2006年07月31日

ロッキーの荷室改造2

ロッキーの改造の先輩に、露月さんが居る。彼のロッキーは凄く、あの狭い車内をうまく改造し、まず確実に不可能と思われた車中泊が可能なようになっている。先日の北海道旅行では2人で車中泊をしたというから、これは想像を絶する。

我が家のテーマは、次のような項目。

・キャンプ用品を、くーが載っていても出入可能とする。
・積み上げるのではなく階層化して効率よく収容する。
・年数回の法事時、母親が載れるよう折畳収容を可能とする。

折り紙で案を作り、パタパタと折り畳んでシートを戻した際の荷物室に収容できるように考えたい。そのため、少々犠牲になる部分は仕方がないと思うが、リアシートユニットをまるごと取り外すような事はしたくない。ただ、リアシート用のシートベルトユニットは、ボルトオンなので取り外すという感じだろうか。

そしてもしもできる事なら、体調が悪い時などに、体を真横にできるように工夫する事。露月さんのようにできればそれに越したことはないが、我が家の条件としては上のような無理な話もある訳で、これはできればという事とする。まずはあまり重要視しない。

そんなこんなで、日曜の午後は工作時間になった。由がノコギリを持って張り切っている。今回購入したパーツは以下のもの。これを加工してどんなものが作れるだろうか。

・91cm x 40cm x 1.4cm の集成材4枚
・91cm x 4cm x 1.5cm の集成材2本
・小さい蝶番と暑さ1.4cmの材を貫通しないネジ類
・固定とスペーサーに使える木ネジとナットセット

実際に制作手順はこんな感じだった。

1.大きい板2枚は天板として、蝶番4箇所で繋ぎ、折り畳める事とする。
2.フラットに開いた状態で、左右下部に板の足を蝶番で立つよう装着。
3.足は大きい板を2分割して使う。その為高さは91cmの半分、45.5cm。
4.足4枚は全て内側に畳み込める構造になる為、コの字型に立つ状態。
5.コの字状で板がない為、倒れ込んでしまう下部にはつっかえ棒を渡す。
6.つっかえ棒は木ネジ等で、棒が前後にズレないよう打ち込むだけ。

こんな感じで、左右はタイヤハウス(タイヤハウス間は約90cmなのでピッタリ)、奥は畳んで立てたリアシートが差し込まれるような形(畳んだリアシートの高さは48cm程、左右は90cm程)で強度不足を補う事になる。ただ、リアシートを車体にロックする部分の金属レバーが邪魔なので、天板に逃げの穴を空けた。

そして実際に装着してみると、結構安定してくれた。サイドの壁(リアの窓)部分へ、隙間が大きくできるので、この部分にあうように板と足を渡さなければだめかと思っていたが、まあこれでも充分に、天板の上にくー入りのクレートを載せられる事がわかり、とりあえずほっとした。

実際に畳んでみると、足の部分が長くなるので、きっちりと折り込めない事以外では、結構コンパクトに収納できるのが判った。丁寧に扱わないと、蝶番が外れてしまう可能性もあるので、慎重に扱うが、まあそこそこ強度も保てたように思える。

ただ高さが収納された椅子にかかるようにあわせて作った為、ちょっと足らず、下の段に収容できるキャンプ用品に工夫が必要になりそうだった。新たに新調した大会や練習用のリラックスできる椅子や、仮眠の為完全に横になれるベッド(コット)の収容場所にちょっと工夫が必要だ。

クーラーも入るのだが、水タンクが今のままだと入らない。食料品を買い込んだりちょっと出したりする為にも、くーのクレートの横に置く事で、水タンクも下に積めるだろう。クレートの反対側には、私のカメラバックやちょっとした小物のトートバック、ディスク(フリスビー)が入っている籠なども載る。

とりあえずはこんな感じでいいかなといった所までできた。あとは天板のない左右の空間に、どう同じ高さで板を渡すか。これはちょっと考えたい。今のままでもいいのだが、フラット化し、助手席に板を渡してその上で横になれるようにする為には、あった方が色々便利だからだ。

強度もそんなにある訳ではない。慎重に使うのは当然だが、使ってみてもうちょっとサイズを変更したり、接続部分の工夫などもあわせて考えていけば、ロッキーでもまだまだ快適に積載できる事を証明できるかと思った。

今年で11年目。走行距離は4万5千程度だが、色々な所にもガタがきている。でもこの車をずっと使っていきたいと思う。由のワンオーナー車でもあり、何より気に入っている車だから。

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2006年07月30日

ロッキーの荷室改造1

昨日、土曜の事だが、今週末は母親が我が家に来るというので、親孝行の為にアジ練習は休憩。私もちょっと休憩したかったので丁度よいと思い、土曜の来訪予定の午後まで、ユニクロに行ったり、マルエツに買い物に行ったりとずっと動いていた。

そして、母親がまた体調を少し崩したので実家に来てくれという電話があり、仕方なく実家に車で向おうとしたのだが、ふとそれなら中野の島忠まで、先週ちょっと家族会議になった、ロッキーの積載室改造を進めようという事になり、急遽荷物室のサイズをはかり、大まかに作っておいた図面にあわせて、どのような部品を買っていいかを考え、帰り際に実家に寄るという計画で、まずは島忠へ。

結構混んでいたが、駐車場にはスムースに入れた。くーは時間が勿体ないので、留守番させているので、さっさと材木売り場へ。そして、大きめの板4枚と棒本、そして蝶番やビスなどを買い込んだ。

そして実家に寄るが、我が実家の前は例の違法駐車重点チェック地区なので、すっかり今では違法駐車車両はいなくなっていた。その分ちょっと母親の所に顔を出したり、届けものをする時にとても困る。母親が具合が悪い日も、車で病院に連れていく時など、迎えに行く事すらできない。こういうのは本末転倒ではないかと思いつつも、今回も私が車に残り、由に母親に所にちょっと行ってもらう。

しかしちょっとハザードをつけて停まっている5分ほどの間に、通過するパトカーに睨みつけらた回数3回。このあたり10分の駐車料金300円。最も近い駐車場まで徒歩3分。すぐに600円位になってしまう訳で、これは非常に困る。まあそれを理由に実家にあまり行かなくて済む訳なのだが、それよりも私の兄の方が大変だ。トラックで仕事中にちょっと伝票などをやりとりするのにその値段なんか払っていられない。困った制度だ。

そんなこんなで帰って来たのは17時近く。ずっと動いていた土曜日だった。御殿場に行かなくても結局動いているのでは、あまり休んだ週末とはいえなくなってしまった。

写真は改造前のロッキーの荷室。リアシートを畳んだ状態で、いかに荷物を効率よく積めるか。そう、これまではリアシートを使える状態にして、その上にくーのクレートを置いていたのだが、狭い駐車場でくーを出し入れする時も厳しいし、御殿場にテント泊する事も増えてくるようなので、効率よい積載ができないものかと考えていたのだった。

さて、どうなる事やら。

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2006年07月29日

コーギースタイルVol.15

先日、AJPCの週末、日曜にコーギースタイルの取材が入っており、土曜だけ参加して日曜は朝から辰巳出版のスタッフの方を待ち、色々な撮影や取材をした。

かれこれくーを飼ってから、コーギースタイルに載ったのは4回目。他にもいぬのきもちという本にも載った事があるのだが、親バカというのか、我が愛犬がかわいく雑誌に載るのは嬉しい。それもコーギースタイルはなかなか雑誌として好きな編集をしているので、余計に嬉しい。

今回はマンションで犬を飼うというテーマで、どのようにうまく生活しているかという内容で、見開きのうち2/3分がくーに割いてもらった。そこには私も由も露出していて、ちょっと恥ずかしいのだが、内容はなかなかよくできていた。さすがコギスタ。

ただいつか、グラビアのようにどこか山や湖や川で、思いっきりくーを使った写真を載せて欲しいと、バカな親は思うのだった。そうすれば、別冊のこぎせんにも載れるかもしれない。なんて叶わぬ事を思ったりする。そう、これまでは投稿が1回で、今回の自宅取材の他、残り2回はどちらも辰巳出版のスタジオで撮影された記事だったからだ。くーは思いっきり野外で走るのが一番似合っているとバカ親は思う。

しかし前日にアジ大会に参加ではなくて、ディスク大会の間違いというのがあった。前日は先に書いた通り、ディスク大会で朝霧アリーナに行っていたのだった。たいした間違いじゃないのでどうでもいいのだが…。

コーギースタイルVol.15現在発売中!

