうという自己納得しながら選んでいる。このように、食材についてはシェフみたいに拘りはないのだが、モノへの拘りは少しばかりあるようだ。

今回は3号炊きのちいさめの炊飯ジャーを選んだ。米をうるかす時間がついている機種が欲しかったのだが、それは5.5号炊きのモデルなので、諦めた。しかし、諦めきれなかった部分で内釜の種類がある。IHはもちろんの時代になったが、それは鍋のブランドだった。

ビタクラフト。鍋の世界では最高級であり、プロも認める鍋だ。この機種にビタクラフトが採用されているのを知ってこれしかないと思った。とはいえ、このモデルは5層である。最高級の9層にはほど遠い。また7層、8層というモデルもあり、本当は「なんちゃってビタクラフト」なのかもしれないが、それはそれでいい。何だか、パナソニック製ライカレンズや、京セラ製ツァイスのような明らかに素性が違うのもあるのだろうが…まあ何にせよ自己満足の域での事だから。

今回購入したのはタイガーのJIT-S550HFというモデル。これからちょっとだけ、ご飯が楽しみになった。9年頑張ってくれたナショナルのIH炊飯ジャーよ、お疲れさま。

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2005年05月17日

その名は巨匠

いわゆる最初はメル友と言われる関係だったのだろうか。インターネットがまだ一般的ではなかった頃、商用ネットワークNifty-serve(現ISP、@nifty)のメールアドレスに私がメールしたのが最初だった。当時仕事柄nifty-serveのメールを使って仕事の連絡を行っていたり、アドレスを持っているバイク乗りの友人同士で、ホームパーティとよばれる小規模なパスワード保護された掲示板で日常会話をしていたので、思い切って誘ってみた事からお付きあいが始まった。

当時でもツーリング・フォトグラファーの第一人者として、その名を知らしめた巨匠とメールのやりとりをしているうちに、その後アウトライダーでもホームパーティを開く事となり、私も一参加者となった。

元々Nifty-serveにはバイク乗りの為のフォーラムもあり、多くのバイク乗りでパソコンやワープロから通信できる人々がいた。当然そんな中にもアウトライダーを読まれている人もいる訳で、最初はそういう人たちを始め、雑誌の中に小さくパソコン通信のコーナーができ、そこにこのホームパーティ開設の事を掲載されてからは、あらたにIDを取って参加してくる人が増えていったように思う。

しばらくして新しいパティオというサービスが始まった。要はフォーラムの会議室ひとつを月幾ばくかの料金で開設できるようになり、これまでのホームパーティよりも規模が大きくなり、多数の参加者がいても会話を追えるようになった。これを機会に、アウトライダー・パティオという名で活動を開始。巨匠一人ではボードリーダーとしての運営が厳しい為、サブシス制度を設ける事になった。

フォーラムでは開設者であり、オーナーである者がシスオペと言われており、その補佐の役割をサブシスオペと言った。規模が小さいパティオだが、多くの不特定多数の参加者を募る事から、ボランティア・スタッフをたてて運営し、何か問題があった時に対応ができるように考えた。フォーラムと同じ制度を、アウトライダー・パティオにも採用したという事だ。

そして公募する事となったのだが、しばらくして立候補の状況を確認した時に、誰も立候補者がいなければ私も協力するような事を書いた事までは憶えているが、その後私もサブシスとして参加するようになっていた。

アウトライダー・パティオは、現在も稼働している。今後システムを変えていく可能性もあるが、運営については常に巨匠と話あった上で、トライをしつつ有効であれば切り換えていくという流れが多い。時代がインターネットに流れていくにつれ、1996年に巨匠と共同でドメインを立ち上げ、バイクツーリストの為のポータルと、ウェブデザインを始めた。かっこよく言えば、ビジネス・パートナーと言える。

巨匠はすばらしい仕事をする。さりげなくしているのだが、実に的確で自分に厳しい。しっかりとアウトプットを出すのは、さすがプロである。ここ数年夏の北海道をついでだが一緒に移動し、撮影する姿を目の当たりにしてあらためてそう思った。

この写真はアウトライダー・パティオの参加者向けに開催された、ツーリング・フォト・ミーティングの1枚。私のNikon FM2を渡して撮って頂いた。1往復で2ショット。どちらも寸分違わずフレームのどまん中でトリミングの必要もない。シャッター速度や露出もミスはない。これがプロの力というものなのだという事を、たった2ショットで知らしめてくれたものだった。

操っている側は、普通に走っていただけ。あまり遅すぎても、速すぎてもいけないと言われ、普通に制限速度で走ったちょっとしたカーブだった。自分のライディングの写真を、プロに撮って貰うというおいしい企画だったので、大勢が参加したが、残念ながら2回目は実現していない。

この巨匠と友達のように話ができる運命に、感謝したい。また、何か仲間でやっていければと、我々のドメインを有効活用して、何かこれから夢の実現に向けて、取り組んでいければと思っている。

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その巨匠の新しい写真集、日本百名道-絶景を走る巨匠の作品が旅心を誘う逸品だ。

2005年05月16日

南へ向かう

日本縦断の旅は1986年。決行は夏休みに入ったその日だった。しかし、台風が通過し、いきなり出航が2日も遅れてしまった。あらためて有明埠頭に向かうが、北海道航路とはまったく違う、手前右側に接岸している白と青に塗られたA-LINEと書かれている船が乗る船だった。

これまでのフェリーとは違って、この大島運輸はフェリーとは名ばかりで殆ど貨物扱いとなる。乗り手がそのまま乗って乗船する事はできず、作業着にドカヘルで地下足袋の港湾のおじさんが運転して乗せる。買ったばかりのSRX-4だったので、その固定方法が非常に心配で仕方がなかった記憶が残っている。私がエンジンをかけて、少しふかし気味にクラッチミートをして、大きな口をあけた船倉へのタラップの先に消えていった。

船のサイズにしては小さい船室は、当時は正直な所2等しか知らなかった。個室なんていうのはとんでもなく高く、また二等寝台のようなソロパッカー向けの等級もなかった。区切りのない2等船室。ザコ寝だ。ここで48時間を過ごす事になる。正直そんなに不安や退屈が待っているような気分ではなく、これから向かう沖縄から始まる、長い日本縦断の旅への不安と期待といったものが大きくて、落ち着かなかった。

この旅の為に買った分厚い日本道路地図。表紙を破り、ピレリのステッカーを張った。その地図を開き、まず向かう沖縄から、その後九州というあたりまで船の中でじっくりとルートを考えた。カップラーメンやバターロールなどを買い込み、この長い航路を過ごす準備万全で望んだ。

とはいえ、殆ど寝て過ごしたようなものだった。風呂の時間には風呂に入り、甲板に出て夕陽を見ながらビールを飲んだ。中継港の志布志を超えたあたりから、船首があげるしぶきの中に、トビウオが飛んで逃げていくのを眺めていた。奄美大島の名護を出てからイルカをみかけた。与論の港についた時に、学校の友人がこの夏住み込みでアルバイトをしているはずなので、港で友人を探した。彼は女の子に囲まれて、メガホンを持って呼び込みをしていた。そしていよいよ那覇新港へ。

台風の余波で波が高かったらしく、50時間以上かかり那覇に到着。本来なら夕方に到着し、宿を探そうと思っていたのだが、すっかり暗くなっていた。とりあえず何か食事をと、適当にバイクを走らせ、ぽつんと1件だけ明かりがついていた小料理屋をみつけて入った。当時まったく無知な私は、琉球料理というものがわからず、おかみさんに適当に頼んだ所出てきたのがてびちとラフテーとジューシーだった。

