2005年07月31日

犬の幸せと飼い主の都合

7月も最終日。無事誕生日もすぎ、今度は由の誕生日が近づいてきた。7月と8月に誕生日があると、バースデー特割とかが使いにくい。どちらかが11月とか2月だとよかったのだが、どうしようもない。

1年の始まりが1月という基準だと、漸く半分を過ぎたあたりなのだが、年度末という基準だと、漸く1/3が終わった所だ。自分の人生が限りあるものとして、こうして過ぎていく日々に、何だか疑問を感じる。もっとすべき事があるのではないだろうか、無駄に過ごしていないだろうか。若い頃はこんな事考える事はなかったのだが、妙にひっかかるようになってしまった。そういう歳なのだろうか。

早く涼しくならないか、早く夏休みにならないか、早く週末にならないかなんて思う日々が、それで本当にいいのだろうかがわからない。だが、そう思わずにいられない日々を過ごしているのは現実だ。ここから抜け出す為に、言い方は悪いが逃げ出す事を、旅に出る理由にする事も少なくない。

旅は自分にとって不安が背中合わせだ。旅に出るまでは特に、ワクワクどころか不安の方が大きい事も多々あった。天気は持つだろうか、船に間に合うだろうか、よいサイトが見つかるだろうかなど、そんな事をクヨクヨと心配している自分は、実は旅に向いていないんじゃないかと思った事も何度もある。

しかし、旅はそれがないと何だか旅に出る意味も薄れるんじゃないかと気がついた。そしていつしかその不安感やドキドキする事を楽しめるようになってきた。実に情けない事だが、偉そうに旅が自分のライフスタイルだと言えるようなものではなく、実はインドア派なんではないかと思う時もあった私が、騙し騙し貫いてきたものの中で得たものは、とてつもなく大きく他のどんなものよりも魅力があった。

くーはまだ旅といってもせいぜい長野や静岡のキャンプや、栃木や山梨の宿、多摩川の河原の他は日帰りの旅しか経験させていない。実際くーにとっては、遊べるならどこでも構わないのだろうが、飼い主の我がままで、いろんな所に連れて行ってやりたいという気持ちがある。

くーにとってワクワクやドキドキするような事はあるのかどうかわからないが、単純な感情である「楽しい」「嬉しい」「怖い」「眠い」という時は明らかに判る。飼い主としては、やはり楽しく、嬉しいという顔をしたくーを見ていたい。まあ眠いもかわいいのだが、怖いや不安なども少なからずある。

旅犬への道は険しい。旅に出る時、楽しいとか嬉しいという表情をするようになってくれればしめたものだ。車に乗る事は楽しい事がある前兆だという事は、それなりに判るようになってきたようだ。電車に乗る事は、まだ2度しかない上に、長時間な故、なかなか直接よい事に繋がらないのも無理もない。今度の課題は飛行機初体験をさせる事で、カウンターであずけられる事が、楽しい所に連れていって貰えるという事に繋がる事。

旅犬の大先輩として、むぎちゃんがいる。彼のようには流石になれないが、ポイントは抑えたい所だ。これは何だかんだ行っても飼い主にかかっている訳で。くーにとっては迷惑な話であったりもするだろう。

写真は迷惑な顔をしているくー。泳ぎ未経験のくーは、あまりに冷たい水と流れに怖がってしまって、立ちすくんでいる…段階を追って、もっと水の中が楽しいものだという事を少しづつ学ばせてやりたい。綺麗な川で、嬉しそうに泳ぐくーの顔を見る事はいつかできるだろうか。それも飼い主にかかっている。

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2005年07月30日

道東の常宿

基本的にはキャンプというスタイルでの北海道をツーリングする私だが、何だかんだ行って宿にも結構な頻度で宿泊している。その理由は天候が悪い時や、短期の旅の時は、設営撤去の時間や、3~4日程度の旅に重い荷物をもって行きたくないから、というキャンパーと胸を張って言えないようなものだ。

だが、基本的に格好やメンツを気にせず、楽しく旅がしたいというのが大きな理由だ。その時の気分で、その日の寝場所を決めればよい。またそれは寝るだけではなく、その時の気持ちでリラックスできる環境を選ぶという事だ。

テントを張る場所として、圧倒的に比較にならない程張っている場所は、やはり開陽台だ。そして、宿という形で一番世話になっているのが、弟子屈は札友内の「鱒や」。憧れである、>リンダル・シーダー・ホームズの建物が、これも夢のようなロケーションであり、釧路川の側にひっそりと建っている。これ以上にない程素晴らしい建物であり、そこで過ごす時間というのは、一常連客として言うのは失礼だが、いつでも泊まれる別荘のような場所だ。

宿主さんとはもう10年以上の付き合いになる。最初に泊まる事になったきっかけは、シェフから誘われた為だった。94年の秋、開陽台ハイジーの家の閉店後、宿に停まろうとしているとシェフが自分が泊まっている宿をと、紹介してくれた。

北海道の宿といえばユースホステルという時代だった私が旅していた時代、ユースは色々な意味でルールが多く、ユースを開きたくても条件が伴わず、認可されなかった宿が多くあった。今ではユースはそれぞれの特色を出し、基本的にアルコール禁止で食事も質素で食器の片づけもする、という事も少なくなった。その流れの中には、きっと「とほ宿」と言われる宿泊施設が増え、旅行者のニーズにあわせて低価格で、ただ泊まるだけでなく付加価値を期待する旅人が増えた事もあるのだろう。鱒やもそのとほ宿のひとつに分類される。

とほ宿の殆どは、元旅人が経営している。日本中を旅し、北海道に移住して宿をはじめた人々だ。だからこそ、個性的な宿が多く、スタイルこそ男女別相部屋なのだが、今では個室も調整可能だし、食事や風呂などに魅力を持つものもあって、ただ宿泊するだけではなく、連泊する事でその宿での時間を楽しむ旅人も少なくない。

鱒やはその中でも少々異質だ。オトナの宿と言うのだろうか。食事も例えばジンギスカンや寿司が食べ放題とかいうようなお金のない若者をターゲットにしている特色ではなく、素朴だが地の素材を生かし、量も充分な季節感のある丁寧なメニューだったり、まずそう簡単には泊まれない、リンダルの建物だったり、目の前に流れる釧路川を眺める事のできる、特色のあるリビングだったりと、私からすればここでしか味わえないリラックス感を目的に、季節を問わず訪れるようになった。値段も他の宿からすれば、少々お高いのだが、私からすれば納得できる範囲なのだ。

鱒やの近くには、由や友人が多くベースにしていた和琴民営キャンプ場がある。また私がベースにしていた開陽台からみても、1時間程度の距離だ。最初、シェフに誘われなければ、弟子屈に宿を取ろうなんて考えもしなかった。しかし今で宿として利用しているのは、上に述べたような快適な時間を味あわせてくれるからである。

宿主さんは釣りが好きで、釣り客へのフォローと、夏や年末年始、流氷の時期に現れる旅人を相手に、その才能を発揮して満足感を与えてくれている。驚く程若い頃に色々な経験もされてきていて、話を聴くだけでも面白い。それがリピーターを生み、質のよい客を呼び込むよい循環になっているかもしれない。

昨年は台風通過を、鱒やに3連泊してやり過ごした。友人の和琴で行われた結婚式の当日の夜も、激しい嵐で鱒やに世話になった。春の山菜の時期は今日泊まっている彼と共に、タラの芽やコゴミやウドを沢山取って、天ぷらを食べた。

今その宿に、私の親しい友人が彼女をリアシートに載せ、初めての北海道ツーリングで宿泊している。先程電話があり、彼女は新しい出来事に刺激を受け、またいきなり初対面の私を電話に出され、異様に緊張しているようだった。きっと、二人は明日は中標津の某丘方面か、釧路・根室方面へ日帰りだろう。まだ付き合って間もない二人は、遠慮がちにそしてお互いを気遣う中で、あの場所が持つ独特のロケーションが手助けし、よい思い出になるに違いない。

その思い出の中に、泊まった宿が大きく記憶に残る。あの宿でのあの時間をまた味わいたくて、また旅に出る事になるだろう。私達と同じように。

今年はくー連れなので泊まれないが、挨拶には顔を出そうと思っている。

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2005年07月29日

思いやりのある生活

カテゴリで愚痴というのが必要かもしれない。日々の生活の中で、愚痴というジャンルに含まれるものが、実際何も生まない非生産的なものに属するのはうすうす分かっている。しかし、呆れてとか、情けないと感じる事があまりに日常に多すぎるのも、悲しいかな事実なのだ。

帰りが辛かった。子供連れの多さだけでなく、妙にイラつくのが多い。都会にいるとこういう事が多く、人が多すぎるのもその理由のひとつかもしれないが、人に迷惑をかけて平気な顔をしているのがあまりにも多すぎる。気候も意識が朦朧とする位、湿度が高く、不快極まりない空気の中、それぞれがイライラ感をつのらせていたような感じだ。