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2006年07月28日

人間ドックの結果

人間ドックの結果が出た。勤務している会社では、満40歳からそれまで職場でやっていた健康診断から、系列病院で行う半日の簡易ドックになる。そしてそれが今度で2度目になる。

この中でバリウムを飲むのが一番うっとうしい。すぐにX線の機械に乗って、機械が動くのは最小限で、その台の上で何度も寝返りを打たされる。何の為に回転する機械なのかわからないが、そうしているうちに腹が圧迫されてガスが出てしまい、再度顆粒の発泡剤を飲むはめになってしまった。

今回、問診でちょっと気になる事を聞いてみた。ごくたまに、胸が痛む時があるという事だ。別に良心が痛むとかそういうのではなく、いわゆるギュっと締めつけられるような痛みを感じる事があったからだ。中でも由が居る時、確か休日の午後だったと思うが、2~3分かそこらそれが続き、あ、これはヤバイと思って横になった事があったのだった。ちょっとだけ痛いとか、同じような症状が10秒か20秒くらい出る時はあったのだが、ちょっと心配になった。

ネットで見てみると、いわゆる狭心症とか心筋梗塞とか、怖い病名が羅列されているが、短時間でかつたまに出るものならそんなに問題はないと言う。私は普段も携帯を胸ポケットに入れるのが好きではないのだが、確かに最近は携帯が大きくなってネックストラップでぶら下げており、胸ポケットに納める事も多くなっているのだが、それも原因だろうか。でもそんな事言ったらもっと大勢が同じ症状になるだろう。

ドックの結果が出て、追加検査項目には、「心臓超音波検査」と「ホルター心電図」と書かれていた。まだ再検査の通知は来ていないが、近いうちこれらの検査をすることになるようだ。

その他はちょっと太り気味という事と、尿酸値が高めである事以外は、特に大きな問題はなさそうだ。体重は何とかしないといけないとずっと思っているが、今の仕事をしているうちは無理かもしれないと思ったりする。

何にしても年齢相応に色々体にガタがきているようだ。まだ早いと思えるものもあるのだが、現代人はこんなものかもしれない。もっと運動をしたいが、運動をすれば持病の発作が起きたりと、悪循環。そう思いながらも、ウォーキングの距離を見直そうと思う今日この頃だったりする。

写真はスリムで締まっている体つきのくー。ころっとしたコーギーもかわいいのだが、くーは昔からこんな感じだ。飼い主の不健康さが問題だ。

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2006年07月27日

由の携帯

私の携帯を先日F902iSに機種変更し、それからというものの、パケホーダイを適用して、JATICの渋滞情報などは携帯で確認できるようになった。情報量としてはまだ完璧ではないが、わざわざパソコンを出して、ブートし、AirEDGEで繋いでウェブをみる、という行為は少し減る事になった。

逆にパケホーダイを適用している事から、ガンガン使わないと損だ。しかしここ数日充電用のACアダプタを忘れてしまい、帰りのバスの運行情報をみる為にも、あまり日中にアクセスはできなくなってしまった。予備のバッテリを1本か、ACアダプタを会社に1つ置いておこうと思う。

さて私の携帯はこれまでのmovaからFOMAになった。由は普段、携帯は不携帯なヒトなので、散歩にいく時も携帯に電話すると家で寂しく鳴るだけ。私は何かあった時のために、携帯だけでも持って歩いてくれと言っているのだが、面倒らしい。デジカメの方は結構持ち歩いているようなのだが…

実はこの携帯、開発をしている友人が、まだ製品化される前に我が家に持ってきてみせてくれていた。正直な所、SH902iSの方がデザインの面とかでは魅力があったのだが、長年携帯を検証しているその友人が、今度のはまあまあだよ、と言ってくれた言葉と、やはり何かあった時にメーカーの友人がいると心強い事から、F505iからF902iSへの機種変更を決めたのだった。そしてその私が機種交換する予定の端末を由にみせたのだが、大きい、重い、デザイン面でどうの、という批評で、由の携帯の機種変更を見送った。

私としては操作面で同じ機種の方が、由の携帯の代理入力や初期設定などが楽な事から、一緒に機種変更しようと提案していたのだが、由はなんせデザイン重視。私は機能重視のクチなのだが、ここのあたりのギャップが埋まらない。来年発売予定の新型をターゲットに、今使っているP251iSをそのまま使うという事になった。

しかし私のF902iSが来てから、そんなに悪くないと言い出したのだ。まあ実物をじっくり操作してみないとわからないのは判るが、私は結構ネット通販とかでも本体を見ないで買ってしまう。そんなこんなで、一緒に買えば早かったのだが、追加で注文する事になり、それがやっと今日やってきたのだった。

色はゴールド。音楽再生機能は使わないとは思うが、3MBピクセルの手振れ防止機能付デジカメはちょっとした撮影に充分使える。パケホーダイは適用しないと思うが、同じ機種というメリットは大きいはずだと思っている。バッテリやACアダプタの共用などは、旅行時に装備を減らせるし、流用もできるのだから。

折角FOMAにしたのだが、それなりに活用してほしいと思うのだが…どうだろうか。

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2006年07月26日

蚤の季節

先々週の3連休に秘密の旅行をしてきた我が家だが、その後、くーが痒がる事があって、不審に思っていた。そして、とうとうくーの体に蚤を発見してしまった。

毎年この時期、多くて5匹くらいの蚤を見つけては、蚤ブラシでくーを徹底的にチェックするという出来事があるのだが、今回はそれどことではなかった。おなかの部分に噛まれたような赤いあとが数カ所あったり、そこを後ろ足で掻いて血が滲んでいるような状況になっていたりと、飼い主が気がついた時には既に遅かった。3日間でトータル10匹を発見し、全て中性洗剤の水たまりに沈んで貰った。あまりに沢山の蚤が発見されたので、普段はあまり使いたくないフロントラインをとうとう使う事になってしまった。

今年は春先にダニに耳の中で食いつかれていたり、蚤に噛まれたりとくーにとっては散々なのだが、それだけダニや蚤がいるような場所に出掛けているのだから仕方がないとも言える。できるだけブラッシングして、フロントラインを使わずに済むようにしていたのだが、もうここまでくると卵を生まれていたりしたら取り返しがつかないので、使った。

このじめじめした梅雨はまだ暫く続きそうだ。梅雨が明けたら明けたで、湿度が高く、暑い夏がやってくる。同時に蚊も含めてバイ菌を媒介する害虫が沢山その活動を活発化させる。座敷犬ではなく、運動する犬なのだから、仕方がない。その分体力をつけて、予防やケアをしっかりしなければならないという事からすれば、あとは飼い主の責任だ。

くーがそれらの害虫に刺されないようにしたい所だが、完全に防御はできない。週末のセミナー会場でも、蚊がうっとうしくくーの耳のあたりを旋回しているようなのを見てしまうと、そこに放置させられなくなってしまうのは、心配性な私だからかもしれない。ちゃんとフィラリアの薬はあげているのだから大丈夫だとは思うのだが…

あげくに私の体には今ざっと数えても10箇所以上蚊に刺されたあとがある。かゆくて全ての刺された跡からは血が滲んでいる始末だ。蚊の対策ももっと考えていかなければならない。最近電池で動かすポータブルな蚊とり線香があるようなのだが、効くのだろうかと思ってしまいつつ、きっと買って試してしまう私の姿が目に浮かぶ。