オリオンビールや泡盛を飲み、調子に乗っていろいろなものを食べたが、船旅の疲れもあって気持ちわるくなってしまった。寝る場所を探しに一旦港に戻るが、もう動けなくなり銀マットを敷いて屋根もない埠頭の片隅で転がって寝た。辛い日本縦断のスタート初夜だった。

寝ころんだ視線の先には、乗ってきた波之上丸が接岸され、小さい照明をつけて佇んでいた。明日から始まる長い旅。そのスタート地点のここまでは、この船が運んでくれた。今はこの船はなくなり、フェリーなみのうえ、というのが後継で就航しているようだ。東京から沖縄の航路は、フェリーありあけが就航している。

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2005年05月15日

コーギーミーティング

東京コーギーズという同じコーギーを飼う方たちのコミュニティに参加していたりする。そのイベントが今日、お台場は潮風公園であったのだが、いまだ右足の指の骨折が完治していない為、正式に参加をする事は控えていた。しかし、実の姉妹親戚犬と飼い主さんが集まる事もあり、終了1時間前に顔を出してきた。

そこには大量のコーギー。いろんなコーギーがいて、見ているだけでも楽しい。ただここ最近しっぽを切らないペンブロークも増えてきて、個人的にはちょっと嬉しかったりする。断尾についてはいろいろ意見もあるのだが、実際断尾されているコーギーの飼い主さんの半数以上は、幼い頃、生後3日前後で尻尾を切り落とされてしまう事をしらないで、もともとしっぽがないか、短いものだと思い込んでいる方がおられるようだ。

私も実際、コーギーを初めてみた時にしっぽがない個性的なお尻もかわいくて、そういうものなのかと思い込んでいた。しかし犬を飼う事について真面目に勉強していくうちに、断尾や断耳など、いろいろ外科的な手が生まれてすぐの小犬たちにされている事を知り、愕然とした。

理由は殆ど、ブリーダーやショップが売れないから。とんでもない動物虐待だ。それも小犬の頃は痛みを感じないなど、訳のわからない理由を平気な顔して言う業者や根拠のない事を無責任にしゃべる人がいるのも事実だった。逆に、知らないで断尾された犬を我が子に迎えた飼い主は、とても複雑な思いだろうと思う。私としては、それはそれで認識した上で、次に飼う時には是非、自然のままの姿を大事にするようにして行って頂ければ嬉しいと思う。犬にはそれを選べないのだから、人がそれをしっかり受け止めて、同じ事が繰り替えされないようにすれば、それでよいと思う。

我が家のコーギー、くーは断尾しないブリーダーから分譲して頂いた。正直いって、そこらのペットショップに売られている価格とは比べものにならないほどだった。

小犬の価格というのは2か月間親や兄弟の元でしっかりと犬同士、親子の関係を勉強して、それぞれの家庭へ旅立つ訳だが、ペットショップには1か月弱のかわいい姿が売れるか売れないか大きく左右する時期な為、必要となる小犬が経験しなければならない事を学べないまま、蛍光灯がらんらんと輝く小さい下駄箱のような場所に詰め込まれてる訳だからストレスは図りきれない。

ブリーダーによってはこの2か月は最低限必要であると言い、逆にすぐにペットショップに卸すことで、高価で売れるという矛盾の中で小犬たちは飼い主の手に渡る事になる。2か月もの間、毎日しっかり衛生保ち、小犬が食べられるように食事も下準備をしたりする事を考えれば、おのずと小犬の値段というのはこの経費である事がわかる。それに加え、どれだけマージンが業者が取るかによって、その値段の差が大きく開くようだ。

いろいろな事情を経て、今は暖かい家庭に分譲されていったコーギーが、こうして集まり飼い主同士のコミュニケーションを図る事ができて、ある意味とても幸せなのではないかと思う。実際、多くのコーギーがどこかで血が繋がっていたりする。世代を経て出会うDNA。なかなか壮大な世界でもあるようだ。

犬がいる生活をそれなりに楽しんでいる。とにかく骨をしっかりと治し、今年はもう少し遠出ができればいいなと思っている。親戚犬の飼い主さんたちとも、今年こそは皆でキャンプにでも行こうと約束をした。

私もなんとか、今年の後半にはディスク競技に出てみたいと思っている。何にしてもしっかり完治させないといけない。飼い主の一層の気配りが必要だ。

写真は頂いた洋服を着たくー。洋服はいろいろ意見があるが、犬はしょっちゅう体を洗う事は皮膚によくない為、泥まみれにならないよう防ぐ為に使ったり、知り合いの家で抜け毛を抑えるために着せたりするものだという事を、犬を飼ってから初めて知った。単なるファッションではない場合もあるという事は、飼ってみていろいろなシュチュエイションにあってみないと分からない事のようだ。

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2005年05月14日

月明かりの中で

月明かりでも設営・撤去ができるテント。ムーンライト。なんて素敵な名前なんだろう。

高校生当時、初めて買ったテントがこれだった。それまでテントは自分で持っておらず、中学時代に乗っていたブリジストン・ユーラシア・スポルティーフという自転車で東京新宿の自宅から秩父までサイクリングした時も、宿泊はバンガローだった。バイクに乗り始めた頃も、国民宿舎や民宿を使ったりする事が多かったが、クシタニの小冊子、TRAIL(トレイル)、TRAIL2で寺崎勉氏が書かれていた内容が一番影響しているような気がする。また、私がトレールバイクを好んで乗るようになった原点である、風間深志氏のスタイルも影響していたようだ。

テントは日本のように雨が多く、高温多湿の気候では、以下の項目をポイントに何を買うか選んでいった。

1.雨に強い事…突然雨が降られても安心して眠っていられる。
2.コンパクト…収納サイズが小さくなる事
3.設営が簡単…設営・撤収がら楽にできる
4.価格が安価…当然当時の私が購入できる価格である事

この当時は雨の中の調理や、風の強い場所で設営する事などは想定できていなかったが、いろいろ調べた結果、ユーレイカの自立型A型テントがとある本で目にとまった。しかしそれは日本で売っているのがわからず、購入に至らなかった。

その他でダンロップは高価だったし、外国製テントはもっと高かった。そこで目についたのが、モンベルというメーカーだった。前述の寺崎氏も愛用していた、ダクロン・ホロフィルという化学繊維を使った画期的なシュラフをリリースしていた日本のメーカーだ。私はモンベル製品についていろいろ調べてみたくなった。

ラインナップされていたテントが、ムーンライトという美しい名前である事から、その中の2~3人用のテントが欲しいと思ったユーレイカのテントにそっくりの構造をしていた。コピーモデルかとも思えるその酷似した構成は、その製品の確かさと価格で、2のコンパクトという部分で少々ひっかかったが、これしかないと思い、このムーンライト3を購入する事になった。

案の定、フレーム収納時の長さが結構かさばり、積載に相当苦労した。縦に積んだり、横に積んだり、今でこそ自分の荷物積載スタイルが確立しているが、この頃の積み方はお粗末といってもいいものだった。リアシートに家財道具一式、それも家や布団も積む訳だから、その難しさは経験と工夫が重ならなければなかなかうまくおさまらない。

