2005年06月30日

土砂降りのあとの晴れ間

昨日に続いて、朝目を醒ました時はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。天気予報を確認すると、お昼には雨もあがるが、不安定な空模様だという。これだけ勢いがある雨だと、傘はあまり役にたたないだろう。とはいえ、雨があがったあとにフルサイズの傘を持って帰るのはどうしても好きになれず、結局長年愛用しているモンベルのトレッキングアンブレラででかける。どうせ足元は濡れるのだ。

一昨日は携帯を忘れた上に、ベルトすらするのを忘れてしまったので、気をつけて出たにもかかわらず、バス停近くまで雨の中を歩いたあと、定期入れをテーブルの上に忘れたのに気がついた。さすがに定期を忘れてはバスも電車も乗れない。仕方なく引き返した。

本当に何だか最近自分でも情けなくなる程、うっかりが多くなった。これでは車やバイクの運転なんかもっての他じゃないかと不安に思いつつ、ちょっと気を抜くとこれまでもよくあった話だろうと、自分自身をかばいながら、ここ最近の失敗を繰り返す事を反省し、少しばかり気を引き締めていかねばと思うのであった。

雨が激しかったので、2台バスを乗り継いで行こうと思ったのだが、自分の失敗でもろくも崩れ去った。しかし、少し急いで歩けばいつものバスに間に合うかもしれない。バス停6つ分をショートカットするように歩き、2本目に乗るバスのルートに出て、そこにあるバス停に向かう。雨が強いので膝から下がぐしょぐしょになるだろうと思うのだが、自分のミスなので諦めて早足で歩く。案の定、汗だくになった上、傘が小さいのでザックを前にかけて濡れないように気をつけたにもかかわらず、右腕と膝下はすっかりびしょ濡れになってしまった。何とかバスにも間に合い、息を荒らげながら乗車できた。

結果的に職場へ到着する時間はいつもと同じだったが、朝に体力を相当消耗してしまった。折り畳み傘を高価なサーバの横で乾かし、朝食を食べて一息つけて仕事にとりかかった。今日も1日なんとなく仕事が始まり、過ぎていく。

帰りはすっかり雨はあがり、晴れ間さえみえる。今度は行きと逆のルートのバスに乗る。ふと前に座っているオジサンが沖縄のガイドブックを読んでいた。ページの中には沖縄そば。暑い日に熱い沖縄そばはとてもよく似合う。八重山でも本島でも朝昼版と沖縄そばだった時も珍しくない。安くておいしいその土地の食べ物だ。

写真は竹富島の竹の子。ピィヤーシという石垣に生える山椒の種類の香辛料は、ここで作られている。竹富では昼は必ずここで八重山そばを食べた。外に出て、道を挟んだ反対側にあるガーデンで食べるのがまたよい。

八重山そばも沖縄そばも、基本は一緒で特に呼び名が違っているだけだ。他に大東島では大東そば、宮古島では宮古そばという。

暑くなってくると、沖縄そばが食べたくなる。おすすめの沖縄そばは、また追って話題にしていきたい。週末にでもまた沖縄そばでも作ろうか。

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2005年06月29日

セキュリティリスク?

漸く梅雨らしい雨が降る朝だった。いつものように朝5:40に起きると、最近いつもそうだがベッド横にある専用クッションで、くーは目だけをしっかりあけて寝ている。ぴくりとも動こうとしないが、目だけはなぜかあいている。

由が朝が比較的ゆっくりというよりも、私が朝早すぎるのだが、朝はラッシュが始まる前に仕事場に到着したいという気持ちと、その分できる事なら少しでも早く帰りたいという事、そして仕事柄始業時間の1時間前に到着している事で、未明にかけて発生した新種ウィルスなどの情報を調べ、サーバーのログを確認し、必要に応じて緊急対応を行ったり、全社に注意や初期動作について情報を流す事をするためだ。これにより、被害を未然に防ぐ事は多々ある。

休日もランダムにパターンファイルにひっかからない新種や、被害が確認されたレベルにより、高い感染力をもつマスメール型ウィルスを社外に出さないような対応を許される環境でリモート対応する事もある。定められた業務とはいえ、休日も最新状態をウォッチし、日々被害を未然に防ぐために前向きに業務を行っているのだが、なかなか大企業ではこれを評価してくれない。目立ったことをする方が、当然頭を使わずに評価し易いのだが、それをきちんとできない部署に昨年から在籍している。

まあセキュリティなんていうものは、被害にあわなければ投資することもいらない訳で、被害にあってから慌てて現場や中間管理職に対して偉い人が声を荒らげる。未然に防ぐリスクマネジメントという事が何故必要かという事が、少しだけ上層部にもわかるようになってきたようだ。とはいえ、上っ面だけで、一度指示したらそれで全てが完了した事なっている事もしばしばで、リスクを回避する為、信用を失わない為には、それ相応の体制や実施環境を意地しなければならない。だが、現実には一度指示しただけで全てが完了した事のように感じてしまうケースがいかに多い事か。

今日から、そのあたりをテーマにした展示会が、東京ビックサイトで行われている。金曜の午後あたりにちょっとひやかしに行ってこようかとは思うが、後輩が今日行ってきたとの事で様子を聴いた所、結構な繁盛ぶりだったようだ。注目度は最近ではカカクコムのウェブ改ざんや、DDoSのように無作為に特定のサイトを攻撃しダウンさせるような事件が最近多いせいもあるだろう。

リスク管理という、直接売り上げにならない上に、費用対効果が数値化しにくいものは、注目度は高い。しかし企業の偉い人はその必要性や、インターネットという膨大なスケールのネットワークを無料で使って仕事をしているくせに、危険性ともなると実感が沸かないのか、実行する時点でそれまで学んだ事はすっかり忘れて目先の導入維持費用に目がくらみ、結局部分的にしか導入せず、セキュリティポリシーも机上の空論を恥ずかしげもなく作り、既にセキュリティ対策をした気になっている。

現実にはそんな平和な時代はとうの昔に過ぎ去り、外部からよりも社員への評価といううたい文句でモチベーションを失せるような制度をどこも作りあげ、その反動による内側からたやすく発生しうる情報漏洩や信用失墜がいかに恐ろしい事か、分かっていない。分かっていないと言うのは、単に社員との信頼関係を築くよりも、脅しばかりかけている評価制度の事を言っている。

社員は会社の奴隷ではない。契約を交わしたとはいえ、人というものはモチベーションという大事なものを持っており、それを間違った方法でわざわざ失わせようとしている今の企業は、結局の所そのような状況下に自分がおかれた事のない者が考えた絵空事だ。

注目度があるイベントは盛況だ。しかし反面、それは費用対効果が現れにくい部分であるが故に、展示会のあちこちで聞こえる話の内容は、資料に書いてある事、新聞に書かれている事を、いかにわかった風に復唱するオジサン達が今日も証明している。

IT関連企業以外においても、今はリスク管理とその体制が必要になっているだけでなく、あって当然という時代になっている。地に足をつけて、前向きに進もうとする企業がどれなのか、四季報など数値化された情報ではなかなか分からない。その中で、どの会社がこれから伸びるのか、投資するとしたら何時、どの企業にすべきなのか。実は今動向調査中だったりする。

写真は何年か前の、セキュリティ関連ベンダーのブース。お金かけています。

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2005年06月28日

暑さとボケの関係

お昼過ぎから外出をした。予想はしていたが、既に外は熱を持った空気がよどんでおり、それをかきわけながら歩く。霞んだ雲が浮かぶ、既に夏本番と言える空の舌、クールビズとはいえ喘ぎながら汗をかきかき歩く。

今朝実は寝ぼけていたのか、ベルトをするのを忘れて家を出た事に気がついた。しかし引き返していたらバスに乗り遅れる為、2度立ち止まって考えたあげく、気になりながらそのまま大通りに向かった。バスに乗り、しばらくすると今度は携帯電話を忘れた事にも気がついた。この暑さと眠さで頭がもうろうとしていたのかもしれない。

なんとか予定通り会社に付いたのだが、1階のコンビニで朝飯を買うのにも何だかいつもと違い、時間がかかった。食欲もないので、豆乳と冷たいお茶だけ買い、事務所に入った。今日は何かおかしい。

自分をガラスに写してみてみると、ベルトが通っていないチノパンが妙に間抜けだった。またいつもある携帯がない事がまた妙な感じで、正直何だか今日は何やってもダメそうな気がして、帰ろうかとも思った。携帯にはバスの時刻表やら、iModeでバスの運行状況がわかるサービスのブックマークがある。毎日バスの遅延を確認しながら乗り換えるので、ないとこれまた不便なのだ。

その後、出社する同僚が次々に遅れてくる事に気がついた。どうやらJRで事故があり、4種類の電車に影響が出たようだ。おまけにゆりかもめも汐留でトラブルがあったと聴いた。その後東海道新幹線でも何かあったようで、今日は何かが狂う日なのかもしれないと思っていた。