たかがバスや電車に乗るのに順番争い。子供連れの親がバスの中で子供を走り回らせ、椅子を遊び道具にしている姿。バス停横で煙草を吸い、子供やおばあさんに煙をはきかけ、灰を指で飛ばす。当然ながら最後は吸殻は足元に捨てる。こういう姿ばかりみていると、本当に一度人類は滅亡した方がいいのかとすら思える。

結局の所、無神経なのが多すぎるんじゃないだろうか。ACのコマーシャルにもある通り、ジコチュウが増えている、というのはその通りだ。いつでも誰でもが、被害者になりうる状況は事実だ。本当に情けない。

夏休みで多くの観光客が汐留やお台場にやってきている。そんな所に事務所を構えている会社も問題だ。何ひとつメリットはない。全社員の交通費が余分にかかり、窓口のある銀行すらなく、人が生活する上で必要な施設が足らない事もしばしばだ。病院にしても、選ぶ余地はない。そういう理由からすれば、会社のせいと言ってもいい。

折角一番好きな金曜日の帰りに、もうヘトヘトになって帰ってきた。変なじいさんに絡まれるは、暑くて汗が目に入るわ、疲れた…

昔は今ほど疲労感も失望感もなかった。大抵は夏のロングツーリングでリフレッシュし、また次の旅までの1年の都会生活を頑張る事ができた。なかなかそのスパンが短くなり、夏だけでなく冬も旅するようになり、春、そして秋と、四六時中旅に出たくなる。そして今は旅に出ても帰る事を考えた時点で、既に憂鬱な気分が戻ってくる。リフレッシュなんかどこに行ってしまったのかわからない。

少しでもその間をもたせる為に、夏の旅はいつも8月後半。同僚の殆どが今もお盆の時期に集中して休むのだが、そのあとにゆっくりと休ませて貰う。反面、7月末から8月頭にかけて休むのも以前あったが、これも早く休みが終わり、秋までが長く辛い。まあ堂々巡りの葛藤との戦いが、毎年行われるようなものだ。

この週末から、友人が旅に出る。どうやら、今年の旅はいつもと違うらしい。これまでなんだかんだ行って往復の船を私と一緒に取り、北海道を旅してきた彼は、今年はこれまでにない旅になる事だろう。よい旅を、そして思い出に残るよい時間を過ごしてきて欲しい。

本格的な夏休みシーズンに入る。ただ旅の恥はかきすてではなく、あくまで自分が楽しむ為に、廻りに迷惑をかけていいなんて思わないでほしい。人間なんだから、モノを考えられる生き物なのだから、できる限り廻りに迷惑をかけずに、自分達が楽しんでほしい。いつからそんな基本的な事を後回しにするようになってしまったのかわからないが、そうする事で、誰もが楽しい時間を過ごす事ができるのだから。

そしてもしも廻りに迷惑をかけてしまったら、素直に謝る事。これがまたできない。そういうオトナが多くなっているが、単純な事だ。それを見た子供や若者はどう思うだろうか。悪循環の根底に、今の時代オトナと呼ばれる人々の言動にかかっている。

まあそんな簡単にはいかないだろうが、気持ち的にはお願いだから…という気持ちである。頼むから、自分たちの事は自分で始末して欲しい。旅やキャンプの基本でもまさに同じであり、それができる事で初めて、自分の時間を楽しむ権利を得られるのだから。大人数で混雑していても、それぞれがちゃんとできれば、別に不快になる事はないのだから。

写真は通勤に使っているバス。キョロちゃん号はおいといて、今日は携帯のバス運行情報システムが障害だったらしく、10分以上遅れているのすらわからず、これもマイナス要素になってしまった。

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2005年07月28日

地面の太陽

日中、都心を移動するとジリジリとした日差しを感じる。まばらだがとある会社の建屋に流れ込む人の流れの中や、人込みの渋谷を早足で歩き抜ける一瞬の間にも、容赦なくその暑さは体に降りそそぐ。

この暑さは子供の頃、やはり同じように感じていたのだろうか。今の子供達はこの暑さの中で、やはり走り回っているのだろうか。病弱だった私でさえ、足踏み自動車で新宿の片隅を走り回ったり、ビルの裏にあるちょっとした庭で虫取りをしたり、駐車場の壁でキャッチボールをしたりしていた。

最近の子供はそうしている姿よりも、きっとゲームボーイなんかをいじくって冷房の効いた部屋にいる事の方が多いのだろう。それは暑さが昔よりも厳しくなった事にも理由があるのかもしれない。土が全てアスファルトにコーティングされ、あるのは街路樹の猫の額のような土しか表面に出ていない。

東京は大規模な公園が比較的多い。我が家から程近い所の戸山公園をはじめ、新宿御苑や代々木公園なども作られた緑かもしれないが、しっかりと土や雑草の芝生も顔を出している。それらが呼吸をし、雨を吸い取り、人が少なくなる夜に木々と共に空気を清浄してくれる。その機能が既にオーバーフローしているのではないか。

八重山や沖縄よりも、九州などの暑さの方が湿度が高く、私が訪れた時の経験からは、正直暑さを感じるような気がしている。しかしそれは九州という地にいるという事が、気分的にもそうさせているのかもしれない。それはそれで旅気分として悪いものではなく、逆に楽しめる事だ。

日本縦断の時は、沖縄の暑さにしてやられたが、北部では爽やかさを感じていた。特に北部の東海岸では、適度なワインディングと素朴な海岸線がすばらしく、R58が南北に貫く西側よりも、沖縄らしさを感じる事ができた。逆にコザから那覇あたりの米軍色が強く、それも沖縄らしさに感じたのだが、南部の糸満の漁港はやはり海人(うみんちゅ)の故郷であり、沖縄の漁業色が濃く、それもこの島の文化をしっかり感じさせてくれた。

九州は内陸に濃い森がある。特に椎葉や五木など、宮崎から熊本にかけての森はすばらしく、その森が沖縄を豊かにしてくれている。ひたすら曲がりくねり、バイクのタイヤのセンターよりもサイドが減っているのが九州のバイクなのではないかと思える程、これでもかと森の奥まで人の生活はあり、それを道は繋いでいる。

都心のように平野においては、はるか昔に人が住みはじめ、森があったのかもしれないが、その跡は殆どないだろう。人が集まりやすく、住みやすい平野は、水はけや交通の円滑な発展の為に、アスファルトやコンクリートにコーティングされる運命だったのかもしれないが、今そこに蓄熱され反射される暑さは、人々へストレスを与え続けている。

人は土がなくては生きていけない。これはまんざら大げさな言葉ではないような気がする。

写真は今はなき、指宿ユースホステル。沖縄から鹿児島港へ入り、九州上陸後、洗濯の為に宿泊した。そのチェックアウトの朝。この日、開聞岳を巡って、下川から根占へ鹿児島湾を渡る。

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2005年07月27日

もうひとつの目指す離島

通勤中にちょっと気にしているものがある。東京湾にオフィスが引っ越したあと、1週間の通勤の中で、火曜日や木曜日に埠頭に接岸している白い船の事だ。場所は芝浦埠頭から竹芝桟橋にかけてに、停泊している。

私としては有明埠頭から出る長距離フェリーの方が好きなのだが、この白い船は小笠原諸島に向かう航路。そう、伊豆大島、三宅島、八丈島のはるか先、潮の流れを越えた先にある南の楽園、小笠原は父島へ向かう船なのだ。

竹芝桟橋には、乗船する人が大勢ごった返している時があるのだが、殆どが最近人気のあるジェットフォイル。カラフルに船体が塗られた水中翼船で、2時間前後で伊豆諸島各島を結んでいる。名前はセブンアイランド。小型の船体が軽やかに海の上を滑る姿は、やはり目立つ。レインボーブリッジを抜け、東京湾アクアラインの脇を抜けていく姿は美しい。

しかしそれよりも美しい、というか旅心を誘うのは、やはり竹芝桟橋に接岸する船の中では一番大きい、おがさわら丸だ。私は数年前にこの船に乗り、父島に渡った。いわゆる2航海ではなく1航海のスケジュールで、GWにあわせて旅した。

小笠原に渡る前には、八重山に3度、渡っている事から、独特の島文化を少々期待していたのだが、実際は東京都の管轄である事や、日本に返還された37年前より前の歴史はそれこそ抹消されてしまっている事もあるのだろう、土建屋が目立ち、素朴な島の風景は殆ど見られない独特の世界だった。

逆にダイビングをする人の姿が目立ち、ダイビングしない私には旅行者は何しに来たのか謎だったようだ。実際ストレートにその疑問を投げかける人もいた。しかし私はこの島を走り、歩き、感じたい。それだけだったので、借りたのはレンタバイクだけ。母島にも渡り、少々期待していた北村跡までガタピシのスクーターで走った。
母島に渡る直前、私は酷い風邪の症状に見舞われた。どうやら熱が高いらしい。計る手だてがなかったが、どうも往路のおがさわら丸の中でうつされたか、熱は38度くらいは余裕であるような感じだった。暑いはずなのに寒い。母島の宿で到着後しばらく震えながらベッドで寝ていたが、無理をして予約していたレンタバイクに跨がり、北村を目指した。