そんな苦労を強いられたこのムーンライト3だったが、性能はすばらしく今だに上位ではないかと思えるほど、クオリティは高かった。初めての林道キャンプツーリング、日本縦断ツーリングなど、我が家として機能したムーンライト3は生地の強さ、設営・撤収のしやすさ、雨天時の居住性のよさなど、満足いくものであり、10年以上たっても設営した場所の水はけがわるく、夜半に水浸しの上にテントが浮かんでいるような状態になっても、雨が染みてくる事がなかったほど、グランドシートの防水性も高かった。

まあ私は購入後実際にフィールドで使う前に、シームシーラーという巨大なセメダインのような形のシリコンジェルを縫い目に全て刷り込んでいたり、撥水スプレーを新品状態に1缶まるごとかけて生地を保護したせいもあるのかもしれないが、想像以上に耐久性が高いテントだと思う。

当時は出入り口が1箇所だけだったが、今では2箇所になり、ますます使いやすくなった。フレームの分割数も見直され、形は変わらないが進化しているようだ。またオプショナルフライを付ければ雨天時の前室もでき、なかなか熟成された素晴らしいテントだと思う。

このムーンライト3から私のキャンプ生活が始まった。
写真は1986年。日本縦断の後半、開陽台の夕陽の中で。

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2005年05月13日

流氷が来ている

らしい。この季節では記録的との事だ。なんと今日、宗谷岬東方約50km沖にだ。この時期には珍しいどころか、5月に流氷がこれほどの規模で南下するのは、札幌管区気象台で1970年代に始まった衛星による観測以来初めてだそうだ。稚内地方気象台では、1946年から流氷の観測を行っているようだが、5月に流氷がこれほどの規模で南下するのは珍しく、流石に異常気象にもほどがあるようだ。

普通流氷というものは、12月に入ってからシベリアの沿岸、主にアムール川河口で生まれ、約1か月から1か月半かけて北海道の沿岸に南下する。2月に入るとオホーツク沿岸も凍り、流氷に港が閉ざされる事もあるほどだ。流氷の面積は、ピークの2月末から3月中旬頃に、北海道の約15倍の広さにもなる。

例年この時期の流氷は、宗谷岬から300kmほど北にあるサハリンより北にあるようなのだが、強い風に押されて宗谷岬沖まで南下してしまったようだ。12日には宗谷岬に訪れた観光客が目を疑うように眺めていたことだろう。

沖縄の子供たちは雪をみたことがない子が多いのだが、同じ日本でこれだけ特徴のある気象現象はないかもしれない。海が一面氷に包まれる…考えられないだろう。春が近づいてきているはずなのに、ここ数日は極端に寒さが戻ってしまっている。

例年流氷は2月に見に行っていた。テントを張りに行っていた事もある。これも前に書いたが、相当装備をしっかり準備していった事もあり、辛いとか寒くてどうしようもないという事もなく、感想としては面白い経験をさせて貰ったと思っている。機会があればまたやってみたいが、そういう余裕のある旅ができるような暮らしができないと今は難しいかもしれない。

写真はそのテントを張った浜小清水のコロニー。分かりにくいが、小屋の先はオホーツクで、流氷がびっしりと広がっている。テントを張っているのはみんな知り合いで、食事は右下にかすかにみえる、円形の壁に包まれたなんちゃってイグルー。これにブルーシートの天井を張り、横の雪のブロックで風をふせぎ、中に5~6人入る事ができるようになっている。

どこかで見た写真なのだが、ここはフレトイ展望台に登る坂からのアングルが多いので、同じになってしまう。

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2005年05月12日

走るという事

フェリーの旅が好きだという話をした。フェリーがまったく別な世界に連れていってくれる事や、自分とバイクを一緒に運んでくれる事がその大きな理由だった。反対に、高速道路を移動する事をあまり好まないとも言った。とはいえ、嫌いでもないと。

じゃあ走るのは嫌いなのか?そんな事はない。やはり走る事で何か自分の中から感じるものがある。両極端な性格なのか、走る時は徹底して走る。そして翌日はまったく動かない。そんなスタイルをずっと続けている。

東京から新潟港から出るフェリーに乗る時は、ノンストップで練馬から新潟西まで走る。関越トンネルを越え、北陸道までののどかな風景の中、疲れて休みたくなるよりも、走り続ける事が楽しくなってくる頃だ。オフロードバイクで、3桁の速度をホールドしながら、ひたすら走る。最初はまだ先は長いと思っている気持ちが、段々とスロットルをあけ足元を走り去る路面が永遠に続くような間隔の中に、妙な気持ちの高揚感が沸き上がってくるのを感じるようになる。それからは、いくらでも走り続けられるような気持ちになる。

北陸道に入り、道幅が狭くなり、営業車が増えてくる頃疲れが目に見えて襲ってくる。風景も正直あまり面白くないせいも起因しているのだろう。しかしあと少しで目的地だという事から、スロットルは緩まない。たまに集中力が欠けている瞬間が現れてくるが、すぐに持ち直し、走る。そして、2時間40分で新潟西の料金所を通過する。

市内のバイパスを走り、新潟駅横のビジネスホテルに到着した頃、走りきった満足間と、ほどよい疲労感と、あとはゆっくりとできる事の幸せを感じながら、食事に新潟の町へ出かけていった。走りに集中することは、緊張と疲労の中300km強を走る中に、何かを感じさせてくれるのだ。

フェリーでまる1日ゆっくり休んだあと、小樽に朝上陸し、5時に走り出す。途中知人の家に1時間寄りながらも、網走のいつもの寿司屋でお昼を取る。その後知床峠を越えて16時に知床観光ホテルに到着。巨大な風呂にゆっくり漬かり、それまで500km以上走り続けてきてさすがにこわばった体をほぐす。休憩はその間取っていないが、これも走る事が自然な事のように、無精に走り続けるのだった。この日は羅臼に泊まった。

翌日は開陽台へ移動し、それから数日はせいぜい町への往復だけで殆ど走らなかった。ここで、またひとつのメリハリのある旅というか、別な時間の過ごし方から、リラックスする時間を楽しんだ。このような事を繰り返すのが私の旅のスタイルのようだ。

走る緊張感、高揚感の先にあるやすらぎの時間は、それはそれは素敵な時間だ。これはバイクでなければ味わえない。そして多くのバイク乗りは、同じ行程を同じ緊張感と疲労感を経て、出会う。走る事は基本であり、目的であり、その先にある何かが決定的に違うものを感じさせてくれるのだ。だからこそ、バイクで走る事は誰にとってもひとつの目的であり、その先に同じものを見る事ができる。

走らなければ始まらない。だからこそ私も集中力を高めて、走る。

写真は3時間弱3桁から速度を落とさないで走りきった先の、新潟西ゲート先。まあこのバイクは荷物満載だと最高速度は120km/hしか出ないのだが…

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2005年05月11日

新天地へ渡る方舟

日本は北海道、本州、四国、九州という4つのまあいわゆるちょっと大きな島と、沖縄や小笠原、五島や隠岐などの小さい島が集まっているのが日本だ。その中でちょっと変わった気候をもった、巨大な島、それが北海道だ。

当時都会育ちの私にとって、北海道はそれは遠く、広く、まったく想像がつかない場所だった。しかし、いろいろな雑誌や話を聞くうちに、行ってみたい場所として一番気になる所だった。それはやはり「日本離れした風景」というようなコピーから来るものだったのかもしれない。

日本らしさ、というのは何なんだろう。私はそれまでせいぜい関東近郊、母親の実家のある釜石周辺などに電車や車に乗せられて行った程度だった。まだまだ日本っていう所を殆ど知らない。いや、まったく知らないと言ってもいい。それこそ、どこだって自分にとって未知の世界だった。