屋外で安心して走り回れるように、よい対策を考えねば。

写真は元気に屋外で走り回るくー。犬という生き物は、草むらとか路肩の汚い茂みとかに入りたがる。そんな時に蚤にパラサイトされるのだろう。

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2006年07月25日

御殿場セミナー3

土曜のセミナーが終了し、日が暮れてきた。テントを張り、風呂の用意をして、くーをクレートに入れ、コーチ以下他のメンバーはココちゃんのお母さんのワゴンに乗り合わせ、まずはヘルシーパーク裾野へ。ここは裾野でNDAの大会が行われる予定だった時、周囲で一番安くてよさげな温泉だったのでチェックしていた。思いの外御殿場フィールドから近かった。

近代的な建物だが、3時間500円というなかなか納得の価格。昨年11月、和琴ミーティングを裾野で行った時、丁度朝霧アリーナで私がディスク競技デビューをした時は、競技後朝霧の天母の湯に入ってきたが、ここも3時間500円だった。ここ以外は700円以上で、週末は900円以上にもなる。風呂にそこまでお金を払いたくないケチな我が家も納得の値段で嬉しかった。

コーチとウィルパさんと一緒に風呂に入るが、長湯ができない私は早々に体を洗い、結構混雑している露天も星が見えない事もあって早めにあがってしまった。女性陣は思いの外ゆっくりと風呂に入り、皆が揃った所で夕食の買い出しの為にマックスバリュへ。

静岡でキャンプの時、温泉に入ってマックスバリュで買い物というと、定番なのだろうか。富士川でのキャンプの時もそうだった。大規模スーパーがあると、割り安で嬉しい。しかし今回は私はスタイルが分からない事もあるし、調理機材を殆ど持ってきていないので、恥ずかしながら全てお任せのスタンスになってしまった。

新鮮な牛乳を貰ってきているので、2割引の豚バラブロックでクリームシチューを作る事になり、女性陣が中心となって食材を揃えていく。キャンプの時に女性が率先してメニューを決めていくなんて、凄く久しぶりに見た気がする。私たちのスタイルであれば、食事は男がメインに作る。その分いい加減なのだが、それで過ごしているのそれはそれでいいのだろう。

真っ暗なフィールドに戻り、バーベキュー台に濡れてしまった木や割った竹で火を起こし、豪華な料理を作って貰った。私は本当に何もしないで申し訳なく思いつつ、ぽつんとくーの横に座っていた。何度もこの御殿場フィールドに来ているのだが、今回はどうも蚊が多い。体中刺されてしまったので、くーのまわりに飛んでいる蚊の事が気になり、食事がある程度すんだ所で、くーを連れてテントの中に戻ってしまった。すると一気に眠くなり、湿気でじめじめするテントの中がちょっと不快だったが、浅い眠りに落ちてしまった。しばらくして、由がテントに戻って来て、由もそのまま着の身着のままでシュラフにもぐり込んで寝てしまった。

夜半雨音が激しくなり、予報通りの天気になった。朝早めにあがってくれたらいいのにと思いながらまた眠りに落ちる。くーはクレートの前でへそ天になって寝ていた。

テントの外が明るくなった頃、本格的に目が醒めた。まだフライを叩く雨音がする。くーが私の気配を察知し、由の寝ている体の向こうからこちらを覗いているのが見えた。「オイデ」と言うと、すぐに由を乗り越えてやってきて、私と由の間でまたひっくり返る。

今日の午前のセミナーに参加する人が、雨の中到着した音がした。少しづつ声が聞こえてきたので、我が家も起床。今回時計を車の中に置いてきてしまったので時間が分からないが、7時頃だろうか。朝食と昨日の残りの牛乳でココアを作って皆で頂く。てっきり我が家はこのまま片づけて帰るものだと思っていたが、由は午前のセミナーのミーティングに参加し、午前だけ走ると言い出した。まあもうどうにでもなれという気持ちもあって、私はその間にちょっと雨があがった隙をみつけ、テントを撤収。この天気なら乾く事はないので、水を少し弾いて片づけた。フィールド内には濃霧が立ち込めていた。

大まかに撤収できるように車に載せていくのだが、なんせ中途半端なパッキングだったので、なかなか整理がつかない。狭い車の後部座席で汗だくになりながら、とりあえずなんとかおさめ、さあセミナーだと思った途端、今度は雨が本降りになってしまった。他の参加者は皆レインウェアを着ての練習なのに、由だけはTシャツとジャージ下だけで走り回っている。

風邪をひかれたらたまらないので、レインウェアを出してやったのだが、暑いから着ないと言う。人の事よりもこれでは倒れそうなので、折角片づけた鞄からレインウェアを出して着るが、もうすっかり濡れてしまっていた。練習中の待機場所では雨なのに蚊がやたら多く、20匹位つぶしたにも関わらず、次から次へと攻撃される状況だった。

そんな過酷な状況の中、皆元気に走りまわっていた。雨が降ろうがお構いなしに皆、練習している姿は、正直驚く。犬と遊ぶならその位しないと、という感じだろうか。私にとっては正直、辛いのは避けたいという軟弱な気分だったので、やはり実際に走っていない分、モチベーションが不足しているのだろうかとも感じたりする。

皆濡れながら犬と一緒に走る。そして、私には余裕がなかったが、由もくーもこの状況下で色々な事を学んだようだった。やはり走れば走る程、得るものも大きいものなのだろう。この午前のクールに参加した事で、由とくーはその分着実に一歩前に進んだようだ。私としても自分が辛い反面、それを喜んでいた。

そして練習も終わり、片づけを進め、お昼を皆で作って食べようと言った頃から、またあの頭痛がやってきてしまった。練習が終わったという安堵感からだったのだろうか、狭くじめじめしたロッキーの助手席で、頓服を飲んで一人のたうちまわっていた。くーは頭の後ろで濡れた手が気になるのかゴソゴソしていたが、私はもう何もできない状況だったので、濡れた靴を脱ぐ事もせず、とにかく痛みが治まるのをじっと丸まって待つしかなかった。

1時間半程経った頃、由がうどんを持ってきてくれた。頭痛はほんの少しおさまりつつあったので、ニンニクの効いたうどんは食欲を沸かせてくれた。噛むと頭に響くので、ゆっくりと時間をかけて食べ、又まるまって寝た。こういう時に体が伸ばせない車を呪った。

漸く頭痛がおちついてきた。時間をみるともう3時半。しっかり2日間ここに居た事になる。しかしまだぼーっとしているので、動けない。そして解散になったようで、椅子の積み方だけは私しか分からないので一旦外に出て積載。そして丁度コーチが自分の犬たちを運動させていたので、途中から退席した事へのお詫びをさえない顔のまました。コーチは逆に心配してくださったが、私としては手伝えなかった事がとても気になっていた。その後運転はできそうだったが、由がするというので私は助手席に収まり、セミナー会場をあとにした。

御殿場市内は濃い霧の中に沈んでおり、R246も大渋滞だったので、裏道で御殿場ICまでまわり、東名へ。途中大和トンネル付近での事故渋滞の影響があり、16km程渋滞にひっかかったが、由の運転でも日のあるうちに自宅に帰りつく事ができた。今回は例の頭痛が出て、とどめを刺されたというか、正直へとへとになってしまった。体力が足らなさ過ぎるのは判っているが、すぐにどうにもなるものではないのも判っている。辛い所だ。

まわりにできるだけ迷惑をかけずにしたいのだが、頭痛が始まってしまうとどうにもならないという自分がちょっと口惜しい。頭痛シーズンに入ってしまったのかもしれないが、セミナーの間くらいは治まっていてほしい。