アップダウンのある細い道の縦断道では、少しの坂で登らなくなり、足でこいだ。誰もいない北村跡の桟橋に立って、私はようやくここまで来たんだと感じた。東屋でしばらく休み、また戻る。その辛さといったらない。港近くの食堂でその土地のものなどまったくない、どうでもいいような食事を取り、1泊後翌日父島に戻った。

父島に向かう途中、ザトウクジラを船から見る事ができた。父島は大きく見え、そして天気は期間中ずっと晴れていた。青い海は確かに潜れば新しい世界が開けそうだったが、いろいろお金もかかる事なので、結局まだ未経験のままだ。このまま潜らない事をポリシーにしてもいいかと思える程だ。

小笠原はキャンプ禁止だ。全員が何らかの宿に泊まらなければならない。これも少々ひっかかる点だか、まあ仕方ない。当然宿が足らない訳で、乗ってきた船の個室の船室を、ホテルとしても使えるように営業していた。まあ商魂逞しい事と思えるものだったが、私は基本だと思える小笠原ユースホステルに期間中宿を取っていた。

ユースらしいミーティングもないが、食事も大した事はなかった。島寿司を2度食べたが、折角海のものが美味しいはずなのに、新鮮な海のものはまともに食べていない。何故だろう。

往復の船も、昔ながらの雑魚寝の船室だ。今この時代に個室との値段の差があまりにも激しい事もあって、事実上雑魚寝しか選べないという価格体系や、運輸サービスのメニューとしては正直最低だ。それこそ住んでいる人にとっては重要な生活航路なのにもかかわらず、この客への扱いはこれまで色々な船に乗ってきた経験者としても、航行時間からすれば拷問に近い。詰め込み方も半端ではなく、人の足が顔の前に来るような事もざらだ。

格段に早い新造船が就航する予定だったらしいが、それも採算がとれなくなり、計画の消滅が先日発表されていた。逆に自然保護やコンクリートだらけの島をもっと元の形に戻すような方向で、保護していけばどうだろうか。土建屋中心の時代は既に崩壊したはずだ。

また父島の中腹には、宇宙航空研究開発機構JAXAがある。種子島で打ち上げ、軌道をまわる衛星を追跡する事を行うようだが、見学はできなかった。初寝浦への階段を必至で昇り降りしたり、島の中をうろうろしたが、何だかちょっと私にとっては得るものはあまりなかったように思えた。

昔から小笠原が好きな人は、きっとまた違う小笠原を知っているのだろうか。アイランダーと呼ばれる島旅が好きな旅人にとって、小笠原は必須だ。鉄っちゃんにとって、重要な要素を持つ大東島もアイランダーの中では重要な場所だ。私はエセアイランダーなのだが、正直父島よりも母島、母島よりは八丈島の方が何だか島文化や島の生活の臭いがして、好きだ。

写真は私を載せて父島にやってきて、停泊期間中はホテルになっている「新おがさわら丸」。失望はしたものの、やはり父島に向かう船は、旅人としてはその存在感とこれから向かう先に、ちょっと惹かれるのだ。

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2005年07月26日

気圧と頭痛の関係

昨晩からちょっと頭痛が出て、早く寝てしまった。それでおさまるかと思いきや、今朝は朝から激しい頭痛。騙し騙し川崎の事業所へ向かう。

雨は朝から激しく降っていた。バスや電車はその時点では通常通りだったが、駅から建物までの間だけで、すっかり下半身はびしょ濡れになり、今日はチノではなくウールのパンツだったので何とかマシン室で自然乾燥。実は作業に必要なものをすっかり忘れていたのに気がつき、昼すぎには早々と帰宅する事にした。帰りは何とか雨がやんでいる時を見計らって帰る事ができた。

流石に台風だから南からの風が蒸し暑い。汗でボタンダウンシャツが気持ち悪い。バスで妙にエアコンが効いていて、一気に汗がひくが、体調にはよくない。頭痛がまた再発してしまった。今日2度目のバファリンプラス。
元々私は頭痛持ちで、これまでもCTやMRIで調べて貰ったりもしたが、理由はわからず。頭痛の専門医の先生と一昨年知り合い、先日まで診察を受けてきたが、結局の所この私の群発性頭痛というのは謎が多く、発生のメカニズムも解明されていないと聴く。ただ、その先生が処方してくれたひとつの方法である、ワソランという心臓の薬を頭痛の予防に役立てるというのは、これまでの治療で一番効果があったようだ。

この群発性頭痛の発生にはサイクルがあり、始まると週に2~3度あり、1回につき3~5時間、目玉の奥を某でかき回されているような激痛が続く。そして全体的に2~3か月断続的に続き、それをすぎると頭痛は起こらなくなる。このパターン以外にも、肩こりや寝不足、風邪ぎみから来る後頭部や側頭部の鈍い頭痛がある。

また、私の頭痛の場合、どんな頭痛薬も効かなかった。高価なクリアミンやイミグラン、テラナスを処方され、少し効いたのだが、ものによって吐き気などが出るので、困っていたが、実はバファリンプラスが効果があるのがわかり、それからというものの、バファリンプラスを常に持ち歩いている。喘息の薬などもあわせて、いろいろ持ちあるかなければならないのは困った体だ。

結局帰ってきて少し痛みがなくなるまで昼寝。まともに食事もとっていないが、これも少しは台風の影響があるのだろうか。外は断続的に土砂降りがあるのが窓に打ちつける雨音でわかる。

ちょっと仕事の方も滞っているので、なんとか明日は復帰したいが、最悪夏休み前に使いたくない年休になってしまう可能性がある。台風は今夜中に通過してしまうだろうか。今北海道を旅しているシェフが少し心配だ。来週からはもう一人友人が北海道に行く。やはりよい天気で旅するのが一番だから、天気に恵まれてほしいものだ。

少しだけ寝て目をさますと、19時をまわっていた。今日はダッチオーブンでローストビーフならぬローストポークを私が作るので、ぼーっとした頭で用意にかかった。

気圧が人の体に何らかの影響を与えるというのは、論理的に証明されていのだろうか。そういえば腰も少し痛む。困ったものだ。とりあえず買ってきたもろみ酢を飲んで、半身浴を心がけよう。

写真は色々な野菜と豚モモブロックをダッチでローストした夕食。ちょっと夕食には多い。

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2005年07月25日

台風接近

今シーズン初の上陸する勢いでの台風7号がやってきている。昨年は台風が大量に日本列島を通過していったのだが、今年はまだ台風は7号。昨年に比べて格段に少ない、というか昨年があまりに被害を呼ぶ台風が多かったという事でもあるのだが、今年は今の所、平年に近い状況ではないだろうか。

台風は日本の場合、夏旅する時には切っても切り離せない関係になる。長距離・中期間(1週間程度の旅行を指す)の旅では、結構な確率でひっかかってしまう。特に夏の北海道ツーリングで、運悪くぶつかってしまった時も少なくない。

台風を北海道で越えた時は数回あるのだが、丘の上で台風越えをしたのは、直撃というケースにおいては経験はない。反面、根室をかすめていった時や、日本海を抜けていった時はあるのだが、どちらにしてもテントは張りっぱなし。撤収しなければならない状況に追いやられた時は運よくない。

長い期間テント生活を送っている友人の中には、いろいろなケースを経験している。フレームを抜いて上に石などを起いて飛ばないようにして、町へ避難したとか、テントのフレームが折れたなども聴いた。飛ばされるケースは殆ど、通過後の南風や台風ではなく、武佐おろしなどの気圧の谷により強風が吹いた時の方が多いのは、やはり流石に台風というものがやってくると、警戒モードが高まるという事かもしれない。

なかしべつ温泉に全ての荷物をもって降りたとか、根室や弟子屈の宿を取って、ゆっくりと台風が抜けるのを待ったりなど、私は避難してきた。最近では中標津や弟子屈に友人も増え、迷惑をかえりみず声をかければ1泊くらいはさせて頂けそうな感じだが、まだ親しき友人の仲とはいえ、そこまで自分からお願いした事はない。

職場のある東京湾のお台場でも、何度も台風通過を経験した。高潮どころか、もともと海だったエリアに建物がたっている訳だから、とんでもなく台風の場合は危険だ。ゆりかもめという電車も停まったりおくれたりする事もある、明日はまず、何らかの影響が出るだろうが、私としては予定と横浜に変更したので、びしょ濡れになるかもしれないが帰宅難民にならないようにしてしまった。

今年の高気圧の張り具合は、今の所昨年のような勢力圏ではないようだ。これから旅シーズンに入る事もあるが、先日の地震など地盤に影響するのが地震のあとの台風や大雨だ。罪もない人が被害にあわないよう、できるだけおだやかに通過していって欲しい。