実際には四国まで自走する旅が私のロングツーリングの最初経験となったのだが、同時に睡魔と2ストロークの微振動との戦いだった。目的地となる四国までは、ひたすら移動する。走り、ガスを入れ、走るの繰り返しだった。それが楽しいかと訊かれたら、私は正直嫌いではないのだが、好きでもなかった。それよりも、四国の海岸線や山の中を走り、セルフうどんやオデンを食べ、アイスクリンを舐めながら歩く旅が好きだった。

四国は美しい島だった。細くまがりくねった道、地図でみれば小さい島なのだが、ちょっと海から内陸に入れば、ものすごい深山幽谷の先に、それはそれは美しい川が美しい森の中を流れていた。こんな風景は私はみたことがなかった。そう、ワクワクした。旅する事がどれだけ自分にとって、魅力のある世界なのか、いかに自分がまだまだ無知な小さな人間なのかが痛いほど感じられた。

こんな世界を知らなかった事、昔自転車で秩父まで旅した時のように、辛いだけの思い出しかなかった時には感じられなかった。そして私は北海道に行く事を決心した。

北海道に行くには、自走が基本なのだろうが、どちらにせよ船で渡らなければならない。であれば、有明埠頭から出ているフェリーで行く事に興味を持っていた。そう、どこでもドアではないが、扉をあけた先に新天地が広がるように、長距離フェリーに乗っている間、とても長い時間をかけて目的地に着く事が、遠くに来たという気持ちを高めてくれる。それが船という海に浮かぶ乗り物に、自分の愛車と共に乗る訳だから、妙にワクワクするのだった。

自走で行くのであれば、四国までの往復の再来だ。やはり島国ニッポン、船に乗る事で日本を感じられるはずだ。それが30時間もかける事が、どれだけ遠くの新天地に届けてくれるのか、想像するだけで楽しいじゃないか。
私はそのノアの方舟とも言える、自分を新天地に届けてくれるフェリーが大好きだ。航路は減ってしまったが、今でもこの船に最初に乗った事が、私の運命だったんではないかと思っている。

その船は、近海郵船の「さろま」と「まりも」。私のフェイバリット。

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2005年05月10日

北は冬、南は初夏

先程紋別で大雪が降っている映像が映っていた。GWの頃までは、開陽台周辺にも雪が降る事はめずらしくないだろう。しかし明らかに春はすぐそこまで来ている。今降っている雪は春の雪だ。

沖縄もGWに入ってすぐ、梅雨入りしたらしい。これも毎年のパターンでほぼ同じ時期だ。丁度湿度の高い気候の中、八重山を旅していたのでこれもよくわかる。米原キャンプ場の冷水シャワーが寒いと感じられる日も少なくなかった。

日本は細長い。このように気候の差があって、狭い国土を季節が走り抜けていく。島国ニッポン、ある意味いろいろな季節を感じられ、狭いといいつつ誰もがちょっとやる気を出せば日本一周だってたやすい国土。これは旅するにはとても理想的なのではないかと思ったりする。

島国という事で、船や空路を使わなければ一周もできない訳だが、それがまたひとつひとつ足跡を残していっているようで嬉しい。私の場合は最初に行ったロングツーリングは四国一周だったが、ある意味章立てしているような旅ができる風土でもある訳だ。

実はこのGW明けから、冬服から夏服に変えた。連休前はコーデュロイのパンツかチノパンに、ツイードかウールのジャケットを着ていたが、とうとう昨日からジャケットを着るのをやめた。チノパンにオックスフォードのボタンダウン、そしてネクタイという、正直出勤する朝6時すぎでは少し肌寒いが、逆に気持ちいい位の気候の中、職場で最初にジャケットを着ない奴となった。これから暑くなると、半袖になったりするが、基本的に秋まではこんな恰好だ。

片や紋別では大雪。北海道の雪はなかなかすごい。人の命さえ簡単に奪えるほどのパワーを持っている。写真は2月にレンタカーで走りまくった時、屈斜路湖畔でふと結氷した湖面に降りてみたくなった時のシーン。リアはすっかり巻き上げた雪でコーティングされ、ウィンカーもテールランプもまったく見えていない。

そろそろ山菜のシーズンだろう。北海道はこれから本格的な旅のシーズンとなる。

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2005年05月09日

連休明けからついてない

今日は大型連休あけ。この連休中目立ったウィルスも出ず、ほっとしたと思っていた。この連休中も毎日のようにリモートで仕事をしていのだ。しかし、今日の昼前から大量の新種のウィルスらしきメールが大量に流れ込んできた。

殆どというか、ほぼ100%今のメール添付型のウィルスは、全て内容は英文。どう考えても知り合いじゃないし、タイトルだけで怪しさ満点なのに、なぜかご丁寧に解凍し、実行するアホがあとをたたない。

今日はこんな内容だった。

件名例
・Notice: **Last Warning**
・Your email account access is restricted
・Your Email Account is Suspended For Securi
・Notice:***Your email account will be suspe
・Security measures
・Email Account Suspension
・*IMPORTANT* Please Validate Your Email Acc
・*IMPORTANT* Your Account Has Been Locked

メール本文例
・Once you have completed the form in the attached file, your account records will not be interrupted and will continue as normal.
・To unblock your email account access, please see the attachment.
・Please see the attachment.
・We have suspended some of your email services, to resolve the problem you should read the attached document.
・To safeguard your email account from possible termination, please see the attached file.
・Please look at attached document.
・Account Information Are Attached!

添付ファイル名例
・email-info
・email-text
・email-doc
・information
・your_details
・document_full
・IMPORTANT info-text

添付ファイルの拡張子
・exe
・pif
・scr
・zip

こんなメール、どう見てもウィルスとしか思えないが、アホのおかげで私の仕事が増える訳である。こういう連中は給料ドロボウ以外何者でもないので、2度以上やったら懲戒くらいにしないとそれこそ信用問題になると思うのだが…

また今日のウィルスは、この記事ようにトレンドマイクロが偉そうに言っているが、昼の12時すぎにシマンテックは対応済にもかかわらず、トレンドマイクロが対応パターンを出したのは20時すぎだった。この8時間の間にどれだけの人が仕事ができなくなり、被害が広がったか。ウィルス対策ベンダーはこの対応レスポンスが命のはずなのに、前回の大チョンボが怖いのか、それにしても遅すぎだ。私は昼すぎにはウィルスらしきファイルを検体としてラボに送っているのにだ。

確かに新種のウィルスの対応速度は、ベンダーによって差が出る。逆にトレンドが早くて、シマンテックが遅い場合もあるが、最近のトレンドのふがいなさは、導入している側としては正直信用まるつぶれといった所だ。

明日、チョンボの件で謝罪に来るらしいが、私はまた冷たく言い放ってしまう事だろう。「ウィルス対策ベンダーの選択いかんによって、新種ウィルスへの対応時間の差9時間で、どれだけの企業的損失と信用欠落が発生したと思いますか?」と。

久しぶりに深夜の山手線に乗ってしまい、いきなり怒り心頭の連休あけである。明日も早起きして、業務開始前にいろいろチェックしなければならないだろう。

おまけにこのブログを書き込もうと思ったら、サーバーダウン…睡眠時間がまた30分減った…

2005年05月08日

親切との出会い

旅先で人の親切にあう事は、とても嬉しい事だ。親切にもいろいろな種類があるのかもしれないが、それが困っている時に差し出された手であれば、尚更深く心にしみるものだ。町中を歩いていて、親切にあう事もごく稀にあるが、旅の中の出会いだと特にそれが感じられる。