写真はその御殿場フィールドへのアプローチ。このダートの先に、犬たちのパラダイスがある。

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2006年07月24日

御殿場セミナー2

土曜もお昼になり、先輩ののんきさんが夜の為にテントを張りだした。私はというと、パソコンで天気チェック。明日にかけて、あまり天気はよくない。確実に夜には降られ、明日もお昼ころに少し雨はやむかもしれないが、朝晩は雨という感じだ。私としては、あまり気が進まなかったのだが、由は皆と一緒に1泊したいという気持ちが強まっているようなので、夕方にもう一度考えよう。

午後のセミナーに参加する為、これまた先輩のウィル君の所が午前セミナーの途中にやってきていた。コーチが近所の牧場に絞りたての牛乳を貰う話しをつけていたので、午後のセミナー開始前にロッキーで取りに行く。すると、なんとフィールドの入り口に何だかみたような看板が。横浜のバイククラブチームが、どうやら裏にあるキャンプ場でサマーキャンプを行っているようだ。そういえば朝から断続的にハーレーや集合管の音が森の向こうで聞こえていたのはこのせいだったのかと理解した。

午後のセミナーが始まった。少しづつ高度になっていくコース。私も写真を撮りにうろつくが、くーがハードルをまだ落とす事が多いので、それを直す為また走り回り、結構疲れる。ただくーは少しづつハードルを飛ぶ時のタイミングが変わってきているようで、滞空時間が長くなるような動きが少しづつ見えてきた。まあはなっから飛ぶタイミングが遅くてハードルに胸からぶつかったりする事もあるので、まだまだなのだが…

先輩たちは殆どが1度以上でCR(クリーンラン)を出せるチーム。我が家はまだ先日の西湖のBOPで、1等辞退でのギリギリのCRで優勝しただけのチーム。当然、経験の量が違う訳で、まだまだ由とくーがうまくリズムをつかめない。日々その為にこうしてセミナーに参加しているのだから当然なのだが、今はとにかく走る事で経験を積む時期なのだ。

ただまず絶対に無理だと思っていたような先行スイッチ、呼び戻しなどができるようになってきた事に、何よりも由や私が驚く。くーはどんどんと由の指示に従うという事を覚えていっているようだ。そしてその通り走る事の喜びも感じているのだろうか。

大きな課題だったシーソーとスラロームも今回からコースに取り込まれた。シーソーはやはりまだコンタクトゾーンでのシーソーの反動が怖いらしく、飛び下りてしまう。しかしディスクで誘う事で半分以上、コンタクトゾーンに足がついている状態でシーソーをクリアする事ができるようになってきた。これも重ねて練習をしていく事になる。

スラロームも由はまだ早いと思っているようだが、私からすればもうひとつの壁を超えていると思っていた。折角コースに取り込んで貰っているのに、パスする姿をみて「ちゃんとできるんだから通りなさい」と言うと、コーチも「できるならちゃんと通りなさい」と由に指示。スラ抜けはあったが、3回目位にしっかり最後まで通る事ができて、皆さんに拍手を貰った。問題はくーが「スルー」というコマンドで、スラロームの1本目の左手から入り、最後までスラをこなすという事をどう覚えさすかだと思っている。今は、先に行きたくてパスしてしまうのだが、楽しくスラロームをさせるように教えてやらなければならない。

くーは由と一緒に、セミナー参加を重ねるごとに、課題をマスターしていくように思える。当然、ひとつマスターすれば次に新しい課題が出てくる訳で、コースのレイアウトもそうだが、まずは全ての障害の通り方をマスターしなければならない。今まさにとりあえず形だけだが、全ての障害を経験した事になった。

今後はこれらの障害を、確実にこなせるように練習を重ねていく。そしてコースレイアウトによって、由のハンドリングテクニックを磨いていく事で、くーにそれが伝われば、CRという目指すテーマに近づいていく。

アジはコースが1パターンではない。これが毎回変わる訳で、毎回応用が必要になる。単純な競技ではなく、いかにハンドラーと犬が通じているかが、結果に反映するスポーツなのだから。どんなベテランでもミスはある。それだけ、コースが複雑になっている訳で、奥が深い。だからこそ、一歩一歩が大事だ。

由はこの1日で色々な事を今回も学び、もっと皆と話がしたいと言い、明日はどうも雨だが、テント泊を決めた。

写真はスラを嬉しそうに抜けるくーと、ハンドラーの由。

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2006年07月23日

御殿場セミナー1

昨日の土曜から御殿場へ。何でもセミナーの知人が数名、テント泊で土日を過ごすらしいので、我が家も一応テント泊できる装備を用意し、積んでいく事にした。由が泊まりたいと言えば、泊まろうかとは思うが、天気次第というのもある。

予報では土曜は何とか天気が持ちそうだが、日曜の未明と夕方は雨っぽい。ただ用法もこの時期はころころ変わるので、土曜の夜に検討してもよいかと思い、一応パソコンも持っていく事にした。

いつもより少々遅めに出発。荷物が多いので、積み込みに時間がかかってしまった。くーの居場所が狭くなってしまったので、本格的に積載方法を考えなければならない時期にきているようだ。最小限のキャンプ用品は、テント泊用のテント、マット、シュラフ位なもので、照明とガスストーブを1個だけ。コッフェルすら持たないという装備だった。大方の予想通り、現場であれがない、これがないと慌てるようになってしまう。普段のバイクに積載するキャンプ用品の方が、何でもできるように考えられている分、充実しているという事になってしまう。

少々車の量が多く、御殿場に着いたのは7時。足柄SAのロッテリアがいい加減我慢ならない味なので、高速を降りてマックの朝食にした。7時からロイヤルホストも開店するのだが、コスト高だし、私としては24h営業の吉野屋やすき屋でいいのだが、由がパン食なので却下されてしまった。

マックも随分マシになり、サラダや野菜ジュースなども揃えてあって、そこそこ使えるようになった。ただ100円マックが朝はないので、朝の割高なバリューセットで朝食。外は小雨が降っていて、道は濡れている。

その後いつものセブンイレブンで昼食を購入し、フィールドへ。ダルメシアンのヒメちゃんとレディちゃんを連れたのんきさんの車と、コーチの車が停まっていた。よくみると、コーチが外の椅子で寝ている。いつからこうしているのだろう。凄い人だ。

車を停め、くーをトイレの為に出すと、嬉しそうに草を食んでいる。まるで放牧したようだ。広い所にくるとくーはとても嬉しそうに徘徊する。本人はここがアジのフィールドだという事がもう判っているようで、2時間程度車に閉じ込められていても平気なようだ。

しばらくすると二人も起きて、また今日の参加者もやってきた。朝食を食べながらいつものようにスロースタート。2時間位ゆっくりしてから、漸くセミナーの開始だ。ここではゆっくり時間が流れるのだが、練習をしている間は結構ハードなだけに、あっという間に午前のクールが終わる。お昼にはまた3時間近くかけて食事をして片づけをし、昼寝をする時間もあるので、午後のクールが終わる頃は結構な時間になっているというパターン。

午前中は少々蒸し暑かったが、風が吹くと涼しい。気温は22度から24度あたりだったようだ。朝晩は20度前後という感じで、湿度も相まって犬たちにも運動するには丁度よい感じになる。ただ日差しが出たり、風が停まるとたまらない。東京はこの日も30度前後まで上がったようだ。

毎回由もくーも難しいシュチュエイションに対応できるようになっていく。失敗も多いが、くーも由の指示を待つようになってきているように感じる。反面、判りにくい指示だとくーは不満を吠えて表す。由は検分後1走目を大事にするようになってきた。くーは今だにスタートが我慢できず、セミナー最初の1走はもうまるでハトヤのCFのように、由の腕から抜け出して目の前にあるハードルを自由に飛んだり戻ったり。体が言うことをきかず、一刻でも早く障害を飛びたいという気持ちで大暴れ。そしてあげくにスタート前にハードルを落とし、それを治す為にどんどん時間が押されていくという悪循環。