とはいえ、台風の持つパワーはとてもすごいものだ。これを体感できるというのは、なかなかワクワクする。濡れてもよい格好で、そのパワーを楽しむ事ができればいいのだが。避難ルートを確保した上で、どこまで耐えられるかテントの中で体験してみたい。テントは当然、MOSSで。

写真は台風近づく開陽台。フライのばたつく音と、風の音がテントの間を吹き抜ける。

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2005年07月24日

平凡な週末の幸せ

昨日の地震の話題が、今日も散歩仲間の会話に多かった。

由は阪神大震災を経験し、当時の職業の関係もあって、避難所になった学校や、親戚などへのライフラインとして休まずに働いていた。そんな中でインフルエンザにかかってしまったが、1晩で気合で直すなど、相当気が張っていたようだ。それはそうだろう、私も知らない大変な被災地での日々だったはずだ。今もその時の事はあまり語らない。

東京にやってきて、くーが来るまでは近所に知り合いは皆無だった。ただ旅の友人は東京に大勢いたのだが、昨日のような地震があると、近所に知り合いが沢山いる事は、とても心強い事がしみじみわかる。くーちゃんのママ、くーちゃんのパパと呼ばれているが、それはそれで心休まる時間だ。

地平線会議代表世話人の江本さんは、今もパートナーだったくるみちゃんと雪丸くんの突然いなくなってしまった事に、心を痛めている。何も力になれないが、きっと近所では犬仲間の中では、やっぱり犬仲間が心配しているのだろうと思う。私の近所でも、事故により亡くなってしまった犬の飼い主さんが悲しんでいる事を容易に想像でき、何も力にはなれないが一緒に心を痛めている。犬仲間というのは、とても凝縮したひとつのコミュニティであり、それがしっかり機能しているのがそれで証明できる。

地震や災害の時も、エレベータが停まっていたら一緒に行こうかと言い、親身になって心配してくれる。散歩先で遊んでいる時、雨が降ってきたりすると誰かが自宅から車を呼び、一緒に乗っていかないかという。こういう昔からあるような井戸端会議みたいなものが、しっかり現代も機能しているのは、犬仲間の形成する社会くらいなのではないかと思ったりする。

この土日は、朝寝坊し、遅い昼飯を食べ、ちょっと近所に買い物に出、夕方散歩に行って、1日が終わるという極めて平凡な「何もない1日」を繰り返してしまった。しかし、そういう日が積み重なって顔なじみが増え、近所でも笑顔でこんにちは、という話ができるようになる。

犬を飼うようになって、大変な事もある。気軽に家を空けられない事や、旅行に行きにくくなった事、食事をバランスよく与えないと空腹で吐いたり、太ったりしまう事、色々とお金がかかったりする事が、そして何より、怪我や病気で突発的に夜中に病院に行ったり気が気でなくなる事がこれまでなかった事だ。しかしそれ以上に大切なものを沢山くれた。

今、夕方に力一杯遊んできたくーは、大理石のボードの上ですやすやと寝ている。時折、白目を剥いて、足が空中を走っているように動かしたり、はたと目をさまし、伸びをしてまた同じ格好で眠ったり平和な時間を過ごしている。外では相性の悪い犬を牽制し、ボールを奪って走り回ったり、投げてと犬仲間の人の足元にボールをもっていき、しっぽを振って見上げていたりと、忙しく動きまわっている子なのだが、最近は家ではとてもおとなしい犬になってしまった。

寝坊と近所に買い物と犬の散歩だけの土日。案外、一番充実している休日なのかもしれない。

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2005年07月23日

涼しい午後に揺らぐ大地

久しぶりに過ごしやすい朝を迎えた。土曜の朝というのもあって、ゆっくりと朝寝坊をした。

夕方、くーを散歩に連れていく。だが雑誌「コーギースタイルVol.12」と「犬川柳・コーギーの逆襲」という本を買いに本屋と、広告に出ていた琉球もろみ酢を買いにマツモトキヨシに行く為、あとで公園で落ち合う事にして散歩隊とわかれ、私は自転車で駅前に行く。

駅前のビル3~5階に入っている本屋に入り、売り場が変わっていたので少々迷いながら目的の本をみつけた。本屋に来る回数が減ってしまったのだが、もともと活字好きなので用事がなくても本屋があれば入っていく、という事をしてきた。最近はネットでも買えたりするのも、目的の本を見つけるのが楽になった反面、ついでにとか、偶然面白そうな本に出会える事が減ってしまった。

その本の内容を少し確認していると、足元がズズズ、というように震えたように思えた。顔をあげると、まだ誰も私と同じように顔をあげているのはいなかったが、数秒後、大きい横揺れがあった。非常扉が勝手に閉まってしまい、大きな金属音が響いた。どよめく声がある中、レジの店員は気にはしているようだが接客の手をゆるめる事はなかった。私は立ち読みをやめ、早々にその本を手にレジで清算し、店を出た。

マツキヨに急いで寄り、自転車に鍵もかけずにさっさと目的のものを購入。その後全力疾走で自宅に戻る。家の中が何もなっていない事を確認し、テレビをつけ、地震情報を確認する。東京は震度4、埼玉、千葉、神奈川で震度5強であり、電車も相当な範囲で運行見合せされている事を知った。ついでの実家に電話をかけ、お袋の無事を確認する。実家は私も長年住んでいたが、新宿駅の近くで11階の高いフロアにある。ここは震度1に満たない地震も揺れを感じる程なので、相当揺れた事だろう。扉を開けっ放しにして様子をみている状況だった。

荷物をカメラセットに持ち替え、公園に向かうと、散歩仲間が沢山集まっていた。くーもその中に居たのだが、由達も公園にいたにもかかわらず、その大きな揺れを感じたそうだ。散歩仲間の中には、自宅のエレベータが停まっている人が何人もいたほどだった。

一昨年、北海道をツーリング中、あの平成15年十勝沖地震を道内で経験した事を思い出した。あの時は私は幌加内そばづくしの食事が出る朱鞠内湖畔に建つ宿のベッドの中だった。揺れは殆ど感じなかったのだが、明け方から携帯のメールが何通も届くので、目をさましてメールをみると、前日に美瑛の宿で一緒だった2人の友人からと、内地の友人からのものだった。

一緒に居た2人のうち、1人は美瑛に連泊。もう1人は釧路のビジネスホテルに泊まっていた。釧路は激しく揺れ、当時乗っていたBMW K1150RTのセンタースタンドがはずれ、壁によりかかっていたという。その時に擦れた事で、シートに穴が空いてしまっていた。美瑛の友人は無事だった。携帯もしばらくすると繋がりにくくなり、まだ早かったが起きてロビーにあるテレビを点け、あまりの地震の規模に愕然とした。

苫小牧港で石油タンクが大火災を起こし、各地でマンホールが高く隆起し、アスファルトは割れていた。これから小樽まで走らなければならないのが気がかりだが、道内に住んでいる友人も含めて心配になり、メールを送りまくった。

知り合いについては全員の無事が確認でき、私は朝食を取るとまだ雨の残る中、小樽へとアクセルを開けた。明けすぎて小樽市内に入った時、ウィンカーも点けずにいきなり曲がったトラックに軽く接触し、転倒してしまった。この話はまた別の時に書こうと思うが、なんとか私が走った朱鞠内から、昔から好きなルートである霧立峠を越えた先から、小平町に抜けるマイナールートを走り、あとは日本海オロロンラインを南下するルートは、地震の影響はまったくなかった。

小樽に昼すぎに到着し、ビジネスホテルがまだチェックインできない為、ロビーに荷物を置いて、風呂に入りに行った。しかし転倒の関係で両足が痛く、歩くのが大変だった。途中、店の中のテレビで黒煙と炎をあげる石油タンクが写っていたので、まだ鎮火していないらしい。大変な事故だ。苫小牧港も閉鎖されているようだが、明日小樽港から北海道を離れる私としては、正直苫小牧ルートにしなくてよかったと思っていた。

地震に出会う確率は、日本列島の中で、どこにその時居るかによるものであり、いわゆる運だ。震源に近い場所に居れば、極めて危険な目にあう。由も、神戸に住んでいる頃にあの阪神大震災を経験した。タンスや下駄箱が倒れ、容易に外に出られなかったようだ。おまけにその後、由は長い間避難所になる学校でボランティアをしたり、被災地の大変さを誰よりもよく分かっている。私はせいぜい東京で震度5を経験した位なので、今日のような地震以上のものを知らない。

写真は小樽で転倒後、痛い足をひきずりつつ、昼食を食べたとっぴー小樽店の前。この時もまだ、苫小牧では大火災が続いていた。

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2005年07月22日

霧のまん中、霧の向こう側

出勤の朝、家を出ると、予報では涼しいといっていたわりには、湿度と気温が高い。昼間はこの調子だと暑くなるだろうと思われた。薄曇りの早朝の町を、最前列に私が座ったバスが走る。山手線の円を少しずれながら横切るルートなのだが、細い道をくねくねと曲がり、停留所で人と乗降を繰り返す。7時丁度に終点に着いた。バスはここから車庫まで折り返し運転を行う。