初めての北海道ツーリングの時、もともと2人で行く予定だったのが、相棒は都合で行けなくなり、私が一人で北海道に向かった事は以前書いたと思う。そのツーリングでは、不安だらけのソロ・ロング・ツーリングだった。天気もあまりよくなく、テントは持たずにシュラフだけだった事から、宿になるような無人駅や安い宿を夕暮れになると探していた。またキャンプ場でもバンガローがあればそこでもよかった。

布部駅でSTB(ステーションビバーク)後、えりも方面に向かって走っていた。日高のあたりでバンガローのあるキャンプ場を探そうと思っていたが、いかんせん地図もいい加減なものだった事から、情報がなかった。ケンタッキーファームという所が、以前テレビかなんかでみかけていたので向かうが、あまりに高くて撤退。適当な寝床がみつからないまま、浦河という町までやってきた。

浦河ですっかり陽が暮れてしまい、駅前まで行ってビジネスホテルを旅行案内所で紹介してもらおうと思ったが、そんな施設もなかった。途方に暮れて港の方まで行って、軒下で寝ようかと思っていると、目の前を白バイがバイクを停めるように、おかもちを着けたカブが前に割り込んできて左手を斜め下に向けてとまった。私も何だかわからないうちに停車し、シールドをあけると、そのカブの人が降りてこちらにやってきた。

見た目はどうみてもそば屋の配達の人だ。結構年配のオジサンだった。

「オマエ、何をやってるんだ?」

私はこう答えた。

「いえ、泊まる所を探しているんです」

しばらく私のフルフェイスのヘルメットで見えにくい顔を覗き込んでいたが、こう言い放った。

「ついてこい」

カブに跨がり結構な勢いで走り出した。私はあわててシールドを降ろし、浦河の裏道を走り出した。

しばらく細かく曲がりながら走っていると、とある建物の前に停まった。私もその後ろに邪魔にならないように停め、イグニッションを切った。すると、そのオジサンはさっさと建物の中に入っていってしまった。

私はどうしていいのかわからず、とりあえずヘルメットを脱ぎ、握力がなくなりつつある手にへばりついたグラブを時間をかけて取った。すっかり真っ暗で、さてどうしたものかと不安は消えず、まずはその建物を覗き込んだ。その中は4人も座れば一杯のこあがりと、カウンター席だけの中華料理屋だった。いつのまにか、さっきのオジサンはカウンターの中に立ち、2~3人座っているお客に何か話しかけている。

ぼーっと突っ立っていると、いきなり「こっちに座れ」とぶっきらぼうに言われた。仕方なく周りに普通のお客さんがいない席を選んで座ると、目の前に山盛りの餃子が置かれた。「腹へったろう。食え。」と言われ、妙な雰囲気だが私はとても空腹だったこともあり、焼きたての餃子をむさぼり食べた。

料理を作りながら、少しづつ話をしてきた。どこから来た、とか、何日目だ、とかいう話だ。餃子をたいらげると、今度は野菜炒めのようなものが出てきた。山盛りのご飯と共に、これもすぐに平らげてしまった。この頃には泊まる場所の不安もあったが、まあ港の方で野宿でもしようとある程度覚悟がついていた。それよりも今、暖かくておいしい食事にありついている事が嬉しかった。

食べ終わってしばらくすると、他のお客さんもいなくなり、そのおじさんが横に椅子に座った。そして、この時は想像もしていなかった言葉をもらった。

「今晩泊まる所がねえなら、ここに泊まれ。こあがりで寝ればいい。」

本当に信じられない言葉で、これほど嬉しい出来事はなかったと思えるほど、感動してしまった。旅先でこのような親切に出会った事はなかった。私は一旦は覚悟していた見知らぬ土地での野宿から解放された事で、安堵感からよほどほっとした顔をしたのだろう。そのオジサンがビールを出してきて、こあがりに呼ばれた。

そのオジサンは蒲田さんと言い、店の片隅に地元の新聞の切り抜きが張られていた。どうやら、旅で困っている若者を一宿一飯の恩義を与えてやっている人で、何度か取り上げられていたらしい。でもこうも言っていた。

「誰でも泊める訳じゃねえ。オマエは面白そうな奴だったからな」

そんな会話もしていないのだが、雰囲気やその言葉使いがそうだったらしい。その後、どんな旅人が来たかとか、どういう旅をしてきたかとか、自分の将来の事、浦河という町の話などを遅くまでひたすら話をし、その後こあがりで自分のシュラフを出して疲れと満腹感と酔いで深い眠りについてしまった。

明け方に目がさめると、蒲田さんは既に厨房で仕込みをしていた。そして朝からだが、ラーメンを出してくれた。

「俺のラーメンはうまいぞ。札幌とかじゃ、みんな化学調味料だ。ウチはそんなもん一切使わない。全て自家製だ。食ってみろ。」

その塩ラーメンは本当においしかった。言っては悪いが、こんな人が立ち寄りもしない町の中に目立たないようにある中華料理屋だが、本当に今まで食べたラーメンのどれよりも、深い味がした。

感謝しきれないほど感謝を表せるだけ表し、私はこの店を去った。その翌年、日本縦断の旅の中、北海道に入ってまず目指した場所は、この中華料理屋だった。1年ぶりの再会を、蒲田さんはとても喜んでくれた。そして、うまいラーメンを食べて、色々な話をしたあと、また旅を続けた。

蒲田さんはその後、ラーメン屋を閉め、ガイドをされていたようだった。毎年の年賀状で連絡だけはしていたが、いつの年かぱったり来なくなってしまった。その後、怖くて浦河を通る事ができていない。

あのラーメンの味、初めての北海道、それもソロツーリングで出会った素晴らしい出会い。これもソロだったからこそ出会えたのだと思っている。いつかまた立ち寄って、蒲田さんを探そうと思っているが、いつのまにか短い旅のスケジュールで調整がつかず、おざなりになってしまっている自分が少々情けない。しかし蒲田さんならきっと、元気に何かに打ち込まれているのだろうと信じている。

写真は1987年、3年連続3度目に立ち寄ったその中華料理屋。

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2005年05月07日

限りない欲望

旅から帰って来たのか、荷物を積んだバイクをみかけた。明日で連休も最終日になる。そろそろこの連休の間旅した人々が、また日常に戻ってくる。この時ほど、複雑な気持ちはない。

明日から休みになるという時間、金曜の夜や、連休の前日の夜が好きだ。一番とってもいい。仕事が嫌いかというとそうでもないのだが、ここ最近は仕事というか会社に対して素直に仕事に取り組めない要素があまりにも多く、特にそれは一般的な会社員にとっては、切実な現実なのではないだろうか。連休の終わりに感じるこの複雑な気持ちは一体何なんだろう。

こんな気持ちになる前は、仕事をする事に没頭でき、それこそ毎日0時近くに帰り、土日もどちらかが仕事していても、それは普通だと思っていた。仕事の内容についてや、今後どういう仕事をしていきたいか、という事に対して、前向きに考えていられた。今でこそ冷静にみれば、仕事をする事に集中できて、それに関連する部分についてはあまり気にならなかったとも言える。