くーは本当にディスクでもそうだが、血が騒ぐとでもいうのだろうか、ハードルやトンネルをみるとじっとしていられないようだ。生まれついてのものなのだろうが、このテンションを求めているハンドラーの人も多いというのも、最近よく判ってきた。我が家はパピークラスの頃からこの調子だったくーしか知らない訳で、やはりもっと早くにアジをすべきだったのかもしれないとたまに思う。

今日も由の全力疾走と大声が御殿場フィールドにこだました。

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2006年07月22日

群発性頭痛再発その2

長い事頭痛に悩まされてきた私は、心療内科に通いはじめた。まあそこでいわゆる軽い鬱というか、仕事や職場が起因する、自立神経失調症と診断されるのだが、そのストレスに起因しているのもあるのではないかと言われた。当然確証はないものの、私の性格からは、充分些細な普段の生活の中からストレスを感じ、それにより体に異常が起こるような事はこれまでもあった。果たしてそれは頭痛も同じなのか。

心療内科はピンキリであり、会社が併設する病院では当然、会社に都合の悪い診断は下さない訳で、余り意味のない消化器系の安定化を目的とした漢方の処方で終わってしまった。しばらく通っていたが、この医者ではダメだと本気で思ったのだが、そんな中でとてもラッキーだったのは、とある頭痛専門の医師を紹介してくれた事だった。

その医師には何度も診察を受けた。最初にMRIを撮り、副鼻腔の形を観て貰ったりしつつ、色々な問題が露顕してきた。遺伝で私は鼻の骨が少々曲がっている。父親もそうだったので明白な事実だ。またアレルギー体質も遺伝だったり、喘息やその前に悩まされたアトピーも、血族に多く遺伝と考えるのが自然だった。頭痛は母親が持っていたのだが、それは遺伝なのか分からなかった。

頭痛には女性特有のものと、男性にもあるものとは微妙に違う。私の場合は、それまで片頭痛とばかり思っていたのだが、その頭痛専門医の方に観て頂いた最初に、あなたは群発性頭痛だと診断を下された。確かに症状が多く一致する。何より片頭痛は女性が多いのだが、群発性頭痛は男性も多い。

しかし、結果的にこの頭痛から縁を切る事はできず、いかにうまく付き合っていくかという事だそうだ。その頭痛を専門とする医師は、女性なのだが、本も書いていたりして当時は北里医大の助教授だった。今はその職場から、横浜駅前の病院に移られ、私はまだそこに通った事がないのだが、少なくともそれまでの医師が下した頭痛に関する診断とは比べものにならない程、明確な診断をしてくれた。

群発性頭痛が発症するシーズン(いわゆる3~5カ月の間)は、心臓の血管の膨張を抑制する薬を朝昼晩と服用する事で、頭痛の予防効果がある事が臨床で確認された事から、私もそれを実行してみた。すると、効果がてきめんという訳でもないが、しばらくの間は効果があったように思える状況になった。そして痛くない時期は、特にその予防薬を飲む事もしなくてよく、ここ2年程飲んでいなくても平気だったのだった。

来週から本格的にこの予防薬を飲む事にした。なぜ来週かというと、痛くない時は飲むのを忘れがちなので、来週からはしっかり飲む事を週間つけるように気をつけようといった所だからだ。既に今週も昼や朝に飲むのを忘れているので、来週からは忘れずに飲むぞ、という気分なのだ。

しばらく痛みが出てしまうだろう。何とか安定して欲しい。なんせ、痛い間は地獄の苦しみなのだから…
写真は雲南省は大理の町中を歩いている時に頭痛が出、休憩している所。情けない表情だ。

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2006年07月21日

群発性頭痛再発その1

私はもともと、というかいつ頃か定かではないが、かなり長い間、頭痛に悩まされている。思い出せる範囲では、社会人になってから、特にひどくなったと思われる。

朝仕事場について、一息ついた途端に右の頭の目の奥が疼きだし、次第に錐のようなとがったもので、グリグリと刺されているような強烈な痛みに発展する。そうなると2~3時間、長ければ10時間近く激痛と戦う事になってしまう。痛い間は何もできず、ただしかめっ面をして、「ヴ~」と唸っているしかない。

横になれる場所があれば、そこでのたうちまわるというのが大げさではあるが一番的確な表現なので使ってしまう位、頭を抱えてじっとしているしかなくなってしまう。運よく眠る事ができるなら、寝てしまうと、これまた運がよければ目が醒めた頃には頭痛が和らいでいる事もある。顧客先に常駐している頃は、徹夜作業者向けの2段ベッドがある部屋があったので、そこでよく寝させて貰ったものだった。

一度痛みが出はじめると、1週間のうち3~5日断続的に毎日発症する。ここ最近、約2年近く治まっていたのだが、先週あたりから痛みのレベルが違う頭痛が再発してしまった感じだ。この痛みとの戦いは、季節的な事が多く、3~5カ月ほど続き、その後はケロっと痛みが出なくなってしまう。その為、本格的な治療というのも、なかなか決心がつかないものだった。
それでも私は喘息の方で2カ月に1度、総合病院に通院しているので、主治医にも何度も相談した。これまでにCTを2度撮っただけで、その結果も異常ナシという診断だった。高い頓服なども試したのだが、殆ど効かなかった。その中で唯一クリアミンという薬が効いたのだが、胃に与えるダメージは強烈で、吐き気を伴うものだった。しかし頭痛の辛さには耐えられずに、随分使った。市販薬ではセデスなどが比較的効いた方だった。

頭痛に悩む人は非常に多いそうだ。特に女性に多いようで、現在でも頭痛については謎が多く、治ったというよりも、今は治まっているというような言い方になるのが殆どらしい。

頭痛がない人がどれだけ日々の生活で楽か、いつも羨ましいと感じる。頭痛のお蔭で、どれだけストレスを感じているか、何故頭痛に悩まされなければならないのかと自分の体を恨む事もある。それだけ頭痛に費やされる時間とその辛さは耐えがたいものがあるのだから。

今ではちょっとだけ対処方法が見つかっているのだが、久しぶりにその症状が再発して、戦々恐々としている所だったりする。やりたい事ができなくなるのは辛い。

写真は北京の紫禁城を望む影山公園の展望台から。この撮影中に頭痛が始まり、ホテルにそそくさと帰った。

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2006年07月20日

仕出し弁当

会社では社員食堂はない。昔はある所に在籍していたのだが、その頃は確かに夕食にも社食を使った。何といっても安いのがよいのだが、メニュー的には体の事は殆ど考えられていない。ラーメンやカレーなどばかり。

新橋や茅場町、浅草橋の顧客先に常駐していた頃は、昼は外に食べに行った。結構なコストがかかったのだが、他に方法がなかったのだ。それでもランチで安めの所をみつけて行った。必然的に行く店も決まってきて、栄養が偏るのが判っていた。

本社ビルに勤務するようになってからは、殆ど仕出し弁当だ。職場に販売しにくる弁当は、380円と安いのもあるのだが、とにかく脂っこい。メニューもいつも似たようなものだ。しかし、ある年から、玉子屋という大森にある仕出し弁当屋を頼む人が有志で増えてきた。私もここの弁当を一度食べてからは、すっかりファンになってしまっている。

420円で日替わり、そして魚と肉と野菜が必ず入っており、バランスとボリュームがある。ボリュームは女性だと多すぎると言って敬遠されてしまうのだが、それはそれ、ご飯を半分残すなどコントロールすればよい訳で。ただ勿体ないと思う事もあるのだが、自分の体の状態には変えられない。

魚だと骨が苦手な私は、定食屋に入っても焼魚などは鯖くらいしか頼まない。しかしこの弁当には、サンマの半身や鯖やまれに赤魚も入る。ちょっとだけなので食べやすい為、私でも食べられる。ただ、全体的にちょっと味が濃いめなのが玉にきずだ。