暑さが何かをおかしくするのだろうか。どちらかというと暑すぎる夏よりも寒すぎる冬の方が過ごしやすいような気がしている。程度問題なのだろうが、私は氷点下10度の世界と、40度の世界を比べたら、迷う事なく前者を選ぶ事だろう。

とはいえ、暑い場所がまったく嫌いという訳ではない。八重山なんかは何度か訪れる程好きだし、思いの外湿度を感じないせいか、都会の暑さのように暑さでベトベトになるような不快な湿度がない分、快適な暑さだ。また赤瓦と漆喰のコントラストが美しい、琉球建築の民家の縁側では、気候を知り尽くした建物であるが故、昼寝するにも夕涼みをするにもすばらしく快適だ。

都会の暑さは単に湿度や夜に下がらない記憶だけのせいではないようだ。それは人混みであり、都会という場所の雰囲気であり、仕事をしている時の気が休まらないといういわゆるストレスも要因のひとつのようだ。

写真は波照間島の西浜で。GWの時期なのに独り占めのビーチ。ここから西表島がうっすらと見える。

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2005年06月27日

予約アタック

時期的に今は夏休みというものの準備で、皆苦労している頃だろう。私も毎年、フェリーの予約にあの手この手を使って確保に勤しんでいる頃だ。とはいえ、昔ほど夏の北海道航路の予約が困難という状況ではない。80年代後半から90年代初頭にかけては、夏のフェリー予約バトルに、仕事そっちの気で集中していた。

最も乗船した航路は、近海郵船の有明-釧路航路だ。既にRORO船になってしまって、貨物しか乗る事はできないが、かるく20回以上乗船している。当然お盆の時期や、夏休みに入ってすぐの7月後半から8月の頭にかけては相当気合を入れないと確保できない。これまで、確保できなかった事はないが、それこそ釧路に電話をかけたり、当時御成門にあった近海郵船の事務所が当時の勤務先と近かった事もあり、朝から並んだりした。

次に乗船回数の多いルートは新潟-小樽航路。関越から北陸道を乗り継いで新潟まで走り、高速道路通行料金とガソリン代を加えても、大洗-苫小牧航路よりも安かった上に、小樽に朝4時すぎに接岸する為、朝から走れば最北端や羅臼までも到着できた事がその乗船理由だ。余談だが、どのフェリーよりも新日本海フェリーが食堂の価格とクオリティが高く、海上価格としても許せるものだった。

年間を通してサラリーマンが1週間前後の休暇を取り、旅に出られるのは、夏のこの時期と、春のゴールデンウィーク、年末年始という3大期間がある。その中でも夏は会社の休みの範囲によるのだが、比較的自由度がある。7月後半や8月のお盆の時期をのぞけば、それなりに確保がし易い。

毎年なんとかのひとつ憶えのように、1985年からずっと(厳密に言えば2002年の夏は体調を崩して北海道ツーリングをキャンセルしてしまった。その年は春に飛行機とレンタカーで山菜取りに訪れているので、訪れるには訪れているのだが…)夏は北海道を旅していた。しかし今年はバイクではなく車で、くーを連れ、一家で北海道をまわろうと計画したのだった。

毎年由が中国大陸へ自転車ツーリングにでかけているのだが、今年はちょっとした理由で不参加である。その事もあり、念願だったくーを北海道に連れて行こうかと画策したのだ。飛行機はJASを好んで使っていたのだが、残念ながら元国営企業のJALにM&Aされてしまった。最近整備上の問題が多く、ひっかかっているのだが、合併してしまった関係でJALのマイレージが45000マイル程溜まっている事と、その期限から、今回はバースディ特割をうまく使って、北海道への計画を進めていた。

私は7月、由は8月が誕生日な事もあり、海外に片方がでかけたりしている事から、バースディ特割を使うのは初めてだ。旅の知り合いのをのっく氏に予約の実情を聴き、日曜の朝と今朝、自宅と会社から予約作戦を実行した。時間が来る直前に急ぎの仕事が入ったりしたが、5分前には万全の体制で準備し、時報前よりアタック開始。

結果的に、8/27(土)IN、9/3(土)OUTで予約は無事確保できた。羽田の安いパーキングを探し、それも確保。あとは部分的に冬に訪れる際の調査を兼ねて宿を数泊入れる予定だ。道東であれば、知人の家を渡り歩く事が可能だが、やはり犬を連れていくとなると、1~2軒が限界だ。今回は犬連れの数日をかけた移動しながらの初めての旅という事で、調査を兼ねている。

レンタカーの予約、キャンプを予定しているので、荷物の厳選など、これからの2か月で詰めていこう。

今年はこれまでにない夏の旅になるだろう。天気がよければ、丘の上でテントを張りたいと思っている。

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2005年06月26日

いわゆる最高峰の天幕

さて、テントはムーンライト3から始まり、ムーンライト1、ライトエスパース2~3人用、、ツーリングポイント2、ライトエスパース4~5人用、ツーリングポイント3、スタードーム2~3人用、ライトエスパース2~3人用、ムーンライト1という感じで買い換えてきたが、当然同じ時期に3~5個所有していた時期もあり、使用条件に応じて選んで使うという事をしていた。

しかしスタードームがある意味、開陽台での無敵天幕と思っていたあと、友人のしいたけの使っていたテントがずっと気になっていた。しいたけ兄弟がアメリカを旅した時、現地のREIで買った天幕がちょっとした問題があり、交換して貰ったものが、造型的にも耐風性も含め、全てにおいて頂点とも言われるMOSSだった。

内地や北海道でそのテントを設営するシーンを何度かみた事があるのだが、やはり慣れが必要で、そして他のテントよりも時間がかかるのは確かなようだ。南極のパトリオットヒルズやチョモランマのベースキャンプなどの写真の中に、その姿をみかける事も少なくなかった。それだけ厳しい自然環境の中でも耐えられ、また美しいデザインは他のどのメーカーの天幕も真似する事ができなかった。

日本のSNOW PEAKがほぼ同じようなポールワークを使って天幕を作っているのだが、日本のオートキャンプでの使い勝手を考慮している部分から、どうしても私からみれば最初にMOSSありきと思える。MOSSのテントやタープがニューヨーク近代美術館に永久保存されており、美術品としても認められた事から、そのポールワークと、立体に裁断された薄っぺらいナイロンで構成されたこの天幕というものの存在感が、証明されているのではないだろうか。

ただ残念な事に、MOSSはテント事業を全てMSRブランドという、ウィスパーライト・ストーブでその名を馳せたメーカーに吸収され、消滅してしまった。ほぼ同じデザインと構造で、今はMSRブランドで販売されているのだが、

写真はORPの全国オフ会場で。この場所で開催するようになってから、毎年同じ場所に私の天幕を張っている。ただ残念な事に、まだこの天幕は開陽台では張ったことがない。スタードームは数回使っているのだが…。今年は張れるかどうか画策中だ。

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2005年06月25日

暑い…

梅雨の中休みというが、梅雨らしい天気はほんの数日、台風が通過したあと梅雨前線が活発になった間だけで、すっかり夏本番というジリジリと来る日差しの週末だ。

既に夜はエアコンをドライでかける日が半数以上ある。体によい訳はないのだが、くーが暑がりの為仕方なくつけている日もある。噂には聴いていたが、犬は暑さに弱いのが多い事が、やってきたシーズンから痛感している。ちょっと蒸し暑ければ耳元で舌をこれでもかと出し、荒い息づかいをしてくれる。時折たれてきた涎を回収するように飲み込むのだが、もうそこまでいくとエアコンが必要になる。

とはいえ、扇風機で我慢ができる範囲であれば、それで済ませるようにしている。都会のヒートアイランド現象は、我が住まいのある新宿区もまさにその真っ只中にあり、土に片っ端からアスファルトのコーティングをしている都心では、夜になっても気温はまったく下がらず、湿度も高い。不快指数は非常に高い地域に、私は生まれてからずっと住んでいる事になる。

ただ物心ついた、新宿の副都心にも初めての高層ビルである京王プラザホテルが建った頃、まだまだ土が顔を出していたと記憶している。ミミズも居たし、かぶと虫の幼虫も居た。人工もきっと何十倍にもなっているはずだ。そんな住みにくい所にやってきたくーは、ある意味迷惑なのかもしれない。

散歩のエリアには、ちょっとした森みたいな所もあるのだが、この時期はノミやダニがつきやすい。ホームレスも東京都がやっている政策の中で、少しは減っているように感じるが、あいかわらずの所も少なくない。そんな中では、ささやかな花壇もあって、くーの撮影に使ったりする。

とはいえ、今日はあまりにも暑く、洗濯を朝から3回まわしたり、家でネガの整理をしていて殆ど外に出なかった。お昼すぎに近所のスーパーまで買い物に行ったのだが、以前からちょっと気になっていた怪しいカレー屋に入ってついでにランチを食べた。インド人のコックが期待させてくれたが、カレー以外はうーむといった所だった。二度と行かないだろう。そして本命の買いものをした帰り、冬物のツイードジャケットを5枚、クリーニングに出していたのを引き取ってこようとしたのだが、えらく並んでおり時間がかかりそうだったので、さっさと諦めて帰ってきた。家ではくーが大理石の指定席の上で、へそ天で横べろな状態で眠っていた。この時期はへそ天率が非常に高い。