バブルな時代とも言えたが、純粋に仕事に取り組み、成果をあげて、毎月賞与並の収入を得た分、プライベートな時間を削っていた。しかし不思議と今ほどプライベートな時間については、どうにもならないほどの不満はなかったのかもしれない。今は、いくらプライベートな時間があっても、足らないという感覚に襲われる。

時間の使い方や、限られた時間を過ごした満足度が違うだけではなく、それはきっと会社や仕事に対するモチベーションの大小によるものが私は大きいのではないかと感じる。それこそ成果主義や、年功序列の排除など、ていのいい評価基準を打ち出している多くの企業では、それを評価したり策定する連中は、それこそ年功序列の中で会社に依存して今の立場になった人々なのだ。

政治家やなんとか省の人間も同じく、政策や評価について、どういう感情を社員や国民が持ち、それによってどれだけ効果があり、どれだけ弊害があるかを理解できていない。そんな進め方で、これからどうなってしまうのか。若者もどんどん無気力化しているの者が増え、老人も増え続けている。高度成長期のしわ寄せは今、まさに我々中堅年齢の世代にかかり、しかし実際やりたい放題に牛耳っているのは、高度成長期においしい部分を沢山吸い込んだ年配の人々が、自分の範疇で決めつけているだけなのだ。

忙しくても、充実していた日々。時間はあっても、今の仕事に対してどうしても疑問がつきまとってしまう今。どちらが幸せなのか、究極の選択なのだろうか。自分の時間をしっかり確保して、仕事についても充実した時間を費やす事ができる。これだけの事をしたいだけなのに、なかなかうまくいかない。

忙しく収入もそれなりにあった頃、3台のバイクを所有していた。今までで一番、維持費や車両などにお金をかけられた時期だ。この3台はどれも素晴らしく、私はずっと所有していたいと思っていた。しかし、今では全て手元から離れていってしまった。

体はひとつしかない。3台あっても仕方ないだろうと、普通の人は言うだろうが、3台なければだめだった頃だった。いつか、このような3台を再度所有し、仕事に対しても積極的になれるような日々が来ればいいと思っている。旅先によって、相棒を使い分ける事によって、いつも新鮮な感覚で旅したい。贅沢な願いだが、一度この構成で過ごした日々は、予想以上に充実していた。

なかなか現実的には難しい事だという事を、今ではよく分かっている。まあ、ちょっとした過去の栄光と、今の夢だ。そういう仕事に就ければ、満足なのかというと、きっとまた新たな夢が生まれてくるのだろう。そう、井上陽水の「限りない欲望」のように。

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2005年05月06日

鯉のぼりの行く先

昨日は子供の日だった。

九州や四国では、川にロープを渡し、鯉のぼりを沢山吊るしている風景をよくみかける。四国の四万十川では、吊るすだけでなく、沈下橋にかけるように川に沈め、その流れに泳ぐ鯉のぼりもよくみかけた。旅先でみかける風景の中で、なかなか風情あるものである事から、好きだ。

実は子供の日は、私のバイクの友人としては初めて、この世から亡くした命日でもある。あまり柄はよくなかったが、一緒に塾に通い、バイクに興味を持っていた。ただ私と大きく違っていたのは、バイクに対する思い入れだったのだが、どちらにせよこの事実は当時私がバイクに乗る行為について、衝撃的な事件だった。

尾崎豊ではないが、その時も盗んだバイクで飛ばしていたようだ。詳しくは知らないが、運悪く転倒し、電柱に激突。病院に担ぎ込まれたが、まもなく亡き人となった。私はそれほど親しくなかったが、一時期は同じ屋根の下で同じ時間を過ごした事もあって、葬式の日に泣いた。バイクに乗るという事は、こういう事がいつあってもおかしくないという事を、この時知った。

しかし何故だろう。バイクのように、別にあってもなくても人が生活する上で、少しばかり便利になるものかもしれないが、必要不可欠なものではない。車にいたっては、それこそ荷物を運んだり、雨の中や雪の中でも安全に移動できたりするように、重要な役割を持つ乗り物なのは明白なのだが、バイクはそうではないとも言える。逆に人が足で支えたり、走り出さなければ倒れてしまったり、雨が降れば傘もさせずに濡れるだけという、不完全な乗り物を、なんで好んで乗るのだろうか。転べば、ただでは済まない。骨を折るかもしれないし、最悪、この世からおさらばとなってしまう程、危険な乗り物である事は変わらない。

その答えは、乗る事にある。乗って、走り出す。それだけでなく、自分のバイクを手に入れ、それに跨がり、自分の意志で走り出す事にあるのだ。単に借りて乗ればいいというものではない。それが、「こちら側」と我々が言う意味なのだから。

初めて自転車に乗った時、これまでの行動範囲が広がり、コイツがあればどこにでも行けると思えたように、イグニッションを回し、苦労して手に入れた相棒のバイクに跨がり、どこか遠くにでかけようとすると、何よりもかえがたいワクワクする気持ちがあった。そんな感覚を同じように持って、北海道や信州、沖縄などにでかける連中は、やっぱり何か普通の感覚ではないのかもしれない。

バイクって何だろう。そんな疑問には、こんな答えをする事にしている。ただ、薦める事はできない。乗るのは、こちら側に踏み出すには、あくまでも自分の意志なのだ。だからこそ、私にできる事は、バイクと旅の話をする事。私がそうであったように、扉の存在を知り、その扉の先の話を聞く事でワクワクしたように。

写真は九州は宮崎、日之影川に渡された鯉のぼりたち。

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2005年05月05日

繊細かつダイナミックに

友人にもいろいろあって、学生時代の友人や、会社の友人、そしてバイク繋がりや旅繋がりの友人などがざっとあげられる。

中でもバイクや旅がきっかけで知り合った友人は、やはり同じ方向性を持っているためか、その関係も長続きしているし、お互いが触れたくない部分や共感できる部分を理解しあえているとでもいうのか、一緒に何かをしていても気持ちがよいものである。

中学から大学までの間の友人で、今もバイクに乗り続けているものは1~2人になってしまった。しかし、いい歳して今だにバイクに乗り続け、旅をしているのは、その後まったく別な環境に育ち、バイクや旅がきっかけで知り合った友人たちだ。

面白い事に、偶然にも同業者であったり、自分の父親まではいかないがまず普通の人生を送っていては交差するはずがないという年齢差のあるバイク乗りや旅人と、親しい関係になっていたりする。人生なんて、何がきっかけで交差するかはわからないものだ。その中で、きっと北海道へ向かう船で一番共にしている友人であり、今も我が家に一番訪れる友人の話をしようと思う。

最初は、某商用ネットワークの中にあった、バイク乗りのコミュニティ・フォーラムだった。今でこそインターネットで画像がないウェブサイトなんて殆どないと思うが、当時は文字だけのコミュニティだった。その事から相手の外見もわからないし、本名もどんな人生を送ってきたかもわからない。そんな人々が、とあるテーマにしたがって文字だけで会話をしていく。

今でこそ冷静に思えば、それまでまともに文章なんか書いていなかった自分が、雑談からレポートまで文章を書いていった。すると、自分に共感してくれたり、同じような話から自分も特定の人に対してコメントをつけたりするようになり、自分と合う相手が段々と明確になってくる。いわゆる文字だけの世界での友人の登場だった。

しばらくすると、オフライン・ミーティングといわれるイベントから、実際に会って話をしようじゃないかという話になる。そのオフに初めて参加する日よりちょっと前に、とあるヘルメット・ペインターの方の個展に私が行く事を書くと、彼も気が向いたら行くかもという話になった。そして、その個展会場の前で、初めてネットで知り合った人と顔をあわせる事になった。