今日でとりあえず一週間は終わり。明日から2日休みだと思うと、嬉しくて週で一番力が入る。いつからだろうか、ここまで金曜が他の曜日より好きになったのは。正直言って、自分がいつまでこの会社に勤めて仕事をしていけるか分からない。こう思いながら、何年も続いているのだが、正直な所自分でこの先の保証ができない。

バスの終点で、タイヤのついた電車のような乗り物に乗り換える。朝から結構人が乗っているが、この時間帯は皆仕事に向かう為の人ばかりだ。しかし、明日からは乗車する客層がガラっと変わる。そう、夏休みになるからだ。既にフジテレビ周辺ではイベントのテントや施設が沢山できている。通勤に影響が出るのはもっぱら帰りなのだが、電車の中はまるで遊園地のお猿の電車。治外法権状態になる。

とりあえず朝はラッシュになる事もなく、確率から言っても50%以上は座れるのだが、今朝は席が空いていたにもかかわらず、座らずに窓際で立ちながら眺めていた。

大きな橋を渡る前に、フジテレビや船の科学館がぼんやりと霧の中にシルエットを浮かべ、東京湾も船が白濁した空間に浮かんでいるような不思議な景色だ。晴れた日はそれこそ木更津方面の房総半島だけでなく、東京湾を横断するアクアラインの陸橋や、換気口である風の塔が海から生えているのが見える。今日はそれどころか、羽田空港のもっと手前から、すっかり霧で見えない。

こうしてみると、都会でもいろいろな天気に出くわす。明らかに土が露出している地面が減り、アスファルトやコンクリートに包まれた建造物が立ち並び、高層ビルが増えると同時に、空調の室外機から大量の熱気が吐き出される。それでも当然なのだが雨や雪、張れや曇りがある。ただ、昔と違って朝晩の冷え込みは都会にはない。少しばかり郊外なら、朝晩の空気の澄み方は明らかに感じられるのだが、都会のよどんだ空気の朝は、いつまでたっても慣れる事はない。喘息の喉はここ最近、妙に気道が狭くなっている。

そんな中、霧の日は、なぜかちょっとだけ気分が落ち着く。それはやはり、ずっと先が見えず、ささやかだが広がりが感じられるからだろう。乳白色に溶け込む風景は、その先に何があるかを隠してくれる。それがよい事なのか悪い事なのかはわからないが、見えない事が気持ちの持ち方を換えてくれる事もある。

霧の中、バイクや車を走らせる事も多々あったが、かつて知ったる道であっても、場所であっても、その奇妙な浮遊感と不安感、そしてちょっとしたワクワク感があった。霧雨でシールドを何度も左手の人指し指でワイパーよろしく何度も拭う事や、レインウェアを着ないとすっかりびしょ濡れになってしまう事はやっかいなのだが、後先考えずにその場所だけの事を考えれば、実はそんなに嫌いじゃなかったりする。

写真は濃霧の狩勝峠。北海道では夏には珍しくないのだが、視界が悪い事で、危険度も高まる。長距離トラックも多く、それこそ路肩のホワイトラインと、センターにあるイエローラインだけが、自分が今ルート上に居る事を証明してくれる。進んでいるのか、戻っているのかもわからない。

それもまた旅なのかもしれない。

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2005年07月21日

シーズンイン

7月8日には塾長、そして今日はシェフが丘にあがった。皆15年以上前から、この丘にあがり、ひとときの自分だけの時間を楽しんできている友人だ。そして、私もその一人。知り合いにならなかった旅人の中にも、大勢この丘に何度もあがり、自分だけの時間を楽しんでいた事だろう。

同じ時期に天幕を張ったからといって、会話を交わす事は極めて稀だ。よほど近くに張っているか、偶然話をするタイミングがあったか、ハイジーのカウンターに同じ時間座っていたかなどの条件が揃わないとなかなか相手が何者かなどはわかるものではない。ましてや、私もそうだったが、知り合いになるまでは何年かかかる事もある。

私によんきちという呼び名がついたのは、開陽台に通うようになって4年目。それまではそっと天幕を張って、近くにいた旅人と一緒に摩周湖で泳いだりしていた。2年目に偶然にも妙に気があったのがしいたけ兄だった。ビッグシングルのホンダとヤマハというバイクという事もあり、仲良くなって、丘を降りたあと霧多布岬で落ち合い、バンガローでまた語り明かしたという事が、その翌々年に再会した時にキャンパーネーム頂く事に繋がった。

97年に発売された、アウトライダーの別冊北海道で、スージーさんとねぎさんにインタビューされた時に、お気に入りの場所と、お気に入りの仲間に逢う為に、開陽台に行くという事を言った。つまる所は、景色と人の為に、旅をするという事。うまく伝えられなかったのだが、どちらが欠けてもだめなものである。ただ人に逢いに行くのではなく、そしてただその場所に行くだけなのではない。そこに行くと、誰かがいる。そしてあの風景があるから行くのだという事なのだ。

94年に大きく変貌した開陽台は、確かに当時ショックだった。ハイジーの閉店の夜、氷点下の風が吹く中、建設中の建築現場に入り込み、積んである健在をどれほど恨んだ事か。そして風の音だけの中、一人仰向けに寝ころがり、いつもと変わらぬ星空がそこにあった時にあふれた涙も、忘れる事はできない。

多くの友人が、まだあの展望台を許す事ができていない。その気持ちはよく分かる。私も新しくなった開陽台に初めてあがった時、誰もテントを張っていなかったのに、一番手という気持ちにならず、すごすごと丘を降りた時、二度とここには来ないかもしれないと感じた程だ。たかだか北海道のある場所がリニューアルしただけなのに、なんでこんな気持ちになるのか、きっと殆どの人は分からないだろうと思う。

その1か月後、今開陽台の星空の下にいるシェフが、「やっぱりここはいい所だよ」という一言を私に言った。それがきっかけになり、あまり気が向かなかったが、とりあえず一度、天幕を張ろうと決心し、あらためて丘に向かった。あとでどうするか考えればいいじゃないか。そう思いつつ。

馬の背を越えると、どうみても違和感のある巨大な建造物が、武佐様の姿を汚しているように見えた。停まらずにトイレ横の側道を一気にあがる。少々やけ気味に、アクセルをワイドに開けると、MT21が轍をほじくった。少しづつ視界が開けてくると同時に、アクセルを戻しながらサイトをみると、そこには自分がこだわっていたものを振り切る姿があった。それは、しいたけ兄のテントだった。

その夏、じみおと、レイ、そして今は亡きリュウの姿だった。

丘の時間が戻ってきた。リュウはいないけど、今年もその夏はまた繰り返しやってくるはずだ。

私にとって、21年目になる今年の開陽台の夏がやってきた。

写真はその94年の夏、変わってしまった開陽台にこれからあがり、テントを張ろうと決心したが、そのままストレートにあがる事ができずに、遠回りしたり写真を取ったりした時の自分。

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2005年07月20日

海の日はロプノールの如く

海の日は7月20日だと決まっていると思っていたが、いつの間にか7月の第3月曜になってしまっていた。なので今年は18日となり、既に終了しているのだが、私の中では今日が海の日だ。

実は7月20日は私と由の結婚記念日。既に8年経った頃になる。何だかあっという間だった。あれからそんなに時間が経ったのかと思う程、自分の中で何かが変わった訳ではない。仕事が嫌なのも変っていないし、バイクでツーリングもしている。違った所は、くーという家族が増え、少々中年太りと言ってもいいような運動不足体型になってきてしまっている。

この8年、色々な事があった。中でも、親しい人を2人も亡くしたのは悔いても悔やまれる。8年前の今日の写真やビデオには、みんな笑顔でその姿を見せてくれるのだが、時間というのはある意味冷酷に過ぎるもので、もう戻る事はできない。それをしっかりと認めた上で、それぞれはそれぞれの歳月を重ねる。

逆にこの8年で由とも小さい喧嘩程度はしたが、仲良く暮らしている。子供はいないが、くーというおてんば娘が今日も世話を焼かせる。しかし、それ以上に私たちに笑顔をくれるのは確かなようだし、くーが来る前だって、ネパールやタイ、雲南や台湾などの海外から、八重山や北海道など、各地も旅してきた。あっという間に過ぎてしまったように思える。

私たちは8年前の海の日、北海道の某丘の上で結婚式の真似事をした。お世話になっている現地の母がわりの女性や、その旦那さん、娘さんがバックアップしてくれて、本物の牧師さんまで登場。新聞社の取材や、町の観光課がパンフレットに使いたいと送り込んできたカメラマンもやってきた。集まってくれた旅仲間の為に、顔写真が勝手に使われないように、はっきりとわからない写真を撮ってくれと頼んだ所、そのカメラマンが約束を守ってくれた。しかし、新聞の地方紙一面には、すっかり私たちの顔がわかるような写真が掲載されてしまったのだが…