ネガの整理が終わらないと、ブログの写真ネタも増えてこないのだが、とりあえず明日も整理をしようと思う。明日も今日と同じく暑いらしい。札幌も連日真夏日をマークしているらしいし、今年も去年のように前半は狂ったように暑くなるのだろうか。

写真はひまわりの横で、さっさと写真撮るなら撮れと言わんばかりの、迷惑そうなくー。親バカを許してくれ。

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2005年06月24日

若者よ旅に出よ

自分が何様だか分かっていないかもしれない。でも、何様でも何でも、私は素直に自分の人生を振り返ってみてそう思う。自分のブログだから、自分が思うように書く訳で、いわゆる独り言の域を越えないという事を承知の上で思う。

若者よ、旅に出よ。そして自分の目で多くのものを見て、多くのものを感じ、多くの失敗をせよ。その中から自分という姿が見えてくる。自分信じられる友人が現れ、素のままの自分を見てくれる機会が生まれるだろう。

ひとまわり、というと10歳違う世代の事だろうか。ふたまわりだと20年。長いようでいて短い微妙な時間だ。しかし10年もあれば、ひとつの目的を達成するには長い位だ。

今日、職場におよそふたまわり年齢が違う新人がやってきた。私が今の会社に入った頃、まだ3つか4つ。こうしてみるととんでもなく自分が年寄りに見える。まあ女性の新人なのだから、根本的に比較する事がおかしいのかもしれないが、私の職場には男ではなく、女性が来ただけの話だ。

そして今の職場に唯一、現役のバイク乗りがいる。それほど親しくはないが、まあいわゆるひとまわり以上世代が離れている訳なのだが、最近その位年齢が離れているバイク乗りと接触する事が減ってしまった。ちょっと前までは、ゆーじが私よりも一回り位の差の、旅人だった。彼らのように、しっかりしたヘルメットとブーツとグラブを身につけ、バイクに乗る時は気を引き締めて乗り、旅に出ようと思う若者は、極端に減ってしまったように思える。

どんな青春、どんな人生を過ごそうと勝手なのだが、私は勿体ないと思う。若い頃は何もしなくてもそれなりに歳を取っていく。大人なんて、とか、子供扱いしやがって、とか、何も面白くない、面白い事がないかという事が口癖のようになっているのが多いのではないだろうか。

人間性によって随分差は出てしまうのかもしれないが、若い世代でも何かに没頭し、掘り下げていこうと努力するものもいない訳ではないが、一人で何かをしようというよりは、集団で同じような事をする事が楽しいのか、なかなか飛び出ようとしない子が増えているように思う。

それはそれで世の中をうまく乗り切る為には必要な時もあるだろう。ただ振り返ってみるといい。3年前、5年前、そして10年前から何が変わったか。何をしてきたのか。何も残っていない人生は、限りある一生をそのまま惰性のまま過ごす事は自分の責任だし、誰もとがめない。知らぬうちにどんどん時が過ぎ、歳を取っていくだけだ。

旅というひとつの目指すものを私は見つけた。それは初めて三輪車に乗れた日の事、自転車を手に入れた日の事、そしてバイクという不便で危険で不安定な乗り物の存在を知ったときに、自分の知らない世界や自分とは違う世界に生きている人々と出会う事ができ、その中から自分と本当に相性があう友人と出会えていった事。決められた学校生活や会社員生活では、世界は目視できる範囲での出会いや出来事しかないものだ。その範囲をいともあっさりと無限にひろげてくれたのは、旅だった。

私を旅へ導いてくれた先達の話は、魅力あふれるものだった。自分がみたこともない、想像もつかない経験や出来事。何よりそれは冗談でも何でもなく、ノンフィクションの重みと、その先にあるシナリオのない期待と不安のいりまじった現実が、ワクワクさせてくれたのだ。

ちょっとハイエンドなパソコン1台、プラズマテレビ1台買うお金で、無限の可能性をくれる乗り物が手に入る。それをマフラーをスーパートラップにし、耳をむき出しにし顎ひもすら閉めず、歩道だろうが赤信号だろうが走り回り、右折レーンからいきなり左折しようが、まるで自転車に乗る小学生低学年のような走り方しかできないお子さまは、廻りに迷惑がかかろうと、無関係な人を危険に巻き込もうと知ったこっちゃない。酔っ払いが自爆事故で勝手に死のうが構わないが、無関係で何も悪い事をしていない老人や女性、子供の人生にとばっちりを与える事の怒りを憶える。

結局の所、どの世界にしても人間性が基本だ。バイクの世界でも車の世界でも、ネットの世界でも同じ。あまりに廻りに気配りができない人間が増えすぎている。それは、この世界には色々な自然があり、色々な人が生きている事と体面する事がなく、テレビの中やゲームの中のように、自分の世界が狭くその中で全てを考えるようになってしまうからなのではないかと常々感じる。

若者よ、旅に出よ。ポンコツでもいい、壊れて壊れて仕方なくてもよい。バイクに乗って、雨に降られ風邪をひけ。誰もいない山の中で転んで途方に暮れろ。そして一期一会の出会いと、まず旅にでなければ交差する事のなかった人生の壮大な偶然を感謝し、見識をひろげ、自分の生きる証と対面する事だ。

この夏ちょっとした数日の休みを取って、北に向かうとよい。そこで自分が探していたものを探す同じ志を持つ者と出会えるだろう。必ず一人で旅立つがよい。複数ではだめだ。そして、自分の垣根を取り払い、人がその日に生きる為にする事だけをし、自分がその時にしたい事をすればよい。

私は今でも、もっともっと旅に出ていればよかったと思う。そしてきっとこれはいくら旅しても、同じように思う限りない欲望だろう。それほど、旅は奥深く、飽きる事はない。

騙されたと思って、バイクに数日の着替えと寝袋を詰め込んで、宿を事前に決めずに走り出す事だ。ただ、ひとつだけ忠告する事がある。どんな場面に出会っても、人のせいにしたり、運命だとも思わず、自分の力で解決せよ。バイクで旅をするという事は、そういう事なのだ。きっと実りある夢のような数日間になるだろう。

旅はいいものだ。この道の先には、自分だけのストーリーが待っている。その時に経験したストーリーは、語る側も聴く側も、得るものが大きいものだ。その話を聴く時を、私は待っている。

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2005年06月23日

日本最南端のユーフルヤー

私のとなりの後輩が、明日から3泊4日で慶良間にカヤックに乗りに行くらしい。梅雨時に度胸がるというか、運良く天気に恵まれればよいねと送り出した。

慶良間といえば、ダイビングのメッカ。本島経由ではこの慶良間が一番ダイバーが目指すのではと言う程、メジャーなエリアではないかと思う。ただ、私はいったことはない。

本島周辺をベースに、離島まで足を伸ばす事はないのだが、映画の影響で粟国島はちょっと行ってみたかった。私はカナズチなので、ダイビングをしようとは思わない。せいぜい海岸でぼーっと海を見つめたり、リーフの落ち込みまで潮が引いた時に歩いて行く位だ。それはそれで美しい海を感じられて楽しい。

一番最初に本島を訪れた時は、日本縦断のスタート直後だった。とりあえず一周という事で、時計まわりで走ったのだが、辺戸岬手前でガス欠寸前になり、戻って商店の倉庫にひっそりとある手回しのガソリン給油機から入れて貰った。そして東海岸のあまりの何もなさに嬉しくなり、名護までをゆっくり楽しんだ。

その17年後、あらためてこの時の思い出をもって東海岸を走ったのだが、殆ど変っているように見えず、西海岸のようにどんどんリゾートホテルが建つ沖縄よりも、それらしくて妙に嬉しくなってしまった。

また今日は沖縄戦から60年の、慰霊の日でもある。沖縄は日本の中でも唯一激しい地上戦が行われた地であり、悲劇の土地だ。この美しい島で、何が起こったかを学べば学ぶ程、間違った歴史を繰り返してはならないという気持ちになる。60年という月日は跡形もなくその惨状を自然が覆い隠そうとしているが、人の心を覆い隠しはしない。

南への旅としては、沖縄本島を飛び越えて、宮古群島も越え、八重山諸島へ向かう事が多い。日本で有人の領土という事では、石垣島を中心とする最西端の与那国島、最南端の波照間島が有名なのだが、私はもうひとつ、日本最南端のユーフルヤー、銭湯に興味を抱いていた。

八重山は戦前、特に西表では大規模な炭鉱が存在し、北海道の炭鉱なみに多くの人が住み、夜中でもガス灯が灯る程賑わっていたと聞く。多くの炭鉱夫は犯罪人や半ば騙されてやってきた者が働いていたようだが、今も浦内川の上流に、宇多良という地があるが、このジャングルの中に炭鉱の跡があり、湯船のあとがまだ残っている。