彼の名はランチョン。当時は別の呼び名(ネット上の名前の事をハンドルと言い、その呼び名で呼んでいた)だったのだが、彼は会場近くでハンターカブの傍らで立ってにこやかに笑いかけてくれた。

当時ゼファー1100に乗り、熱い走りを繰り広げていた根っからのツーリングライダーだった。実際に一緒に走った事はいつだったか憶えていないが、その走りは鮮烈だった。私自身がこの頃限定解除をし、少々ダイナミックなライティングをしていた頃だった事もあるのだが、彼はどう思っているか分からないが、私は自分の呼吸に合うと思える、初めてのバイク乗りだった。

どういう事かというと、当然公道なのだからお互い相当セーブしているのだが、渋滞している道や高速などで2台が失速する事なく、自分が譲ると相手が前に出、逆に相手が譲るタイミングが分かって自分がその時に前に出るようなかけひきが、気持ちよく決まるのだ。車種的に圧倒的なパワーの差がある場合が殆どだったが、その中でもランチョンがTDM850で、私がKLX650またはGPz900Rの時にそれを感じる事ができた。

それまで誰と走ってもギクシャクする部分は必ずあった。でも彼と走るとそういうストレスが殆どないのだ。不思議なもので、それはそれは幸せな気分になれるのである。バイクという乗り物は元々一人で乗るものである事から、その動きやタイミングはとても重要だ。場合によっては事故をも誘発する。イライラするようなタイミングの友人の方が少なくないのは乗り物の特性からくるものだろう。

彼はとてもナイーブで、また繊細だ。その分、リバウンドも大きい。まだ独身の彼に、そんな部分を理解してくれる異性が現れてくれる事を、友人として願うばかりだ。できる事なら結婚後も、長く付き合っていけるような相手が現れてくれないかと思ってみたりする。同性としてはこんなにイイ奴なんで女性は分かってやれないんだろう、と思ったりもするのだが、それは出会う運や相性の問題もあるんだろう。

確かに熱くなる時もあるが、裏を返せば彼の繊細さが出ているようなものだ。中身のある男として、彼を理解してやれば、きっとこのあとの人生、色々な楽しい事を経験させてくれる事だろうと思う。反面、ナイーブで壊れそうな部分は、フォローしてやれるような相手が望ましい。

バイクと旅は、彼にとって必要な要素であり、彼が彼らしくいられる条件かもしれない。いや、別にそれがなくても十二分に魅力はあるのだが、一度その要素を持った彼を見てしまうと、一番彼らしい一面を見る事ができるのだ。

これからもお互い乗り続けて、そして旅をしようじゃないか。

写真は実は一番彼に似合っていると思っていた、当時世界最速の市販車と言われていたZX-11に乗る姿。見た目は少々怖いかもしれない。

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2005年05月04日

ハイジーの家WebSite

ようやく作っていたサイトをオープンした。旧サイトからはリダイレクトの仕組みで新URLに飛ぶようにしたり、旧掲示板に書き込みができないよう、perlのプログラムをいじくったりしているうちに、お昼になってしまった。まあ訂正やら不具合やらが出てくると思うので、今日はこの関係のフォローかなと思っていたが、実際はまだ少しかかりそうといった所だ。

昨晩、かあさんの自宅がインターネットに繋がらなくなって確認ができないという携帯メールが届いた。どうやら地場のISPが、市外局番の桁数変更により、5/1よりアクセスポイントの電話番号が変わる事から、これをきっかけに接続ができなくなってしまったようだ。同時にユーザIDやらパスワードやらがわからなくなってしまったとかで、問い合わせ先情報などを伝えて、そのまままだ連絡はない。こういう時、近くにいればちょっと設定しに行ってあげられるのだが、なかなかそうはいかない。

中標津在住のともさんに、公開前のサイトを簡単にチェックして頂き、とりあえず今日オープンおよび旧サイトからの引っ越し設定を行ったので、これではれて一区切り、といった所だろうか。既に修正が必要な部分がちょこちょこ出ているので、これについては申し訳ないが気長に対応していければと思う。

そのサイトは、こちら。丁度、今週末は母の日だし、かあさんには20周年と一緒にプレゼントという事でご笑納頂けるだろうか。

開陽台ハイジーの家 -Official Website-

開陽台ハイジーの家は先日4/29に今シーズンオープンを迎えた。10月末まで約半年、女性だけのスタッフで店を切り盛りする。昨年は丘にあがる事ができなかったが、今シーズンはなんとか行きたいと思っている。今年は由とくーを連れて、丘で幕営できればいいなと思っている。

丘の物語を、自分のウェブサイトのコンテンツとして、作品化したいという事は、実は昔から思っていた。当然その中には、ハイジーの家が出てきて、かあさんも出てくる。基本的にノンフィクションで、そして少しだけストーリーに色をつけて、なんて思っていたりする。私にとって、自分のツーリングライフを語る上で、どれも重要な要素を持っているのは確かなようだ。

写真は、駐車場脇のハイジーの家。ベランダから丘をおりる私に、かあさんが手を振ってくれているシーン。また丘に戻ってくる日まで…

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2005年05月03日

やっとひとつ、ほぼ完了

今日も朝からウェブ作成。

とはいえ、朝から新種のウィルスが出ているとの事で、また8時から2時間程会社に繋いで仕事。連休なのに何やってんだか。こういう事を前向きにしても認められないような形だけの成果主義を導入している日本の企業は、結局の所役員クラスが週刊誌を読んで話題になっている事を適当に導入しているだけ。中身のない高度成長期何をやっても給料は上がっていった平和な方々が、若手ややり手のモチベーションを足蹴にして唾をはきかけているようなものだ。

例のJR西日本の体質にしてもまさにこの通りだし、役人の無知な税金投入事業の失敗に加えその責任を負わないような年代が、全て諸悪の根源だ。まああまり書いても気分が悪いだけだからこれだけにするが、言わないだけでどれだけ腹がたっている事か。連中にはまったく反省しようとか改善しようとかいう気持ちはさらさらないのだろう。

さて、ウェブはデザイン的にもファイルサイズ的にも重くなってしまったページを全て作り直す。先にデザインが固まっていない為、こういう事が起こってしまうのだが、まあ仕方がない。連休初日くらいには仕上がるかと思っていたが、既に連休は半分すぎてしまった。困ったものだ。

作業はテンポが大事だ。のってこないとまったく進まない。得てしてのってくる時に限って他の予定が入り、中断。今日もお昼前に天気がいいので散歩に行く事になり、2時間ほど公園をウロウロ。散歩仲間のワンコや、藤棚や咲いているラベンダーの写真を撮ったりしていた。

帰ってきてお昼タイム。食事を食べるとまた眠くなり、あれよという間に15時近く。この調子でまったく進まない。きっちり時間とやる事を決めてやらないと休日も勿体ない事になってしまう。何だか時間の使い方が下手で自己嫌悪。

朝からそんなこんなで頭だけはぐるぐる堂々巡り。ときおり、蓼科に旅行に行っている友人のレポートサイトや、くーサイトのコメントを書いたりして気分を切り換えたりしているが、何だか現実逃避モードそのままという感じだ。

カメラのレンズが欲しいとか、ダイニングのPCが遅いので買い換えたいとか、玄米が炊ける電子ジャーが欲しいとか、細かい欲望があるが、とりあえずやっと1つ目処がついた事で一安心といった所か。あと連休中に仕上げなければならない作業が1件あるが、今日はそれを忘れて寝よう。