私たちが挙式した丘では、これまで私の知っている限りでは2組、先輩がいる。どちらも今でも親しくさせて貰っている旅仲間だ。同じく近くの湖畔の旅仲間も3組、結婚式をあげた。普通の結婚式場で挙げた友人も居たが、圧倒的に野外で友人たちだけでの挙式が多いのが、私の友人達がどういう人種なのかちょっとわかる点だろう。

海の日の2日前に丘にあがり、1週間程丘で過ごした。お互いの両親を呼び、一緒に飛行機を使う友人のエアチケットの予約を一括で取ったり、ホテルをリザーブしたり、式の披露宴と翌日のお昼の食事をシェフに頼んで本格的な料理を作って貰ったりはしたのだが、式については適当に近いの言葉みたいなものを丘にある鐘の下で言って、あとは宴会に突入というカンジで極めて大雑把に考えていたのだった。

しかし私たちが知らぬ間に、牧師さんは呼ばれるは、式次第はできあがるは、進行や司会まで決まっていて、私たちは言われるままに動き、お礼を言いまくっていたのを思い出す事ができる。総勢45人の友人が、この時期としてはありえない暑さの丘の上に、集まってくれた事を感謝した。私たちのいい加減な呼びかけに集まってくれた仲間は、あの夏の日、頭のてっぺんを虫にさされながら、確かに一緒に丘の上に居たのだ。

この夏、新しく増えた家族を連れて、丘にあがる予定だ。時代は変わり、旅人の世代も交代したのかもしれない。しかし、自分がこだわった旅の先に、ひとつの証として、1997年7月20日があった。それが海の日だ。

そのいい加減な二人がみんなに出した、日付と場所だけしか書いていない招待状。流石にぼかしを入れるが、こんな葉書がいきなり届いた友人達へ。あの丘の上の暑い日、お騒がせして申し訳ない。8年が経ったが、あんまり人間変っていないようだよ。これからも青空や星空のしたで、下らない話をしよう。

海の日の日付は変わっても、我々の中では海の日は確かにあり、彷徨うロプノール湖のようにしっかりとした痕跡が今も消えないで残っているのだから。

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2005年07月19日

ワクチンの日

くーの病院の為、ちょっと早めに会社を抜け、いつもの病院まで車を走らせた。

大抵は土日に病院に行くのだが、平日の方が空いている事が多く、また週末は私がいつもゆっくりしたい事もあって、平日に行きたかった。丁度、骨折後の指の状態を確認したのが2か月前ほどになる。その状態によっては、くーはこれから競技に出られるか出られなくなるかが決まるといっても過言ではない。

最近はすっかり右足もガスガス着き、走り回れるようになってきた。とはいえ、指はテーピングされている。家の中でも、走り回るようになってきた。とはいえ、いつまた何かにひっかけるかわからない事から、本格的に投げ物での遊びは控えている。

こうしてみるとあらためて犬の足は無防備だと感じる。やわらかい肉球や開く指を、何にひっかけるかわからない。事実ガラスや針金で足を怪我し、血が止まらなくなってしまいあわてて病院に担ぎ込まれた犬も1匹や2匹ではない。日中はこの季節、高温に灼けたアスファルトは、犬にとって火傷必至だ。しかし散歩にいかねばならず、最近は日が暮れる頃、多くの散歩組が薄暗い公園の一角に現れる。

公園や公道にもちょっとした突起や指がはまるサイズの溝が平気であったりする訳で、そこにうっかり足をはめてしまい、ひねりが入ったあたりで簡単に骨なんかが折れてしまうような怖さを感じている。くーが骨折するまではそんな事気にもしていなかったのだが、それはそうだ、犬は素足なのだ。

病院はとても混んでいた。トータルで2時間もかかってしまい、駐車場代が800円もかかってしまった。丁度散歩仲間の方が来られていて、時間としてはそんなに退屈しなかったが、くーが落ち着かず、ずっとドタバタしていた。そして何とかくーの番になり、まずは健康診断。目から耳、心音、関節などを調べて貰い、歯石や耳の臭いに至るまで健康というお墨付きを頂いた。先月狂犬病の注射を打ったので、今日は混合ワクチンを打って貰う。

狂犬病にしても、今国内で発症している例はなく、この予防注射を義務化している事に納得がいかず、受けていない人も居るのは確かだ。事実この予防注射を打つ事で、体調を崩してしまう犬も少なくない。また混合ワクチンにしても、最近は7種8種が殆どの時代になった。これも曲者で、多ければより予防ができるというのは確かだが、これが原因でやはり体調を崩す犬は、狂犬病の注射よりも多い。犬にとっては相当なストレスになる。

フロントラインなどのダニ薬についても、予防と思われるような事が書かれていて誤解する人も多いが、決して予防になる訳ではない事など、ペットフードの原材料のいい加減な記載についても含めて、きわめていい加減に表現されている事がまだまだ現実に多い。

くーは最小限のワクチンでよいと今年から判断し、5種とした。前回は注射を打ったあと、妙におとなしくなってだるそうにしていたのだが、今日は比較的元気だ。やはりワクチンを打った日は安静なのが普通だが、犬も何だか体の具合について感じるらしく、あまり動かなくなってしまう。それが軽ければ、自分から進んで動こうとするわけだからひとつのバローメーターだ。

ワクチンを打ち、レントゲンを撮り、結果の診断を受ける事は既に1時間半を過ぎていたが、先生は横の角度から見る骨の具合はまだ気になる所があるので、もうしばらくは激しい運動は避けるようにいう事だった。とはいえ、確実に前の骨の形に戻ってきている骨は確かに確認できる為、よいですね、と一言言ってくれた。どうせ夏は暑くて運動どころではないので、秋くらいから本格的にトレーニングが開始できそうだという状況になってきた事で、由も胸をなで下ろしている。

一時期は、しっかり骨がつかなければ、激しいスポーツはこれから難しいという事も先生から言われた為、くー自身が大好きなフリスビーアジリティやエクストリームが一生できなくなるという事がショックだった。それは犬の一生で一番好きな事ができなくなってしまう事で、邪気のない犬が、無条件に嬉しい笑顔を見せてくれる遊びができなくなるというのはあまりにも可哀相な事でもある。何とかならないものかと、とにかく完治させる事だけを最優先としてきた事が漸く、先が見えてきたという所だ。

あと少し頑張ろうと、くーを連れて病院をあとにした。帰り際に突然思い出し、おっとさん邸に向かい、以前お願いしていた敷布団を頂く。ついでにカシミアの毛布も頂いてしまう。不良在庫とはいえ、申し訳ない。手ぶらで行ってしまったので、今度何かプレゼントを持って行こうと思う。夢織もともよちゃんも元気そうだった。久しぶりに逢ったのだが、いつもそうだがそれまでも年に1度しか会わなかったりする仲間なので、「やあ」「
じゃあまた」という挨拶。本当の友人というものは、そういうものなのだろうと思う。

くーは今、漸くおとなしくなり、大理石ボードの上ですやすやと寝てしまった。明日も注射の関係で、散歩は少しだけだぞ。写真はまな板の上の鯉ならぬ、先生に検診を受けている最中のくー。

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2005年07月18日

みんな大好き赤肉メロン

毎夏、北海道へのツーリングをすると、一番喜ばれるお土産はメロンである。蟹やイクラもあるのだが、やはり現地で採れたてを食べる事以上においしく食べる事はできない。しかしメロンなら、まあ比較的時期をみて食べる事ができる。

他にも六花亭やロイズのチョコレートなんかもあるのだが、どちらにしてもクール便で送る事になり、送料がかかってしまう。それに、どちらも内地で買おうと思えば買えない事はなく、それほどありがたみも感じないといった所だろうか。

ただ私の旅のシーズンは大抵、8月お盆すぎ。その為メロンのシーズンはすっかり終わっており、あまりよいものが手に入らないだけでなく、高めになってしまう。旅先でA-COOPやスーパーをみつけて入り、適当なダンボールの箱を頂いて、個別に送る。それが一番安上がりになる。

ただ買うメロンは地元の人が買うものだ。夕張メロンのようにブランド化し、1つ数千円するようなものは最初から眼中にない。大抵が500~700円前後の中玉サイズ、1.2kg~1.6kgがターゲットだ。とはいえ、ここ最近はずれが多い。

昨年は富良野メロンを友人に頼んだ。一昨年は中標津の友人に訓子府メロンを頼んだ。どちらも最高な美味しさまではいかず、そこそこの味だったが、これもなかなか大当たりになるのは難しい。ずっと前、旭川のCOOPで買ったiKメロンが大当たりだった。翌年の深川メロンとの価格差は大きかったが、安い方が大当たりだった事もある。また、上富良野のスーパーで買った半身100円の赤肉メロンも美味しかった。なかなか難しいものだ。

最近は夕張に立ち寄る事が増え、町中でメロンを売っているのもみかけた。しかしはなっから夕張メロンは高いというイメージがあったり、観光客に対して売るものも相場より高めというのは確かだろう。美味しくて安いメロンがあれば、毎年そこを利用したいという気持ちになるのだが、なかなか安定してくれない。元々毎年できが違う農作物なのだから、仕方がないのだろうが、贈り物にする為に品質はある程度の水準を保ちたい。