八重山の民宿に泊まると風呂ではなくシャワーの所も多い。隆起珊瑚でできた島などでは真水が少ないせいもあるのだろう。竹富島では石垣から水をひいているらしい。風呂はきわめて貴重な施設なのだ。その中で、銭湯がつい4~5年前まで残っていた。

石垣島の新川のはずれにある、濱の湯がそれだった。多い時で石垣市を中心に12軒もあったユーフルヤーはどこも混んでいたそうだ。このユーフルヤーは東京と少しスタイルが違っていて、番台が外にある事や、入る時に頭を洗うかををきかれ、洗うと応えると桶が手渡される事、脱衣所と洗い場や湯船がある所の境がない事などに特徴があった。濱の湯は1959年に八重山電力会社が創立後、廃湯を利用して営業を行っていたようだ。96年、98年と利用したのだが、99年に訪れた時には残念ながら閉店してしまっていた。どうも話を聞くと、98年の私が訪れたあとに、ボイラーの故障から閉めてしまったらしい。非常に残念だ。

旅人も利用した貴重な銭湯。お湯を週に数回しか換えないとも聞く。本当の事か分からないが、確かにお湯は黒く、綺麗には見えない。沸かし方に理由があるのかもしれないが、とのかく湯に漬かれるのは米原に幕営していると嬉しいもので、わざわざ於茂登トンネルを抜け、町までバイクを飛ばす事も苦にならなかった。

ひとつひとつ、歴史のあるものが消えてしまうのは寂しい事だ。でもそれらは私の旅の軌跡の中に生きている。
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2005年06月22日

雲南の判子屋に関西弁が響く

中国は広く、広大だ。もともとどこからどこまでが中国だったのか中国4000千年の中、歴史自体があまりに深く複雑で、正直本当の所はわかっていないのではないかと思う。

いろいろな歴史の本が出ていて、それを読んだとしても、21世紀に入ってた今もなお、次々を見つかる新たな歴史を塗り替えんばかりの遺跡が、とてつもなく深い歴史の事実を紐解くきっかけにはなっているが、有識者と言われる学者さんがいくら研究しても、事実かどうかはあくまで推測の域を出ない。

日本の歴史をいくら調べても、中国のように手つかずの地が残っている場所は、比較にならないほど少ない。大雑把に比べてみれば、もうないと言ってもいい位だ。与那国の海底に沈むムー大陸の痕跡とか、夢のある話題もあって楽しいのだが、中国はざっとみても漢民族以外、モンゴルやチベット系から雲南の少数民族など、多民族国家であり、そのスケールはあまりにも大きい。

中でもチベットと雲南は特別に惹かれるものがある。雲南はタイやベトナム、ミャンマーと国境を接する南部だが、海南島や香港とはまた違った中国の一面を見せてくれる。正直な所、中国とはまた違う国のように思える程だ。チベットについても、殆どインド、ブータン、ネパールと宗教を同じくするエリアであり、漢民族と繋がる部分よりもはるかに繋がりがある。しかし歴史的に色々な経緯があって、中国の一部となっている。

これらについて主張や討論をしても、白黒はっきり着く事はまずないだろう。しかし、その場所を実際に歩き、旅をし、人と接する事で、少しだけでも自分なりに意見が言える土俵に立てるような気がする。そう、気がするだけなので、これが正解かどうかは分からない。

中国は私にとって敷居が高い国の一つだった。最初耳にする話といえば、中国は大変だという事。予定通りには絶対に行かない、戦わなければならないなど、確かにほんの10年前は激しく外国人が立ち入る事が難しい国の一つであり、今も外国人未開放地区も存在するが、以前はもっと対象エリアが多かったはずだ。移動するにも宿泊するにも環境は整備されていなかった。そんなバックパッカー初心者に厳しい国である中国の中で、雲南というエリアはちょっとだけ違う魅力があった。

世界遺産に認定された麗江、大理石で有名な大理は風光明媚だが、チベット自治区の中甸は既に、標高3000mを越える厳しい土地だ。怒江大峡谷のように自然の国境のような厳しい谷などは、桃源郷として名高い。地球上である意味、まだ未知の生物が生き残っているとすれば、このあたりしかないのではと思える程の秘境だ。

まあそんな所まではなかなか足は踏み入れられないが、世界遺産の麗江で過ごした6日間は充実していた。麗江の町にはいたるところに水が流れていて、言いようによっては郡上八幡のような町だ。日本語すら表記されている店もあるカフェ、神々しい玉龍雪山が望めるメインストリート、建設中の建物にみる日本に似た柱の組み方、裏道にある看板のない扉の先にあるレストランなど、全てが平和で、時間がゆっくり流れていた。

ある判子屋で土産ものがわりに、自分の名や友人の名を掘って貰った。その彫師の店には、何故か関西弁を話す神戸に住んでいた事のある金持ちの香港人や、無職の日本人学生、コンタックスを持ったカナダ人、そして私たちがたむろっていた。このメンバーの公用語はなんと関西弁だった。この彫師はナシ族なのだが、民族衣裳も着ていない。ラサでもこの仕事をした経験があるとかで、チベット文字も彫れる。お茶を飲んだり、下らない話をして過ごしていた。

この思い出深い麗江を訪れる3年前、由は本当は自転車で大理から麗江まで走る予定だった。由は毎夏、自転車で中国大陸を走っている。これまでチベットはシガツェからラサ、青海湖から敦煌、海南島、内蒙古、黄山、北京他、毎年10日間前後をかけて、走り繋いでいる。その年は雲南がステージだったのだ。

私の父親が元気に材木を担いで仕事をしていたのだが、検査で判明した脳幹部にできた動脈瘤を手術する事になり、7月に新大久保にある社会保険中央病院で手術をした。麻酔を打ち、私たち家族が手を振って送ったあと、手術室でオペが始まった。麻酔医が麻酔を効かせ、執刀医が側頭部にメスを入れたあたりで父は突然心停止した。あわてて蘇生を行ったようだが、父の意識は戻らなかった。それから1週間、私と由は病院のICUの横にある待合室で過ごしたが、父は手術した日の深夜に一瞬だけ目を動かしただけで、そのまま逝ってしまった。これから手術をはじめようとした矢先にだ。私たち家族の中には深い疑惑が残ったが、この1週間の看病でへとへとになってしまった。

葬式やら何やらで、結局由は予定していた雲南のサイクリングを全てキャンセルし、翌年の一周忌も丁度中国サイクリングの時期と重なる為に不参加となってしまった。この2年で随分、寂しい思いをさせたと思う。

この夏、由の友人達はこの時の雲南のコースをもう一度走る。しかし由はこの事もあって、今年は不参加を決心したようだ。今頼まれた今年の記念Tシャツのデザインをしているが、あえて今年はくーと共にどこかに旅をしようと考えている。色々な意味で、あの夏の事は、今でも忘れられない。

雪を抱いた玉龍雪山は、今も多くの旅人を見守っていてくれる事だろう。由の仲間たちの、今年のランも…

写真はそのたむろしていた判子屋。陽が落ちても時間を忘れてお店で下らない話を続けていた。

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2005年06月21日

夏至の夜はキャンドルの灯で

今日は夏至。まあいわゆる北半球で一番昼間が長い日だ。昔、夏至の日にしたツーリングを思い出した。

夕暮れのひなびた外湯の前に、信州を走り回ってきた1台のバイクが停まっている。そこに少しばかりゆがんだ引き戸をあけて、一人の若者だった私が出てくる。手には分厚い皮のジャケットをかかえ、髪の毛にはタオルが巻かれている。

丁度近くの山の稜線の上に太陽が、濃い雲の端に少しばかり顔を出して、外湯の屋根のあたりを照らしている。目の前を浴衣を着た年配の夫婦と、結構な歳であろう地元の人らしいおばあさんが古くさい買い物かごを持って、駅の方に向かって歩いていった。他に人影はない。

若者はあまり大きくない荷物がくくりつけられたリアシートを避け、サイドスタンドで傾いだバイクに腰をかけ、持っていたジャケットをリアの荷物の上にかけた。もう一方の片手に持っていた1/3残っている瓶のドクターペッパーを飲み干す。

道路は少しばかり濡れていた。風呂に入っている間にも少し降ったらしい。時期的にも梅雨に入った頃だ。いつ雨に降られてもおかしくない。しかし今日は朝から天気は晴れときどき曇り、という予報だったので、朝東京から日帰りツーリングに出てきたという訳だ。

今日は武石峠あたりで少し雨に降られた程度で、殆ど初夏と思える日差しと、高原のシンとした湿気のある涼しげな空気の中、今日は信州と言われるエリアをあてもなく走っていた。まだ初夏にも満たない、そして春とも言えない中途半端なこの時期は、空気はカラっとせず、近くに森がある場合は青臭い木々の香りが好きだ。ちょっとした峠や高原の道を走ると、それを感じられる。