写真は近所の公園の藤棚。

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2005年05月02日

天ぷらは難しい

夜半雨が降った関係で、少し涼しい風で目が覚めた。しかし、日中は何だか湿度が高く、おまけにゆっくり寝たのに妙に眠くて、朝ちょっと会社に繋いでサーバの稼働状況を監視したり掲示をしなおしたりした位で、結局やらなければならない事に手をつけたのは16時頃。貴重な休みの時間を消費してしまい少々自己嫌悪気味である。

重いページを何とか軽くする為にいろいろ考えているうちに夕食の時間。今日は昨日買ってきた山菜を片づけないといけないので、結局PCは一旦中断して台所へ。さて買ってきた山菜のウド、たらの芽、白木の芽をどうするか、考える。たらの芽はもう決まり。絶対に天ぷらだ。白木の芽も天ぷらがメジャーだろう。ウドは結構大きいもので、10本位入っていた。長さは60~70cm程。先端部分はやはり天ぷらとして、しっかりした茎部分をきんぴらとごまの和え物にすべく、皮をむき、アクを抜く為にお酢を入れた水にさらす。

「ウドのきんぴら」千切りにしたウドにニンジンも少し入れ、鷹の爪を入れて醤油とお酒と砂糖で甘辛く炒めてできあがり。また、茎部分を綺麗にむき、細いものは千切りにし、すりつぶしたゴマと出汁汁とマヨネーズで和え、仕上げに再度すりごまをかけて「ウドの胡麻マヨネーズ和え」のできあがり。あと太いウドの茎部分を乱切りにし、同じように人参も乱切り。軽くごま油で炒めて、牛肉の薄切りを炒め、醤油と砂糖とみりんとオイスターソース、ちょっとだけ豆板醤を入れて水気がなくなるまで炒めて「牛肉の甘辛煮」を作る。あとは、ホウレンソウと豆腐のシンプルな味噌汁と、天つゆを作り、いざ、天ぷらへととりかかる。

しかし、天ぷらは温度管理が難しい。ちゃんとした天ぷら鍋が欲しいとは思うのだが、家にはティファールのインジニオ鍋セットしかない。中くらいの鍋に油を大目にはり、いざ挑戦。今回は他に冷蔵庫にあった生しいたけと、舞茸を少し追加して山菜づくしとしてみた。

結局の所、油の温度なのだろうか。天ぷらは後片付けが面倒なのであまりやらない。キャンプでシェフが天ぷらをやっていて、いいなぁと思った反面、片づける事や油の飛びを考えるとあまり自分からやる気がおきない。何しろ天ぷらをしているうちに食欲が満たされてしまう。

昨日買ってきたたらの芽と白木の芽は、結構な量が入ってそれぞれ500円。ウドなどは相当な量が入って300円だった。何年か前に北海道へ山菜取りに行き、たらの芽、ウド、こごみをこれでもかと摘んできて天ぷらにしてもらって食べた事が思い出される。北海道で山菜を採るのは、羆を警戒する事が必要になる為、なかなか気軽に入りにくい。でも一度やるとなかなかこれが面白くてやめられない。毎年山菜採りの人が襲われる話もよく耳にするが、旬のものを食べるという意味では、山菜採りというのはやはり春の山の味で、その恩恵はずっと昔から感じてきているものなのだと思う。個人的にたらの芽の天ぷらは一番好きだ。あと舞茸の天ぷらも。

あまりに量があったので、明日は山菜天ぷらうどん、明後日あたりには、山菜天丼でも作る事になるかもしれない。明日こそは仕事をひとつ完全に終わらせよう。

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2005年05月01日

益子の陶器市

朝5時前に起き、6時に車で家を出発。何だか考え事をしていたら寝付けなくなってしまい、睡眠時間は3時間程度だったので、結構きついが、渋滞が始まる前に柏を抜けたいと普段は使わない首都高に乗り、C2をまわって岩間ICまでノンストップで走った。おかげで、渋滞にはあわず、いつもの裏道を抜けて益子に到着したのは8時20分。自宅から2時間10分程だった。

益子の陶器市は9時からなのだが、駐車場も日陰のある場所を選びたくて、まだ閉まっている駐車場の管理人のおじさんに声をかけ、入れて貰う。なんとか数年前に停めたベストポジションに停める事ができた。今日はあまり晴れないという予報だったが、湿度が高く、時折陽がさすと25度くらいは行ってしまいそうだったので、くーの為にも何とか涼しいうちにと考えての事だ。とりあえず順調な出だしとなった。

長年益子に来ていると、お気に入りの窯や作者がわかってくる。一番お気に入りの井上窯にまず行ってみると、今年は周辺に出店が増えていた。ざっと見回し、今回の目的にひとつである、ティーポットをチェック。茶漉が付いているとか、サイズとかでなかなかこれといっていいのがなかったが、アウトレットにそこそこいいのがあり購入。

次に北側のつかもと広場に向かい、昨年湯飲みを買った所に行くと、同じデザインのティーカップがいい感じだった。いろいろ悩んだあげくに購入。このあたりは毎年そんなに目に留まるものはないのだが、今年は随分若手がブースを出しているようだった。陶器市のコースとしては、ここが北の端で、城内坂という道沿いに南下しつつ、いろいろな作家が枝道もあわせて出品している。最近は若手だけで集まり、陶器だけでなく豆カレー屋とかアジア雑貨、アフリカの楽器などが売られていたり、チベットやインドを旅してきたという作家もいて、何だか旅を感じさせてくれる。

9時をすぎる事から人が増えてくる。10時をすぎると都心から観光バスがどかどかやってきて、時間制限つきで大量のおじさんやおばさんが吐き出されてくる。これがまたすごく慌ただしく、まるでバーゲンセールにでも来ているみたいに何がよいのかわからない安い陶器を買いまくっていく。益子で一番巨大で一番訳わからないマーケットになっているのが共販センター。一大勢力だ。駐車場もここを目指してみんなやってくる。私にとってはまったく興味のない場所なのだが、山菜や野菜を売っているのでちょっとだけ寄る事がある。

途中毎年お約束のジェラートを食べたり、写真を取りながら駐車場の近くに2時間ほどかけながらゆっくりと往復し、これまた毎年お約束の井上窯に併設されているオープンカフェでちょっと早いお昼とお茶タイム。くーも暑くて疲れたらしく、氷を貰っておとなしくしてくれていた。

このカフェのオーナーを、まだテーブル2つ位しか出していないで、お茶とシフォンケーキしかメニューになかった頃から知っている。メインストリートから1本入った所にある静けさと、この窯の陶器が好きな事から必ず休憩するようになった。毎年顔を出すうちに顔なじみになってしまい、毎年何かしらサービスしてくれる。今日は売り物のショコラケーキをつけてくれた。この窯で作った蒼い陶器で出してくれる。

13時すぎになって、くーのバテ具合もあって現地を離れた。往路とまったく逆のルートでこれまた少々混雑はしていたが渋滞なしで15時すぎに帰宅できた。すぐに風呂に入り、流石に寝不足もあって、ちょっとダウン。今日はこの日記を書いてすぐに寝よう。結局7点の陶器と、山菜3品、自家製味噌などを買ってきたので、明日の夜は山菜の天ぷらだ。

写真はそのチャイとケーキ。ポットに入れてくれるので、3杯分くらいあって満足できる休憩になるのだ。来年もまた行こう。

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