今年もそろそろシーズンだ。いつも由のご両親には、母の日も父の日も誕生日も失礼しているので、必ずメロンを贈るようにしている。メロンは大好物で、かつ北海道の赤肉メロンの美味しさはよくご存じなのだ。だが今年も夏の終わりに旅をする予定なので、程度のよいメロンが手に入りそうもない。とりあえずネットで探して夕張メロンの個撰で格段に安いのをみつけたので、これを贈ろうと思う。

価格は毎年スーパーで買うメロンのクール便の送料含めた分より少し割高になってしまうが、それにしてもそんなに大きな差はない。反面、甘くておいしいメロンであれば、万々歳だ。ただ自分の家用にも欲しいので、今他のも探している。最悪私が訪れる8月末に、スーパーで安いのを探そうかとも思っている。

写真は8月前半、中標津の東武に山積みになっている赤肉メロン。こういうのを自分でさわって選び、適当なダンボールを用意して貰って贈るのが毎年のパターンである。

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2005年07月17日

都会に住むという事

エアコンのドライを稼働させながら寝ていると、眠る事はできるが喉がおかしくなる。またドライでも明け方結構体が冷えている事もあって、体がだるくなる。今年もそういうシーズンが始まったようだ。

今の我が家は小規模なマンションなのだが、メゾネットで2階部分と3階部分がある。私が家を出たのはまだ10年前程度なのだが、実はその時、世間知らずな私は、売りに出ていた新大久保駅近くの1LDKの新築マンションを1度見にいっただけでいきなり購入したのだった。

そのマンションには結果的に1年しか住まなかった。引っ越しの案内を出して、友人を色々呼んだりして新しい生活を楽しんだのだが、大きな問題があったからだ。それは騒音。6階建ての5階部分だったが、とにかく上の階の住人の歩く音が気になる程響いた。

販売会社や施工会社を呼んで、実際に音を聴いて貰ってもらちがあかず、上の階の住人は一切聞く耳もたずで、紛争状態になり、私はすっかりノイローゼになってしまった。そして住みだして半年もたたずに実家に舞い戻ってしまった。最近のマンションの騒音対策の甘さにしてやられた、とでも言うのだろうか。最近はフローリングが殆どで、足音が響き気味になっている。そして建物の高さの限界一杯にフロアを増やす為、屋根裏や床下の防音対策が犠牲にされる事になり、壁も含めた間接音の伝わり方は、昔よりも悪化しているのではないかと思う。反面、直接音はコンクリートスラブやサッシにより減っている。

引っ越して、バイク用に駐車場も借りたのだが、すぐに引っ越し先を探す事になってしまった。同時に予定にもなかった結婚も同時に進んでしまう事になり、新大久保の家を実家の管理をしている不動産屋経由で売りに出したのだが、これがまたなかなか売れない。しかし、丁度そのマンションの前の部屋に住んでいる方が親切に、知り合いの不動産屋を紹介してくださり、そこに一度相談しにいくと、売れなかった不動産屋よりも高く、あっという間に買い手をみつけてくれた。

広告で目をつけた新しい住まいはこれから施工する為に、更地にモデルルームが作られている所だった。そこは16世帯の小さなマンションだったが、玄関は完全に独立し、各部屋に階段のあるメゾネットタイプ。私が狙ったのは、もう階下はこりごりなので、上の階の角部屋だった。先着順だったそのマンションの発売日は土曜だったが、月曜の朝から便利屋をネットで探して頼み、なんとか希望の部屋の順番を確保する事ができた。

順番取りで泊る事も想定し、会社も休むつもりだったが、発売5日前に全ての上のフロアが決まってしまい、販売会社側も流石に近隣に迷惑だったり、並んで貰う人の健康状態の事も考え、整理券を配る事になり、夜は家で寝る事ができた。何とか無事に発売日を迎え、2番目に小さい部屋だったが、2LDKの角部屋、2階と3階部分のメゾネット型のマンションをめでたく、あらためて買う事になった。

前のマンションのローンがまだ清算されていなかった事もあり、銀行まわりをして資金繰りに相当苦労したのだが、無事に前のマンションの売買契約も済み、今のマンションの支払いだけになった。当時は賃貸にすべきか、また頭金を何とか大目に用意するかなど、胃の痛い日々を送ったのだが、なんとか普通の家賃よりも少ない月々の支払いで住む事ができ、それももう8年目を迎えている。支払いはまだ随分残っているのだが、毎月支払う分や賞与時の支払い、固定資産税を含めても、賃貸より大した差はない。結果的に支払った分が自分の資産になる事を考えて、私は買う方を選んだのだ。

マンションは昔ながらの下宿屋に囲まれており、となりにちょっと大きめの建物が建っている事から、風の流れがちょっとよくない。部屋は北向きで、南側はマンションの通路になっている事もあって、あまり日当たりはよくない。ただどの部屋よりも視界はよく、ベランダもルーフバルコニー型だが2つあり、小さいながらも洗濯物を干したり、くーをベランダで日光浴させる事ができた。

困っているのは、階下からや近くのアパートからくるたばこの煙。ちょっと気候がよくなると、いずこの家も窓を開けたくなる訳で、当然喫煙している煙が外に出て、やってくる。すると私のような敏感な体の持ち主は窓を閉めざるを得なくなる。そうするとエアコンを使わなくてはならなくなるのだが、こんな事で苦労しなければならないのも都会生活者の悲しい所だ。

3階部分にある寝室では流石にそこまで煙があがってくる事はないのだが、今度は100m位先に建っているビルの空調の室外機が耳障りな音をたてている為、窓を開け放つと耳鳴りのような音がずっとしている状況になる。季節がよい時期になると、斜め前にある下宿屋の屋根の上にある、レトロな物干し台に学生があがってきて話をしている事もあり、なかなか気が休まらない。

私のような性格の者が都会に住んでいる事が問題なのだと思うようにしているのだが、別に普通に必要な空気を吸って、誰にも迷惑をかけるような事もしていないつもりなのだが、逆に自分が困る境遇には毎日のように出会う。理不尽だとは思いつつ、どうにもなるものではない。これは都会に住まなくてもある事だろう。

エアコンによって、何とか生活ができているといっても間違いではない。働き者の空気清浄機はその分、ずっと稼働している。呼吸器に問題がある人間にとっては、どこに住もうと変わらないのかもしれないが、例えば北海道とかで広大な土地の中のまん中に家を建てれば、そういう事もなくなるだろうなんて考えてしまう私は、根本的に人との共同生活に向いていないのかもしれない…困ったものだ。

写真はそのマンションのパティオと言われる通路。ちょっとした戸建て感覚で見た目はとてもお洒落にできている。しかし収納は殆どなく、施工業者の手抜きで問題も多く、デザイン重視なものだ。

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2005年07月16日

誕生日の過ごし方

実をいうと、今日は私の誕生日だったりする。その誕生日はいつも華やかに…なんてことはまったくなく、朝っぱらから都内の某大学病院で肺機能検査をしていたりする。この文章もその待合室で打っている。

肺機能検査は、公害手帳を持っている私としては、毎年その審査の為にも受けている。この巨大病院では、6歳から小児喘息の治療の為に通っている訳で、最近検査してないね、という事もあり、2年ぶりに受ける事になった。あいかわらず「吐いて吐いて吐いて~グっと吸って~」と何だか怪しい声をはりあげながら、機械の前で肩をいからせるのであった。

ざっとその結果をみると、2年前よりあきらかにデータが悪い。今の職場のせいとしか思えない。このデータを持ってしても、会社は何もしてくれるものでもないだろうが、健康管理室に行っても、ISO14001を推進している人事においても、大変だねと同情してくれるだけなのが関の山だ。

今は2か月に1度の通院になっているが、高校生位までは毎週通っていた。夜中に苦しくなって車で点滴を打ちにいった事も数えきれない程ある。社会人になってから、仕事の環境とスケジュールで肺炎になった時も、発作がひどく死ぬかもしれないと、それまで喘息で死ぬなんて思わなかった私も、心配になって会社にも行けず入院もできず、家で鬱状態になった事もあった。その後、最近かもしれないが、喘息で命を落とす人も少なくないと知って、いままであまりにも長く喘息と付き合ってきた自分の無知さ加減に笑ってしまった程だ。

鼻が悪く、喉がベタついたり、何か詰まっているような感覚や、最初の声がでない、痰がからむというような症状が常にある私は、正直職場とかでも騒がしいと思われているのだろう。申し訳ないが、それは自分でもどうしようもない事で、できるだけ気をつけているつもりなのだが、やはり迷惑をかけている事もあると思う。既に小児喘息から慢性の気管支喘息というような病名で公に認定されてしまっているのだが、みためは健康そのものらしく、職場でも別段特別に見られる事もないようだ。