時計をみると、18時。もう少しすると夜がやってくる。瓶を外湯の脇にある販売機の脇におき、軽く右足でピストンの上死点を見つけ、一気に踏み込んでエンジンをかけた。下駄の足音と近くの木が風で揺れる音だけしか聞こえなかった薄暗い温泉街に、単気筒の軽いアイドリングのリズムが響く。

まだ濡れた髪の上にヘルメットを被り、ジャケットを被る。温泉で暖まったからだはまだ火照っているので、ジッパーは首もとまで上げず、少しだけ開けたままにした。グラブをつけ、シールドを下げて、ゆっくりとクラッチを繋いで走り出す。湿気があるが、首元から入り込む風で、すぐに汗がひいていった。

軽井沢を越え、大型トラックや行き交う車が流れる碓井バイパスに入って少しテンポをあげる。安中の亜鉛工場の手前あたりですっかり暗闇に包まれ、飛ばせない高崎ICまでは我慢のルートだったが、そこからは高速で一気に都心に戻った。

夏至の日、朝4時から少しばかり時間オーバーの日帰りツーリング。学生時代のある日の温泉の夕暮れを、ふと思い出させてくれた。陽が長ければ、それだけ長く走る事ができる。ただそれだけで学校をさぼってでかけた一日だったが、今でも夏至の日になると思い出す。

今日は夜20時から2時間、キャンドルを灯し、電気を消そうという、100万人のキャンドルナイトというイベントが行われたようだ。キャンドルの灯とはいえ、人工の灯にかわりないが、炎といのは照明とは違う。暗さの中にも温かみが感じられる。キャンプでの焚き火も同じようなものかもしれない。

夏至の日の夕方、別所温泉の外湯から見回すあたりには、明るすぎる照明はひとつもなかった。必要以上に明るくする現代の生活は、不要な光を抑えるだけで、随分と気分は変ってくるものだ。

今日はテレビも消して、パソコンもしばらく停めて、時間が停まったかのような夕食の時間を楽しんでみた。天幕を張り、自分が明かりをつけなければ星や月の明かりしかない空間を知っている者なら、電気の照明の明るさよりも、炎の暖かさと明るさの心地よさは、すぐに思い出せるだろう。

写真はまったく関係ないが、九州の中でも森が濃い宮崎は日之影駅の前のもの。今は近代的な駅になり、駅舎に温泉も付帯設備として作られてしまったようだ。この風情のある駅舎の方が私は好きだったが…

その宮崎には有名な中小屋天文台がある。あいにく私が訪れた日は曇っていてどうしようもなかったが、人工の夜景にはあまり興味がない私は、星の知識もないが満天の星空をみたいがために、周辺に明かりがない所で天幕を張る事が好きだったりする。

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2005年06月20日

ロッキー改造計画5th

先週末、今回のロッキー改造計画の最終ステップとも言える、オーディオの換装を行った。今回、多少なりともお金を投入した理由は、いろいろあったりする。

元々私は運転中に音楽を聞く事は好きだが、別にロードノイズだけのまったく音楽のない世界で、運転する事も嫌いではない。バイクで新潟まで一気走りする時も、折角音楽を聴けるように用意していったにもかかわらず、途中停まってセットする事が面倒で、そのまま300kmを走り切ってしまったりする。要は面倒臭がり屋なのかもしれない。

車だと走りながらオーディオの操作が可能だ。また普段のバスや電車での通勤には行き帰り、J-WAVEをシリコンオーディオで聴いている位なので、車で運転する時くらいは、いい音で音楽を聴きたいと思う。しかしロッキーに装備されているのはカセットレシーバーで、ラジオを聞くには東京以外では番組がよく分からない事から、遠出をしている時はもっと音楽をかけない。もう聞き飽きたテープがグローブボックスを占有していたり、聴いても巻き戻したり送ったりするのが面倒だというのも一つの理由だ。

そして密かにもう一つの理由として、くーがディスクやエクストリームの競技にもしも出るようになる場合、会場は大音響で効果音が流れている中で競技をする訳なのだが、そのような環境は我が家にない。大音響と言うまでもなく、音楽が鳴っている環境でも自分のペースを保てるように、くーを音楽に慣らさなければならない。という事は、ラウドネスの効いたアップテンポの音楽が鳴っている環境を、車の中なら簡単に作れるのでは、と気がついたからだ。

ずっと導入したかったのは、MP3対応CDレシーバーだった。日本語が表示されるとかされないよりも、安さと1DINという制限で何度も調べては諦めたりしていた。そして最初、以前実家の車に入れてよかったと思えたカロッツェリアを考えたが、スピーカーユニットも一緒に交換したかったので、それを考えて以下の構成になった。

 KENWOOD E-303
 KENWOOD CA-C1AX AUXケーブル(iPod等装着用)
 KENWOOD KFC-J1677

これに加え、配線やら内装の加工、ついでにだがずっとガムテープで適当に固定していたポータブルカーナビのマウントやアンテナの固定、ACC電源からの引き込みなどもできれば嬉しいと思っていたが、電気系統のカスタムが苦手な私にとってそれは自分では不可能に近かった。そして美しく満足のいく仕上げを期待して、コンサルをして頂けるお店を探した所、初台にある1軒のショップを見つけた。そしてそこで先日、ETCを取り付けたのだった。

音響効果は正直、ノーマルではどうにもならなかった。フロントスピーカーはダッシュボード下に楕円型の10cmが内蔵されているようだが、共振もひどくまともな音は期待できない。ではフロントドアの下に16cmスピーカーを装着する事を提案して頂き、内装を外して板金を確認してもらったが、板金部分をカットしても深さがない事や、今どきめずらしいハンドルで窓を開閉する構造の為、そのハンドルがスピーカーに当たる事、そして何より値段が張る事から断念。現在とりあえず装着されているリアスピーカーを強化できないかという話になり、リア部分を再度検討する事となった。

リアは内装はグレーのビニールレザーに包まれたダンボールようなふにゃふにゃの紙だ。それにスピーカーは装着されていた。手でさわるだけで、まるで薄いプラスティック版のようにたわむ。現に指を隙間に滑り込ませ、外してみると、厚さ1mm程度の紙のような素材だった。これではまったくエンクロージャとしての機能は果たさない。

このお店はボディに板金を追加溶接し、完全にスピーカーを鳴らす為の構造に換えてしまう事も行ってくれるそうだ。しかしそんな予算がなく、それでなくても結構な費用がかかりそうで悩む。そんな私に提案してくださった事は、純正の内装である1mm厚のペラペラを、厚さ1cmのMDFボードを使い、そこにスピーカーを装着し、表面にはノーマルと同じようにビニールレザーを貼って化粧してくれるという。価格を聴いた上で、最終的にその方向でお願いした。

まる2日かかってそのカスタムは終わった。しかし我がロッキーはリアのロールバーがあり、これが邪魔して分厚くなったMDFボードが入らず、外したり、カットする部分を考えたりしながら、装着にとても手間がかかっててしまったそうだ。おまけにヘッドユニットを交換するにあたり、やはり一筋縄でいかず、ダッシュボードをこれでもかと外して漸く、ヘッドユニットを外すビスが出てきたそうで、とんでもなく手間のかかる車だったと言われた。

組み写真の右下をみて貰えるとわかる通り、下に見えているのがノーマルの内装だ。ぺらぺらの紙にスピーカーの装着穴があいているがわかる。あらたに装着された内装が比べものにならない程分厚く、その剛性の強さを物語っている。

ヘッドユニットはMP3/WMA対応1DINレシーバー。1枚のCDにアルバムがビットレートにもよるが、標準的な128Kでも20~40枚が入る。これでチェンジャーも不要だし、何しろCD-Rが20枚もあれば、我が家にあるアルバム全てが入ってしまう計算になる。グローブボックスの収納効率も大幅にアップする訳だ。

ついでにお願いしたカーナビの装着も、とても美しく、電源もこれまでシガーライターから2又に分岐していたのだが、その2又ソケットも含めてACC電源から取るように配線して頂いた。ポータブルなので、車から本体はまめに外しているのだが、写真はその外した状態。美しくおさまってくれた。

実際に音を鳴らすと、高音の透明感も低音のしっかりさも比べものにならない程、コントラストがはっきりしていた。中学生時代から晴海のオーディオフェアに通っていた位、音楽とかオーディオは好きだったのだが、自分では揃えられず、兄のオンキョー・インテグラのセパレートアンプと、ナカミチのカセットデッキ、ソニーのCDデッキに、パイオニアのリニアトラッキングアームのプレーヤー+シュアのMCカートリッジ、BOSEのスピーカーなどが実家にあり、その恩恵を被っていた。それを鳴らしている時みたいに、ちょっとワクワクする音が嬉しかった。

今回お世話になったみくにやさんは、年配のご夫妻が初台の周辺で30年以上営んでいる、カーオーディオ等の取り付けのプロショップだ。私はウェブで探してみつけた。ディーラーすら、こちらに納車前にオーディオやETCの装着を依頼する事があるらしく、また予算と車の構造をしっかりみた上で、満足のゆくコースで手を入れてくれる。