キャンプ中の料理なんか、塩分が多く正直そんなに健康面ではよくない訳で、普段のお昼、一番しっかり食べるものとして、1社がメニューを通して考えてくれた方が良いような気がしている。そんな中で、玉子屋はコストパフォーマンスが結構高いと思う。

何度かテレビでも紹介されていた。相当な量を出荷しているらしい。弁当ビジネスの、成功しているいい例だろう。

写真はある日のその弁当。携帯で撮ったのでちょっと分かりにくい。

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2006年07月19日

大雨で通行止

今日の朝から、降り続く雨が原因で、長野自動車道や上信越自動車道が部分的に通行止めになっているようだ。長野など高速道以外だと細めでかつワインディングの道が多い場所は、高速が使えなくなると不便だろう。

私が免許を取った頃は、軽井沢までも高速は通っておらず、碓井の旧道を走ったりもしたものだった。バイパスはトラック天国。夜間スキーの為に移動をよくしたが、トラック群に煽られ、とても恐怖だった。

雨や霧の高速を走っていても、トラッカーは容赦なくあおってくる。こちらの車が走行車線の車を追い抜こうと追い越し車線に出た途端、突然バックミラーに大映しになる位の速度差で迫ってきて、煽る。左の走行車線に車がいて、戻るに戻れない状態でも容赦なく煽る。高い座席に乗っていると偉いとでも言うのか、前が詰まっていても煽るのが多い。

紳士的に追い抜いていく車も多い。こちらは圧倒的に車のパフォーマンスが低い訳で、でも80km/hを下回る速度で走る走行車線の軽トラなどは追い抜きたい。その位の権利はあるはずなのだが、はるか後方に車がいない事を確認しても、とんでもない速度差で近づき、パッシングやテール・ツー・ノーズの嵐。私が運転しているならともかく、由が運転している時などは、頼むからやめてくれと言いたくなる。

交通弱者というよりも、マナー以前の問題だろう。仕事で忙しいのはわかるが、マナーはどんな世界でも必要なはず。タクシーだってそうだ。交差点のどまん中で平気で客を乗降させる都会のタクシーは、即刻切符すら切られてもおかしくないだろう。どれだけ周囲に迷惑をかけているか、危険な目にあわせているか判っているにもかかわらず平気でする。いわゆる自己中。

悪天候で前が霧で視界が保てない状態での走行車線ですら煽られる。それで起きる事故は起きてしかるべきだろう。何も悪くない制限速度で走っている走行車線の車が、危険な目にあうだけだ。自爆して自分だけが命を落とすのは勝手だとでも思っているのだろうか。その後に発生する事故渋滞などにより、限りなく大勢の利用者に、渋滞の中の追突や疲労という間接的な危険な状況下に巻き込んでしまう。

悪天候が原因で通行止になる事よりも、事故や割り込みなどによる自然渋滞による危険性の方が多く出会うのは、やはりマナーやモラルが欠けているドライバーやライダーのせいだといつも感じる。

もっと皆が幸せに走れないものだろうか。誰も邪魔なんかする必要がないはずなのだが…

写真はある日の渋滞の首都高湾岸線。危険があふれている。

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2006年07月18日

休憩日

連休を終えて、体調を少し崩した。ずっと雨が降り続いている朝、各地でも雨量がニュースになっていた。

例年、九州や四国で大雨が事故に結びついてしまっている時期。今年は北陸を中心に暴れている。そろそろ梅雨明けになってもよい時期なのだが、今年は今が梅雨本番のような天候だ。

前線の位置や気圧の谷の影響があるのかないのか、こういう時期は喘息が出たり頭痛が出たりする。エアコンを入れないと寝られないというのもあるかもしれないが、何にしても不快指数を少しでも下げ、体の調子を戻したいと思う時期だ。

この連休あたりから、久しぶりに強烈に痛い群発性頭痛の症状が出てきてしまっている。これが出ると2~5時間動けなくなる。横になってものたうちまわり、歯を食いしばりながら治まるのを待つしかなくなってしまうのだ。この頭痛は社会人になる前からあったと思うが、あまり思い出せない。

2年前、川崎市の職場になった時、会社関係の産業医の方が、頭痛の専門医だという事を知った。会社直営の病院に何度か通ったあたりだったのだが、その中で自律神経失調症だと明確に診断されてしまった。私は93年に仕事にまじめに取り組みすぎた関係もあって、過労から肺炎を併発し、入院する予定だったのだが、ベッドが空いておらず、まる1カ月自宅療養になった。その頃から、軽度の鬱を感じるようになって、職場でも上司がまったく配慮のない事を平気で展開してくれた関係で、部署が変わる1年後までは苦しい日々だった。

部署が変わってからも、結局一度ドロップアウトした職歴は人事情報に残るせいか、扱いとしては低くされていた。移動した部署もひどく、ロクな社員がいなかったのだが、その中で部長代理の人や、その次の部長の人には実力や業務に関する姿勢を認められ、少しづつ信頼が回復されていった。というか私の中では何も変わっておらず、単に会社側が体を壊して戦線離脱したポンコツとしか見ていなかっただけだ。

それからというものの、自分がそんなにできる方だと思っていなかったので、人一倍頑張ってきた自分を戒めつつ、会社とは一線を介すようになった。ここまでは給料を貰っている範囲だが、これ以上はやらない、というように。

会社は結局何もしてくれない訳で、それは大勢いる社員の中のひとつのコマな訳だから、当然だ。会社が損をしないように、いくらでも捨て駒は発生する訳で、そんな状況で会社と社員の間に信頼関係なんか生まれる訳がない。もともと成果主義とはまったく無縁な連中が成果主義だとアラを探し、ちょっとでも気に入らないと評価欄にダメと書かれるような今、社員は会社に何を求めればよいのだろうか。

自分がこんなに体調が悪くなったのは、あの日を境にしている事は確実だ。だからこそ、体調が悪くなると、あの日の悔しい気持ちを思い出す。絶対に自分の人生の方が大事なはずなのだから、答えは決まっているのだ。

そんな気持ちを、くーが少し和らげてくれる。写真は暑さ対策で買ってきた大理石ボードの上でいきなりへそ天のくー。

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2006年07月17日

海の日

3連休最終日。海の日といわれるらしい。

私たちは海の日に結婚式を挙げた。1997年の海の日は7月20日。あの日は本当に多くの友人が、中標津の丘にやってきてくれた。ある者は友人の結婚式が北海道であるので、と年休を取ってきてくれたり、富良野周辺の登山基地でテント生活をしていた時にバイクが壊れ、ヒッチハイクでやってきてくれた者がいたり、道東に根を下ろすようになった旅人が、バイト先の牧場から除草機を借りてきてくれて、普段は町がシーズン前に芝刈りをする所、私たちのサイトだけ綺麗に刈ってくれたりした。

海の日はその後、カレンダーの週末にあわせて移動するようになったが、私たちの海の日はやはり7月20日なのだ。なので単なる祭日という感覚が強い。

9年前の海の日は、それまで10年以上毎年北海道に渡り、その丘でテントを張って生活した時間の中で、考えられない暑さに加え、私たちが滞在した5日間全てが晴天という、この時期には稀にみる気候だった。逆にあまりに暑すぎて、普段はジャケットを着て丁度よいという所、Tシャツだけでも暑く、皆真っ黒になっていた。また妙な虫が繁殖し、頭のてっぺんを沢山刺されてしまった。

当時はまだモバイルPCなどはあまり性能がよくなかったのだが、Windows3.1がプレインストールされていたF社のFMV-BIBLO450NL/SにWin95を入れ、800MHz帯のmovaをモバイルカードで繋げ、当時からスタッフをしていたOutRider PATIOに、「これからこの丘で結婚式をやります。お近くにおられる方は是非お立ち寄りください」などというふざけた書き込みをしたのだった。当然来れる訳がないのに…。