おまけにバイクに乗っていたり、激しいスポーツのモトクロスまがいの事、日本各地や海外への旅、キャンプなどをしている事はそれなりに知られているので、まさかそんな病気を持っているように思われないのも仕方がない事だろう。

既に年齢を隠していても仕方ないが、私は今年本厄の辰年。厄払いもしていないが、何とか乗り切りたい。気にしていないのでこれからも厄払いにいくつもりもないのだが、何か自分が納得できるような効果や意味があれば、素直にそれを認めて受けるだろう。

今日から3連休。別にこれといった変わった事はするつもりはないが、病院に帰り際に由にケーキと昼飯を小田急ハルクに寄って買っていこうと思う。あと余裕があれば、ニュークイックで久しぶりにラフテー用の豚バラブロックでも買っていこうか。帰ったら、油抜きをし、ラフテーを作る。そんな普段と変わらない1日になるだろう。

写真はその喘息君。頑張ってネパールでトレッキングをしてみたある日の朝の図。ダンプスの宿の朝。
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2005年07月15日

大いなる自然とエゴ

知床が自然世界遺産登録されたらしい。漸くというか、やっとというのか、正直そのような話が出てから随分たっているような気がする。

知床横断道路ができた時や、五湖から先のカムイワッカに交通規制がかかった時も、もう遅いんじゃないかと思った位だ。ただ実際には道がなく、気楽に足を踏み入れられないエリアは半島の半分もあるのも事実で、周辺の海洋も含むエリアを自然遺産にする事で、今の時代を生きる私たちが、今後世に残す事ができる大事な事だと思っていた。

ただ、羅臼側は漁業が発達している。道路も昔から漁の町である相泊までのびており、地図をみてもその存在は違和感があるが、観光施設はほとんど皆無といっていい。町が財政難といっても、これまで観光に力を入れなくても運営されてきた。漁師の中には中標津で遊ぶ為に別荘を借りたり豊かな暮らしをしている人もいると聞く。過疎にならず、これまで経済水準も維持できたのは、その豊富な自然と海からの恵みがなくては無理だろう。その恩恵は、豊かな森があり、川が流れ、そしてアムール川河口からの流氷が運んできてくれる。人間はその恩恵に授かり、網でさらって自分だけのお金にするが、町や周辺産業とのギャップは明らかだろう。

例えば四国では漁師が森を作っているという。植林をし、海に流れ込む川の水に豊富な栄養分を与え、魚を育て、それを漁師が初めて恩恵を授かる。ただそこにいる魚を取るだけでなく、農民が畑を耕し、育て、最後にそれを収穫するように、漁で生きる人がそれをよくわかった上で、何をすべきかを考えて実践している。すばらしい事だと思う。

羅臼には熊の湯という有名な露天風呂がある。何度か訪れた事があるのだが、しっかりと女湯と男湯がわかれ、川沿いにある気持ちのよい温泉だ。国道を挟んでキャンプ場もあって、シーズンには多くの旅人が利用する。反面、漁師や地元の人も多く利用しているよい温泉だ。

過去、何度かその地元の漁師と自称する人に、乱暴な事を言われた事が何度かある。それがいい加減うんざりになって、通りすぎるようになって久しいが、要は地元としても熊の湯は自慢のできるよい温泉であり、それは利用する旅人にとってもよくわかっていた。しかし、いわゆるヌシのように振る舞う事は、郷里を愛する心とは違う。単なるエゴとしか思えない。事実そういう目にあったのは、広い北海道の中ではここだけだから。

インタビューで答える漁師は、殆どトドが大事か人間が大事かといったり、世界遺産で漁に影響が出て、生活できなくなるという。世界遺産というのは、そういう次元ではないはずだ。実際鹿が増えすぎていて、木々に害が出ている事も毎年のように聴かれる。トドにしても増えすぎの場合は困るだろうが、漁師が絶滅危惧種に対して、人が大事か、獣が大事かという事を平然と主張する事は私は理解できない。ではうむも言わさず一網打尽にされるカラフトマスやサケの立場はどうなるのだろう。サケマス孵化場などはあるが、いくばくかのお金を払っているだけで満足しているのではないだろうか。

私は農業に関係する勉強をしていた事があるが、それは農業というのは土地を切り開き、耕し、種を蒔き、育て、収穫し、食べるまたは現金にするというサイクルがとても自然に感じたからだ。とはいえ、森を全て切り開き、畑にする事がよいかというと、またそれは別問題だ。漁業は先に描いた四国の人々の例を除き、取るだけなのが自分にはどうしてもひっかかってしまう。

私自身はそういうひっかかる点を感じている反面、素直に今回の知床の自然遺産認可を喜んでいる。岬へ歩いて到達した旅人は、友人でも多くいるが、そのルートがあまりに多くの人が入った為、しっかり道になってしまっていると聴いた。人が足を常に踏み入れる場合は、そこに道は必ずできてしまう。

そして中には行程の厳しさからゴミや残飯を捨てたり、自然を敬う気持ちが薄れてしまうだろう。知床くらい自然が濃いエリアなら、少し位破壊してもすぐに一冬越えれば気がつかない位に復活してしまうだろうが、それが毎年続くと、そうはいかないだろう。

大事に思うなら、いかない事だ。だが、行きたくなるのは人間の心理でもわかる。その葛藤がある分にはまだ救われるが、人間の都合だけで、自然や生き物を殺したりする事はどう考えてもおかしいという事に全ての人が気づいてほしい。しかし、自然を守る為や維持する為に、間引いたりする事は程度問題で必要だと思っている。例えばカラスは駆除すべきだとか、鹿の増えすぎには何らかの方法でバランスを保つ事が必要だ。

カラフトマスにしても、イクラだけを取って、その他を投げ捨てるような行為は軽蔑するが、事実そういう輩もいるようだ。同じ人間として、残念としか言いようがない。普通に釣りが好きで、自分が食べる分だけを釣ったりするには、釣り人の人口比率から言っても、何ら問題はないだろう。組織的とか、商売として接する所で、欲がそうさせてしまうのではないか。

写真はペキンノ鼻まで船で行き、魚釣りをする常宿の客がつり上げたカラフトマス。一番上がオスで、下がメス。私は単にこの場所に行ってみたかっただけなので、同行しただけで釣りはしなかった。単ペキンノ鼻が望めるちょっとした小高い岬の上で、半日ぼーっと鬱蒼とした知床の森をみているだけで、ワクワクしていた。

ペキンノ鼻は昔、ひかりごけという小説であった事件があった場所だ。この場所なら、昔本で読んだこの出来事があってもおかしくないと思えた。

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2005年07月14日

世代を越えた永遠のレンズ

スチール一眼レフを手放す少し前、私とおない歳のカメラを手に入れた。会社の同僚が、クラッシックカメラでかつ、レンジファインダーのカメラを手に入れて、日々スナップ撮影にいそしんでいたのが本格的に興味を持った理由だ。

また旅の親しい友人が、私が興味を持っていたカメラと同じタイプを持っており、ちょっと教えてとメール出した途端、参考資料が数冊、どっと送られてきてしまった。それまで欲しいけど自分が買える訳がないと思い込んでいたのだが、ふと中古カメラ屋の相場をみていると、少々高めではあるが買えない額ではない事が分かってしまった。それが運の尽きだとも言う。

そのカメラはライカだ。このブログでも最初の頃に、バースディ・ライカの事を取り上げたのだが、今回はそのカメラに必要なレンズの話を中心にしてみたい。

ライカのレンズは今のようにコンピュータ研磨で、寸分たがわぬ仕上げが行われている訳ではない。殆どが職人の手による仕上げが行われ、それはレンズ以外の筐体や部品に至るまで、ドイツのクラフトマンシップが惜しげもなく投入されている芸術品とも言えた。

友人にドイツの車メーカーに務める友人がいるのだが、一般的に言われる外国製の車とはやはり一線を介している。「ドイツ製」はひとつの保証であり、アイデンティティでもある。単なる品質の良さだけで説明がつくものではなかった。それは出来の良さと細部に至るまでのこだわりのバランスが高次元で保たれている。そしてかの有名なBMWのモーターサイクルは、そのオーナーの多さからも、ある程度バイクに乗ってきたものがたどり着くひとつの結果のようなものが感じられる。

ただ、本当にその良さを分かって使っている人はどれだけいるかわからない。私自身にしても、本当の良さが分かっているかというと、自分では証明もできない。その、ライカに対して、だ。

ライカは、現在も新品を手に入れる事ができる。しかし、代表的なタイプがバルナック型からM型に切り替わった頃。1950年代後半にデビューした形が、今もなおベースにして作り続けられている。その完成度の高さは世界のカメラ業界やカメラマンが震え上がった。コストを無視した品質の高さで、最初にして最高のモデル、M3のデビューから40年以上たっている今でも、そのメカニズムはしっかりと機能し、今でも日本にはクラッシックカメラをリペアしてくれる職人が、何とかクラッシックカメラユーザを支えている。

最初にボディを買ったあと、定番と言える沈胴式のズミクロン50mm