カー用品量販店を最初に調査したのだが、何だか手数料も高く、応用が効きそうもなかった。ETCだけならまだしも、オーディオの交換は断られたという人がいる車種のロッキーである。ETCの装着をお願いした時に、ここでオーディオもお願いしようと思える信頼感を抱いていた。

はじめちょっと怖そうなおじさんで、まさに職人さんという感だったが、話していくうちに、奥さんもとても親身になって頂き、手をぬかず面倒な車を仕上げてくれた。もし、友人がこのようなカスタムをショップに頼むのであれば、私は胸を張ってこのみくにやさんを推薦できる。

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2005年06月19日

くるみちゃん、雪丸くん、安らかに

地平線会議という所に、一時期よく顔を出していた。本の出版の手伝いや、駄文だがコラムを書かせて頂いたり、由は神戸集会という東京以外で初めての報告回の場所を確保したり、現地スタッフとして協力させて頂いた。
私はこの地平線会議に集まる、すごい人たちとの交流は魅力が多く、その昔存在を雑誌で読んで知っていただけに、何年もたったあとで自分がそこに足を踏み入れるとは思ってもみなかった。それもこれも、代表世話人の江本さんの魅力に他ならない。

地平線会議でいろいろな事を経験させて貰った。多くのその時代の主要メンバーの方と交流させて頂き、また若手冒険家のパソコンやウェブサポートを頼まれ協力した事もあった。当然全て無償で好意だけで協力したのだが、段々とサポートを受ける者と、好意でサポートをしている私の間にギャップが生まれてしまい、私はそれがきっかけで足が遠のいてしまった。しかし、江本さんの人柄にはずっと敬意を抱いており、今でも年賀状のやりとりは絶やさない。

その江本さんが大切にしている家族に、ゴールデン・レトリーバーのくるみちゃんと、マルチーズの雪丸君がいる。いや、正確には居た。それも、立て続けに2人とも亡くなってしまった。

くるみちゃんと出会ったのは、何年前だか忘れたが、江本さんのご自宅で開催された忘年会だったと思う。集まってきている人の中には、あのバイクでは有名な加曽利さんであったり、元気に世界中を旅されている金井シゲさん、自転車の熊沢正子さんなど、それこそ執筆された本を読んで、旅に繋げたりしていた大先輩な方々と、同じ屋根の下で会話ができたという、旅人にとっては夢のような空間だった。江本さんの人柄や人望が皆さんを繋げているんだというのがよくわかった。

その席で、足の間を通過していった大きな犬、それがくるみちゃんだった。その時私は犬を飼うなんて、旅はできなくなるし、何しろ喘息の私には無理だと思っていたのだが、今はこうして犬の居る生活を送っている。江本さんが犬を家族の一員として迎えられている理由は、犬を飼ってみてわかった気がした。

そのくるみちゃんは、6/13のお昼すぎ、12才4か月と20日目にして、大好きな江本さんの側で看取られていった。その話を聴き、とても悲しくなった。大型犬の寿命としては、決して短くはないが、江本さんの悲しさが伝わってくるような話だったのと、今でもあの大きなくるみちゃんが、私の股下を潜っていった事を思い出せるから…

そして今日、さきほどなんと、5歳の誕生日を直前に控えたマルチーズの雪丸君まで、息を引き取ったとの話が入っていた。今日6/19の朝に…まるでくるみちゃんのあとを追っていくように、江本さんを置いていってしまった。

雪丸君は昨年夏に交通事故にあい、肋骨を骨折していたようだ。その後くーと一緒でなかなかよくならなかったようだが、江本さんとくるみちゃんのもと、元気に散歩もしていたようだった。くるみちゃんがいなくなってからすぐに、体調を崩し、ここ数日はまともに江本さんは寝る事もできない位、看病をしていた。しかし、その甲斐もむなしく…

想像ができない程、驚きと悲しさに包まれている。2人が江本さんのもとで、幸せな日々がおくれた事が何よりの慰めだろう。その年月の長短はあっても、江本さんと2人の子供たちの時間は、これからもくすむ事はない。何より、あの江本さんが悲しさの中にひとり、取り残されてしまっている時に、私は何も力になれない。それがとても悲しくあり、悔しい事だ。

くーを我が家に迎えて、いずれはそういう事も起こるだろう。我が身にしても、限りある命、その長さが短くても長くても、それはその人に与えられた運命とも言える。その時間の中で、いかに幸せに生きるか、それが重要だ。

くーよ、おまえは我が家にやってきて幸せか?おまえが幸せに過ごせるように、私は頑張るのだよ。仕事をし、給料を貰い、それでおまえに食べ物や遊ぶ時間を与え、何より群れ社会で生きる犬にとって、頼れるリーダーとして、幸せに暮らせるように努力をしよう。

いつしかおまえも私も、この世の中から居なくなる時が来る。その時まで、幸せな時間を一緒に過ごそう。それが少なくとも私が生きる目的の一つであり、おまえも生きる目的の一つなのだから。

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2005年06月18日

親孝行は蛍とともに

私の父は1998年の夏に他界している。父の日というのが明日に控えているが、先日も墓参したので、特に何もする事もない。しかし由の父には何か送ろうと相談してみたが、あまりそういう行為に興味がない由は、実家に戻った時でいいんじゃないかと言う。実際既に気づいた時に遅く、神戸までプレゼントを送っている時間もなくなってしまっているので、毎年不義理な息子として申し訳なく思いつつ、今度帰省した時に何かまとめて親孝行できればと思ったりする。

私の父親が他界したあと、母親はどこかが悪いという理由をつけつつ(実際は異常ないのだが)、夜中に病院に呼ばれたり会社を休ませられ病院に付き合わされたりする事も少なくなかった。担当医が病院を変わったきっかけで、徒歩圏の病院から、バスを乗り継いで行く片道40分程度の病院に変わった事で、こちらとしては夜中に呼び出される距離が長くなるのだった。

私は小学生の頃から実家が自営業をしていた関係で、いわゆる鍵っ子だった。小学校の頃から毎週、東京医大に喘息の減感査治療の為に通っていたので、土曜は母親と病院に行くのは習慣になっていた。しかし土曜など家に帰っても誰もおらず、自分で台所に立つ事が増えていった。

子供の頃から母親のわがままにはふりまわされてきていた。友達を悪く言われる時が一番子供心にも辛く、気分で意見が変わる事には悩まされた。また私は教員にも恵まれず、小学校3年から6年、中学校3年間、高校3年間ともに、心底信じられる教員に当たる事はなかった。逆に5歳離れた兄は、まったく同じ学校に通っていたのだが、今でも慕われる先生が担任だったりと、その差は何なんだろうと自分の運命を呪った事もある。正直、私の小学校から高校までは、友人の存在がなければ崩れてしまっていたのかもしれない。

父親は母親よりもはるかに寛大で、そしておとなしい男だった。人がいいというか、自営業をしていても人を信用し騙される事も少なくなく、ただ時代がよかったおかげで、何とか潰れずにやってこれたんだろうと思っている。今父親のあと兄がその家業を継いでいるが、この不景気な時代、ギリギリの所でなんとかやっているようだ。自営業の良い面と辛い面を、私はみてきた事もあって、普通のサラリーマンを選んだと言える。

母親は何かというと体調が悪いといい、血圧が高いだの言うのだが、実際は生きていれば人は血圧は上下する訳で、その範囲を越えている訳ではない。一時的な血圧を、いい加減な血圧計でいい加減な測り方(心臓より下の位置で、手首ではかるタイプを使っていた)で物事を伝えるので、救急車の退院もたまったものではない。いつも病院に付くとおちつき、何も治療されないで帰ってくる事を年に10数回繰り返す。その度に食事をしている最中だろうが、寝ている最中だろうが呼ばれるという訳だ。

私自身も仕事や会社の環境の関係で、一時期ひどく鬱に近い症状となり、今でもその波は続いている。また群発性頭痛を持っていたり、体調が優れない日も少なくない。そんな中で母親から連絡がない事は、喜ばしい事だ。その為にも、年に何回かご機嫌を取りに顔を出さなければならない。今日もその日だった。

目白にある椿山荘という古いホテルがあり、そこに先日ランチを食べに行った。当然母親のおごりでだ。今日は、椿山荘が以前からやっている、夕食を食べ、敷地内で蛍を鑑賞するというイベントに行ってきた。当然、これも母親のおごりで。

記憶が定かではない昔に、椿山荘に行ったことがある。庭が広く、森のような場所だった事しか覚えてないが、蛍の話はどこからか聴いていたのか、知っていた。その蛍を「見ながら」食事ができるなら、その値段でも仕方ないのかなと思っていたら、バンコクの安ホテルの朝食のような、バイキング形式でホテルの上層の階で食事だけ食べ、食後に散歩がてら蛍のいる庭へどうぞ、という事らしい。それで8800円。正直近くで夕食を食べ、庭だけ散歩した方が数倍よい。