式を挙げる本人たちは、単にいつもの場所で友人に見守られて式のまねごとをすればよいと思っていたのだが、お世話になっていた喫茶店のオーナーの娘さんが、知人の牧師さんを呼んできてくださった。そして、前日から入っていた友人たちが、私たちに内緒で、式次第を作ってまともな手順が組まれていった。怪しい動きを察知した地元から、取材を申し込まれたが断ったのだが、新聞社のカメラマンの人とは、集まってくれた友人の顔が判るような写真だけは撮らないでくれというお願いの元に了承した。

由のご両親が関西から東京経由で空路で入り、私の両親も空路で前日に入った。丘を初めてみた由のご両親は、こんな何もない所で式をするのかと驚かれていた。私の両親は、旅行好きだったので、1988年に一度、ツアーバスで訪れていたが、改めて何もない所だと言っていた。私たちは折り畳み椅子を出し、段ボールのテーブルの上にお茶を入れてもてなした。

その日の出来事は忘れられない。それまで、その丘では旅の友人が2組、式を挙げていた。また由のホームだった和琴半島でも、2組の友人が式をあげ、私たちの翌年にも1組が結ばれた。どれも、手作りの式で、お金なんか殆どかかっていない。それでも、どれだけ素晴らしい式を挙げられるかだと思った。

集まってくれた友人や、その時に立ち寄った自衛隊の人々、観光客などにも祝われ、自分たちが何をしているのかすら分からないような大勢の人に囲まれて過ごした時間は楽しかった。由のご両親も、私の両親も喜んでくれた。私の兄のように、式に目一杯お金をかけても別れてしまう事もある訳だが、この式は多くの人に喜ばれた。

参加してくれた人に、由が1枚1枚手縫いで作り、イラストを書いたバンダナを配った。また喫茶店のオーナーも、いつも訪れる旅人に渡す手作りの鈴を人数分用意してくれて、それも渡した。多くの人に祝われた海の日だった。

丘にはいつもの小さいテントばかりが並んでいた。式の為に用意したものといえば、コールマンのヘキサタープ3枚だけだった。テントは皆、丘の厳しい気候に耐えられる山岳用のものばかり。しかし、特別な日だという事を感じさせるものは、この日にしてはちょっと人が多いなと思える位だった事だろう。夜の焚き火を囲んで歌ったフォークソングも、離れた場所でやったので、この日に丘に泊まった無関係の旅人たちには、違和感もなかったはずだ。

そこに私たちは重点を置いた。そう、できるだけ普段のキャンプ生活の延長のようにしたかったのだ。

違った事は、釧路新聞の一面に、私たちが鐘の前で困っている写真が大きく掲載された事だけ。それが9年前の海の日の出来事だった。

写真はちょっと加工した7月22日付の朝刊の一面。よほど他にニュースがなかったのだろう。愛を誓ったというか、私たちは丘や湖で旅の中で出会った友人に感謝したのだ。

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2006年07月16日

実は誕生日

今日は私の誕生日。すっかり人生は半分を過ぎたかといったあたりの年齢になってしまった。長かったとも思うが、やはりすぎてしまえばあっという間という所か。

井上陽水の歌ではないが、少年時代は1日が長く感じられ、色々なことができたと思う。それが学校に行くようになり、クラブに精を出すようになり、時間がどんどん早く進むように感じられて行った。

いつのまにか気がつくと、1日の時間の短さから、季節が変わるのが早く感じられ、そして1年という歳月があっという間に過ぎたように感じられる。絶対に平等に時間は流れるはずなのだが、自分がそういう風に感じてしまっているという事なのだろう。

この1年はどんな1年だっただろうかとよく振り返った。多くは誕生日ではなく、元日にそう思う事が多かった。誕生日というのはとても重要な日なはずにも関わらず、誕生日というイベントしか頭に浮かばなくなってしまった。この1年、これからの1年を改めて思うような事をしなくなってしまった自分が居る。

そんな風に1年を振り返ってみた。

写真は26歳の頃の私と、宝物だった900R-A7。何歳、という指標はある意味誰もが平等に時期を示す事ができるものなのだが、この頃はバイクばかりの日々だった。今でもバイクと旅は決してあせる事のない現在も進行しているライフワークなのだが、今は少しくーとの日々にウェイトが高まっている。

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2006年07月15日

北海道を旅する事その6

フェリーに乗る事がちょっとした夢だった。子供の頃は、船でどこかに行くという事は、せいぜい公園の池でボートを借りて、1時間程度漕いだあと同じ桟橋に戻ってきたり、船で釣りに行って同じ港に帰ってくる事だったのだが、対岸に渡る為にあるフェリーという乗り物に乗る事が憧れでもあった。

それは自分が行けないような遠くに連れて行ってくれるような乗り物だったからだ。海という自力ではどうにもならない場所を渡してくれるもの。とても力強く、それも自分が乗っていた乗り物も一緒に運んでくれるという事で、旅心をかきたてられた。

最初に乗ったのは東京湾フェリー。川崎から木更津まで70分で結ぶフェリーだ。これに私は原付免許を取って2カ月たった頃、MR50と共に乗り、房総半島へ渡った。船に乗り入れる時と降りる時の不安定なアプローチを通り抜けるだけで、何だかとても緊張した事を思い出す。

そして長距離フェリーとなると、いやがおうにも旅心は盛り上がる。20時間とか30時間の船旅は、私にとってとても短い時間だった。暇だとかやる事がないとか言う人も多いが、私は自分の愛車と共に、目的となる北海道に向けて大海原の上をゆっくりと進む船の上は、この上なく贅沢で、気分がよい時間だった。

フェリーは主に、コンテナやトラックなどが物資の輸送にコストを抑えつつ、自走するよりも早く確実に送り届ける事ができる事から、輸送業者がメインの顧客だ。そんな中で、旅行が目的で乗る人用に、船室や乗用車が格納できる場所を少し確保してある事が多い。

丁度20年位前からバブルが絶頂の頃までは、船会社も豪華な付加価値を船体に求め、採算度外視で豪華フェリーを造船した時代だった。それは今では旅客スペースが全てなくなり、RORO船となって荷物を運ぶだけのフェリーになってしまった航路も少なくない。不思議と日本海航路はまだまだ旅客向けフェリー業界が活発で、新造船の投入も活発になっている。太平洋路線はどんどん縮小する一方なのは、東京に住む私としてはこれほど寂しい事はない。

私が一番利用した近海郵船フェリーは、まりもとさろまから始まり、ブルーゼファーとサブリナの時代だった。前者はしばらく東京釧路間から別の航路を運行していたようだが、後者は韓国と中国の国際航路を今も運行していると聞く。愛用した風呂や、プロムナードギャラリー、体を焼いたデッキは今どうなっているのだろうかと思う。

往路では、30時間強の航行を終え、釧路西港に接岸したあと、霧がけむる釧路の町に走り出すワクワク感があり、復路では旅の終わりと船で食べる海産物を一杯積んで、急な乗船アプローチを登る時の不思議な満足感が、私にとってのフェリーの醍醐味だった。

沖縄行きで48時間以上かけた波之上丸よりも、父島まですし詰めになって渡ったおがさわら丸よりも私にとってのフェリーは北海道航路が一番だ。

島国日本。もっと船旅を楽しむべきだと思う。恵まれた環境に居る事に、実はあまり日本人は気がついていない。

写真は1989年の夏、まだ近海郵船フェリーがまりもとさろまの時代。釧路到着した友人を迎えに西港に立ち寄り、GPz900Rを私が船から降ろしたのだった。このあと、霧多布岬で泊。

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2006年07月14日

北海道を旅する事その5

北の海の恩恵は、海の幸が素晴らしくおいしいという事が一番理解し易いのではないだろうか。北の厳しい海は、魚介類から海草類まで、全てに試練を与えると共に、大いなる栄養分も同時に与えてくれている。

冬には流氷が接岸するという極めて珍しい環境なのも、その理由のひとつのようだ。海流も早く、強く吹きつける風も、海を鍛えてくれる。そんな厳しい環境の中、人間は漁をし、農作物を作り、生活をしている。