まあ母親がおごってくれるなら、そして話し相手になり、へそを曲げないように気配りする事が親孝行なので、文句ひとつ言わずに付き合っていた。何だかんだ行っても、母親の面倒はこれまで家族の誰よりもずっとみている訳で、親戚からもそういう息子に見られている。親子とはそういうものなのかと言う人もいるが、私にとってはよく理解できない。子供に何を期待するのか、子供というのは自分の人生にとってどういう位置にいるものなのか、私にはイマイチ納得がいかない。

結局、自分の親を見て子は育つ訳であって、その親が子供だけでなく家族とよい関係を作れなければ、子供も不幸な訳じゃないだろうか。こればかりは、人それぞれなのだろう。心の底から、家族というものはこういうものだというような家庭を、自分の親を見て作りたいと思った。皮肉なものだ。

また、自分が子供の頃からずっとアトピーや喘息を持っており病弱で、レントゲンは既に100回近く撮っているし、飲んでいる薬の量は相当なもので飲んでいない日の方が少ないということから、私の子供が健康である確率はどう考えても低い事も、私が自分の子供が欲しいとか思わない大きな理由の一つでもあったりする。

私は私の家族の為に守らなければならないものを守る為、力を注ぐ。それは由であり、くーである。今後自分の子供がこの中に加わる事は、今の所考えていない。その理由は、こういう事だったりする。そして自分の限りある人生に、悔いが残らないように自分が楽しみたい。

写真は今日のバイキングでも出た寿司なのだが、それとは比べものにならないレベルのおいしいお寿司。既に二桁を越える回数を通っている、網走の某寿司屋で食べられる、生たらばがに。これはウマイ。

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2005年06月17日

おなかすいた

人間は毎日何かしら食べている。食というものは重要で、生きる為に食べるのだが、おいしいものに出会う事でただ食欲を満たすばかりでなく、ちょっとした幸せな気分を味わう事ができる。「おいしい」「うまい」などの形容詞で表現される状況が、それに繋がる事になるのだろうが、やはりまずいものよりうまいものを食べたいと思うのは自然な事だろう。

私は朝、相当に早く家を出る事から、会社に到着してから朝食を取る。朝食タイムとしては7:30~8:00の間になるのだが、その間は毎日朝の情報収集を行いながらみている。状況によって、ヤバイ事が起こっていれば、食べるのを中断して仕事を進める場合すらある。

昼は基本的には仕出し弁当だ。420円のなかなか内容が豪華な弁当なのだが、来月から職場のレイアウトが変わる事で、ひょっとしたら変わる可能性がある。ビルの1階にはコンビニが入っているし、弁当業者が3社位入り込んでいる。また外にはいい加減なサイクルでタイカレー屋が現れる。まあそれなりに選べるのだが、食べに出る事はあまりないのは店が極端に少ないせいだ。

夜は家に帰ってきてから食べる。時間は20:00前後が多い。仕事の進み方によってはもっと遅くなるが、流石にこれ以上早まる事はない。なんせ職場が遠いのがその原因だ。食事の時間はそれなりにバランスを保っているのだが、昼から夜にかけては時間が少しあく事から、帰りは結構腹ぺこという事が多い。

私は持病やら何やらで、晩酌もしないし、ビールすらまずめったに飲まない。たばこもさもありなんなので、これらにかかるお金は別のものにまわせるという事だ。食費ももっと切り詰めようとすればできるのだろうが、楽を優先してあまり真剣にコストダウンを図ろうと考えていない。これはいかんとは思っているのだが…

それはそれとして、旅先で食べるものや、旅を感じさせる食べ物については、興味津々になる。中華街での中華まんや、沖縄のそば、香川のうどん、神戸の明石焼きや大阪のどて焼きなど、こうしているだけで先日バリウムを飲まされたが今は空っぽの胃が活発に動く。

最近妙に食べたいけど実現しないものがある。台湾の食べ物だ。いつか紹介できればと思うが、阿宗麺線の大腸麺や、甘辛く煮た角煮の細かく切られたものが白いご飯に乗っかった魯肉飯、マンゴージュース、腓骨麺や腓骨飯、牛肉麺や小龍包などなど…おいしかった。思い出すだけでおなかが鳴る。

丁度台湾に駐在されていた友人夫妻に、一度半日付き合って頂き、お茶屋や小龍包屋、百貨店やチャイナ服屋、スーパーなどに連れていってもらった。携帯電話で店をブッキングし、タクシーの行き先を的確に指示する所をみせられ、驚きと同時に大変有意義な時を過ごす事ができ、楽しかった。彼らは今日本にいるのだが、一緒に旅行するのではなく、異国で友人と出会い、少しでも一緒の時間を過ごす事は、新しい発見が多くあってとても楽しいものだ。センスとテンポのよい奥様のウェブサイトを帰国してからもずっとチェックさせて頂いていた。勝手ないいぐさだが、彼らがいない台湾は少々寂しい。バンコクにもう何年も住んでいる開陽台の友人にも、逢いに行きたい。

新宿にある高島屋に、この台湾で一番有名な小龍包屋である、鼎泰豊(ディンタイフォン)があるのだが、値段も高いし味も本場とは違うようなので、まだ一度も入った事はない。現地で食べた小龍包や餃子などは、本当に美味しかった。

写真は食の殿堂、士林夜市のディープエリア。今はもっと整理されたようだが、すぐ脇で鉄板が焼け、炎に包まれた鍋が踊り、カットされた果物が山積みになっている間を縫うように歩く。濃密なアジアがそこにあった。

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2005年06月16日

無敵のジオデシック

開陽台でテントを張る日々が続くと、いろいろ洗礼を受ける事がある。台風に直撃されたり、武佐おろしが吹いたりする場合は特に、テントを張る向きや不用意にペグを打ち忘れてしまうと、すぐにそれが痛い程わかる。

天気がよい日の方が少ない、というのが実感なのだが、よい日が続くと平和なだけに、あまり快適な記憶が残らないのかもしれない。快適な時間はあっという間、そう、楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。辛い日は早く天気が回復しないか、霧が晴れないかと思いながら過ごす。

ハイジーの家ができた年、正直言ってあまり喜んでその門をあける事はなかった。まだ若かったのだろう、新しくできる施設全てを否定してきた。それがその土地にとって何を意味するものかなんか、これっぽっちも考えないで。しかし、その翌年にはすっかり奥のボックス席の一員になっていた。新しいハイジーの家で言えば、カウンターの常連という事になるだろう。

天気が悪い日で、ハイジーの家が開いている時間の2割位はある程度決まっていたが、ずっと入り浸っていた訳ではない。それは電線ロールのテーブルを囲む椅子の上であったり、テントの中のシュラフの上で寝ころび、本を読む時間だったりする。そんな時、我が家になるテントは安心感として、存在する。

それまで開陽台で張ったテントは、ムーンライトのライトエスパース2~3人用ツーリングポイント2や3だったが、周辺で一番多いテントはダンロップの赤いVだった。そこで何故か私はVに流れなかった。確かによくできたVだが、あえて言うなら、値段の高さや狭さ、そして暗く感じる赤というのがひっかかったとでも言うのだろうか。私の目の先には、ヒマラヤ登山のアドバンスド・ベースキャンプのテントとして使われる事も多い、ICI石井スポーツスタードームがあった。

通常のポールに2本加え、ジオデシック構造のドームテントであるスタードームは、構造上どこからの風にも強度を発揮し、ドーム型ならではの高さもある程度確保される。ポールに不自然なカーブはなく、あくまでも同じRで弧を描き、美しい姿をしているテントだ。

色は黄色と灰のツートンで、少し派手なのだが、前室用に1本独立したポールが、大きい前室を作ってくれていた。しっかりとペグを打てば、まず大抵の風にはビクともしない。ポールがブラックアルマイトのイーストン社製であまり太すぎず、少し弱い部分もあるのだが、4本のポールが組み合わされる事で、強靱な家となるのだ。

実家から歩いて行ける、というか小学校への通学路上にあるICI登山本店の最上階で、何度悩んだ事だろうか。オリジナルのテントであるが故、値引かない。しかしその良さには引き込まれていた。悩んだ挙げ句、購入したのだが、実の所実際に使うまでには1年以上間があった。そう、勿体なかったのだ。

開陽台専用テント。私の中ではそんなポジションだったが、結果的にはその後のメインテントになり、活躍してくれた。

ただ欠点といえば、吹き流しが2箇所もあるわりには、通気性が悪い。出入り口がもう1カ所あれば、きっともっと快適なのにと思うのだが、山ヤのテントは質実剛健でよいとも言える。

スタードーム。私の中で開陽台専用テントとは、この事だ。しかし写真は和琴の湖畔だったりする。こういう平和な環境でも、絵になるテントだ。

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2005年06月15日

JALしっかりしろ

初めて乗った飛行機はいつだったか。記憶が定かではないが、きっと学生時代にヨーロッパ四カ国を駆け足で巡ったツアーの時じゃなかったと思う。そう、いきなり最初の飛行機でフィンランド航空の北廻りルート。成田から飛び立ち、北極点経由でフィンランドのヘルシンキで2時間程度のトランスファー。空港は雪で真っ白だった。そしてギリシャ・アテネへ。ヘルシンキの時間を含めなくても、10時間以上エコノミー席で身動きが取れない状況の中、定期的に出される機内食に安眠を妨害されたきつい時間だったが、初めて乗る飛行機で、苦痛は感じなかった。

アテネから今度はイタリア・ミラノへはアリタリア航空で飛んだ。ローマまでは陸路でアウトストラーダを走り、そこまら今度はスイスエアーでオーストリア経由でスイス・チューリッヒへ。インターラーケンからツェルマットまでアルプス越えをし、ジュネーブからTGVでフランス・パリへ。

これが1週間の行程だから、そのハードスケジュールはさもありなんだ。イタリアでは夜の23時にホテルに到着し、水が出ない部屋だった。しかし20歳を越えたばかりの私は、この旅の中で飛行機という乗り物に乗りまくり、短時間で地球をほぼ一周し、広大な距離を旅した事になる。

その後はバンコクまでのUAやTG、バンコクからカトマンドゥまでのTG、台北までのCIやJL、昆明までのJDやCA、中国国内線の3Q、CZ、ネパール国内の3Zなど、今にも壊れそうな機体から、中途半端にどこか壊れそうな機体、そして安心できる機体などに乗ってきた。あの大きな鉄の塊が空に飛び立ち、そして無事着陸するというような事を考えたら、正直怖くて乗れなくなりそうだが、旅の足としては必要な乗り物になる。

飛行機に乗るには、空港に少し早めに到着しなければならない。新幹線のように、それこそ飛び込み乗車でも大丈夫な乗り物とは違う事から、どうしても所要時間の前後に時間がかかってしまう。その時間が無駄かもしれないが、私としてはそんなに嫌いではなく、むしろ旅立つ気持ちを盛り上げてくれたり、落ち着かせたりしてくれるものだ。

昨今、好きだったJASを吸収したJALが、トラブルばかり起こしている。元国営企業、企業資質という視点からは、まるでJR西日本を見るようだ。コストダウン、人員削減、成果主義と、そんな事経験してもいない連中が、今の会社を引っ張っている。当然会社を愛し、仕事を愛するささやかな社員の気持ちなんか、これっぽっちも考えない。単に自分も雇われているくせに、雇ってやっているというスタンスで、純粋な労働意欲や愛社精神を踏みにじる。今のJALも、まさにそんな内情なのではないだろうか。悲しい限りだ。

JASがJALになってしまったので、溜まりに溜まったマイレージ4万マイル以上がJALのマイレージなった途端、まったくたまらなくなってしまった。サービスは低下し、マイルの加算率もセコい。こんなんじゃなかったはずなのに、と、ANAの方をのぞいてしまう。

写真は羽田空港の早朝。成田などの国際航路は夜中に飛び、明け方に空港に到着する事が多い。関西空港から成田に到着し、成田から国外に旅立つ事や、その逆もある事から、早朝でも活発に飛行機は動いている。今飛び立っていった飛行機はどこに行くのか、今到着した飛行機はどこからなのか、そんな事を思うだけで、何か胸の奥がわくわくするのだ。

空港。それは旅の空気がむせかえる程濃密な場所。あのちょっと緊張して、ちょっと寝不足な早朝の空港にまた行きたい。朝日がさんさんと降り注ぐターミナルは、ちょっとした美しさを感じる。

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2005年06月14日

人間ドックとやら

一般企業の会社員であれば、企業内で健康診断を受けられるだろう。私の職場でも、入社以来ずっとこの時期に受けてきたのだが、ある程度の年齢に達すると、健康診断から人間ドックになり、企業内に併設された病院で受ける事になる。

その「ある程度」の年齢に達してしまったという訳で、朝早くからその病院横の施設に行ってきた。実はその敷地内には友人が仕事をしていたりするのだが、今回は会う事はできなかった。私自身は朝8:10に到着したのだが、既に整理番号は16番。おまけに初回のドックという事で、説明を受けたり段取りがわからず、午後までかかってしまった。

内容としては、身体計測や採血から、バリウムを飲む胃部X線や胸部X線、胆嚢超音波検査、眼底投影、心電図他いろいろ。ドックとは名ばかりで、まあ健康診断の延長のようなものだ。特に問診や内科検診なぞは、それで診断かと思える程、いい加減だった。喘息だといっても、どのような薬を飲み、どのような治療を行っているかとか、過去の病気の事も病名だけしか確認しない。それで本当に診察しているつもりなのか?

問診で聞き出したそれまでの病歴や現在の体調などは、実際の医師が診断する材料になるはずなのだが、それで診察なのかと思える程表面的な部分しか言わない。本来は異常や疑問などがあれば、患者が納得いくまで説明や検査がある訳なのだが、所詮企業が社員に最低限の義務を果たしているか否かという部分を事実として証明させるだけのイベントに過ぎないと感じる。

自分の体は自分で守るしかないのだろうが、人生のうちで大半を、そして1日のうちの殆どを費やしているはずの仕事場では、自分の体を守る事は就業規定には含まれないし、守ろうものなら職場では立場が悪くなってしまう。こんな仕組みを日本企業は戦後ずっと続けてきているのだなとあらためて呆れる。

今ストレスや数値的にしか評価値として現れず、おまけに平等・正当性の薄い評価制度が原因で、苦しんでいる会社員が沢山いる。「甘えるな」で済ませられる次元を越えているにもかかわらず、自分の立場の擁護や防御だけで、一人一人それぞれの人生がある社員の給料が決められていく。ある程度は仕方ないのかもしれないが、何かおかしい。

順番に同じ系列会社のオジサンの列に並ぶ自分が、滑稽だった。誰かが社畜と言ったが、まさにその通り。社員の為に行われているのか、形式的に義務を果たしているだけなのか。経験してみれば、おのずと分かって来るのがまたサラリーマンの悲哀だろうか。

いつかここから飛び出して、自分らしい時間を過ごす事ができるだろうか。そんな事を診察着を来た一人のオジサンは思っていた。

写真は6年前くらいの仕事中の私。初めて買ったデジカメで撮った画像。

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2005年06月13日

バカTシャツの元祖

日本人は、英文が書かれているTシャツを好んで着る。私もそうなのだが、英語力の乏しい日本人が、何を書いてあるのかを正確に理解して身につけているかどうかは、怪しい。しかしなぜか英文が入っているとカッコいいからと、フォントの雰囲気にのまれて多くの間違った言葉が書かれたTシャツやカバンなどが今でも売られている。

実はそれらの製品は日本製ではなく、中国や韓国、ベトナムやタイで作られたものも多い。デザインやプロデュースをしているのは、日本のどこかの会社なのかもしれないが、よくもまあと思える程、赤面するような英文が平然と書かれているバックをよくホームセンターやディスカウントショップでみかけるのも事実だ。

多くは子供用ではないだろうか。原色が使われたリュックやシャツなどには、首を傾げるどころか、目を覆うような英文が大々的に書かれている。恥ずかしい限りだ。

しかしそれは英文に限らず、日本語にしても、アジア諸国で多くの間違った日本語が使われたものが出回っている。実際にアジアを旅していると、面白い食料品や衣料品を多くみかける。カップヌードルやインスタント食品などは、日本の現地法人がその国向けに販売しているものなので正規品なのだが、いわゆる偽物がそれに似せられて作られている時、殆どといっていいほど読む事すらできないような日本語らしき文字が大々的に書かれていたりする。

これに目を向けてコンテンツを展開している人がおり、一時期笑いながらみていた。台湾や雲南でもハム太郎や、どらえもんのグッズを多く見つけ、コレクションに加えようかとも思った程だ。後日ハム太郎は友人娘さんのお土産に買っていったら変なハム太郎と言われたそうだが…。

そのいわゆる「バカTシャツ」と言われるアジアのいかしたTシャツを友人が買ってきてくれた。ひとつはリポビタンC、ひとつは味の素だ。前者はあきらかに広告か何かがベースになっているようだが、背中に書かれている内容は意味不明の日本語も多い。後者はタイ語なのでさっぱりわからないが、実は本当の現地法人のものなのかもしれないが、怪しさ満点なのでなかなか気に入っている。

そんな隠れたブームを利用されたのか、ユニクロコラボTシャツとして日本企業や海外企業のロゴをデザインしたTシャツが登場した。1枚780円とか1000円のため、そしてなかなか面白いデザインのため私も数枚買ってしまったが、怪しさはなくおしゃれとも言える。これからも出てきそうだが、ちょっとウォッチしていこうかと思っている。

何より冗談で着るTシャツとはいえ、恥ずかしい言葉の間違いがネタになってしまうというのは皮肉なものだ。アジアを旅する時、へたなお土産よりははるかに嬉しいが、状況によってはちょっと恥ずかしくて着られない事もあるかもしれない。ただ私からすれば、旅を、アジアを感じさせるTシャツという意味で、なかなかよいお土産ではないかと思ったりする。

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