北海道に行くと、いつも楽しみなのが海の幸。もともと東京生まれの東京育ちの私にとって、魚は苦手な食べものナンバーワンだ。骨が綺麗に除けない魚なんかはとんでもなく苦手だ。ただ苦手なだけで、食べられない訳ではない。魚に限らず面倒な食べ物は苦手なのだ。

蟹にしてもウニにしても、そんなに食べたいと思わない。しかし多くの人は、これらを目当てに北海道に行くほどだ。確かに新鮮なものは何でもおいしい。以前、宮城の女川から船に乗り、ホヤを食べに行ったのだが、とれたてのホヤはクセもなく、食感がなかなかおいしかった。そう、魚介類については、鮮度によって全てが決まるといっても過言ではない。

だからこそ、新鮮な海のものがすぐ近くで取れ、すぐに食べられる環境である北海道が、それだけ恵まれている。それだけではなく、北の厳しい海で揉まれた魚介類は、脂も乗り、力強い食感で本来のおいしさを味わう事ができるのだろう。だからこそ、苦手な魚介類ではあるが、北海道では好んで食べるのだった。

その中で、やはり日本人としては鮨が一番だと私は思っている。いきつけの鮨屋は、オホーツクに面した港の近くにある。もうそこには30回以上行っているはずだ。そこで鮨を食べるだけに、300km走るなんて事だって珍しくない。わざわざルートを鮨屋経由にしてしまう程だ。そして鮨屋までノンストップ・無休憩で走り、へとへとに疲れながら食べるという事も好きだ。別にしたくてそうするわけではなく、鮨を食べるがために、少々無理なルートを取り、スケジュールを組んでしまうからでもあるのだ。しかしその苦労も全て、食べれば報われる。

また鮨屋でも必ず頼むのはあら汁。真夏でもこのおいしさといったらない。北海道といえば、ジンギスカンやチャンチャン焼きなどは定番なのだが、私としては北海道に行くなら是非鮨を食べたいと思う。

それだけではないのは確かだ。乳製品も素晴らしくおいしい。アイスクリームなどは、あれば必ず食べる。キャンプしていても、よくアイスだけは食べていた。北海道限定の食べ物もいろいろあるので、それも楽しみだ。

もともと旅をすれば、その旅先の味というものを求めるのが当然と思っていた。それがあまり美味しくなくても、その土地を風景や人だけでなく、味でも感じたいと思うからだ。沖縄では沖縄の、九州や四国ではそこの郷土料理を食べるのが楽しみだし、旅の思い出と共にその味も一緒に記憶したいという所なのだ。

北海道は味という意味だけでも行く価値はあると思っている。他の地では味わえない味が沢山あるからだ。その出会えた味に感謝し、旅する事を感謝する事が素直に嬉しい。

写真は羅臼の某有名な豪華海産物が食べられる宿の夕食。これが始まりで、際限なく海産物が出てくる。どれもすばらしく素材がよいのでおいしのだが、最後は食べ飽きてしまう程だ。

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2006年07月13日

北海道を旅する事その4

思い出話ばかりになってしまうが、これまではこの季節はどんな事があっても、頭の中にはフェリーの予約やら道東までのルートを思い浮かべたりするような時間があった。昨年だって、くーと一緒にレンタカーで巡るにしても、おおよそのルーティングが頭にあって、その中で計画を煮詰める事が、楽しかった。

北海道には絵になる道がある。地平線まで続く真っ直ぐな道、見渡す限り原生林の中をゆるやかなカーブを描きながら敷かれた国道、海岸線の砂浜から熊笹の草原が広がる中を通るダート、果てしない森の中を縦横にはしる林道。どれもこれも、内地とはスケールの違うというのだろうか。それこそ2stのオフロードバイクであれば、ガソリンが足らなくなるようなロングルートがいくらでもあった。

あった、と書いているのは、北海道でさえ、ロングダートがどんどん姿を消しているのも現実だからだ。いつのまには綺麗に舗装されてしまった林道、それまでは辿り着くのだけでも大変だった湿原や沼、湖などへのアプローチの道が広げられ、最終地点には広く森が伐採された車の駐車スペースができていたりする。秘境といえるような場所が、私が訪れはじめた1985年頃にはまだまだ沢山あったが、今ではそれこそ道がなく、歩いてでしか行けないような場所しか残っていない。

町の風景にしても同じ事が言えた。言い方は悪いが、北の寂しさを建物や街角で表しているようなちょっとモノクロームな町並みを、荷物満載のバイクで通り掛かるだけで、妙に旅している気分になれた。商店はめったに開いておらず、たまに真新しいカラフルなコンビニがあったり、ホクレンの黄色い看板オホーツクや日本海など、冬はとてつもなく厳しい自然にさらされる海岸線には、建物の前に多く暴風の為の木製の壁があり、それは風雪に耐えてきたのをその色で表していた。それだけでいかに北海道が厳しい場所なのかが判るのだった。

あと私は前にも書いたかもしれないが、炭鉱の町が好きだ。隆盛を究めた時代はもうはるか前。しかし確かに当時は多くの人がその町で生活していたのだ。それが今では過疎といってもいい程縮んでしまった。その姿は、まさに北の厳しい時代の片鱗をみせてくれる。

八重山でも同様に多くの悲惨な歴史の片鱗をみることができる。西表炭鉱の跡はジャングルに飲まれ、人工的な建造物は自然に飲み込まれている。内離島にある炭鉱跡も、実際に足を踏み入れてはいないが壮絶な歴史の上に今の姿をさらしている。人間はいつでも残酷な生き物なのだろう。

それらを忘れていいものだろうか。日本人として、日本を知らなさすぎる自分を、私は高校時代に感じていた。自分の目で見て、自分の足で歩きたい。そのためにも、日本を一周したいと思った。

その中で北海道や沖縄は、目に見える過酷な歴史の上に今の姿をみせてくれる。廃線になった線路の上に立つと、自分が何者であって、そこで何があったのかを考える事で、僅かかもしれないが日本人としてのアイデンティティが見えた気がした。

写真は礼文島の行き止まり、かの有名なユースホステル、桃岩荘を望む高台より。美しい浜と海と、そして旅人の濁りない心がここにはあった。

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2006年07月12日

北海道を旅する事その3

運命とは結局、結果的にそうなってしまった状態から判る事なのではないかと思う。私は北海道という場所に旅という手段で出会い、そして惹かれ、何度も何度も旅をした。そんな中で、つまらなかった旅は一度もなかった。

それは走行距離でもないし、滞在日数でもない。天気には少なからず左右されるが、それにしてもその状況に応じた楽しみ方というのが必ずある訳で、期待しなくても晴天が続く場合もあれば、予想通りずっと雨に見舞われた年もあった。

数年前までは何度、北海道を旅したか数えていたのだが、段々とその記憶は曖昧になっている。ざっとみて回数では30回はくだらないとみている。その中には2泊3日の旅もあれば、1カ月以上という旅もあった。しかしそれはどれも同じように、北海道の旅としてよい思い出になっている。

まさか晴れれば暑くて逃げ場がなく、夏の多くが霧や小雨で視界が塞がれ、風が吹けばタープなんか張る事ができないだけでなく、チャチなテントだとあっという間に壊れてしまうような過酷な場所に通う事になると思わなかった。しかし私の中では日本中どこを探しても、その丘以上に何度も訪れたいと思う場所はないようだ。米原や小梨平、廻り目平なんかも微妙に魅力があるのだが、圧倒的に私にとってはひとつしかないようだ。

その程近く、湖のほとりのサイトも、昔ほど魅力を感じなくなってしまった。風景は変わらないのが救いだろうか。もっと時間が経てば、また違うのかもしれないが、不思議とその湖のほとりのサイトは、気のいい旅人が居たからこそ、素晴らしい日々があったのではないかと思うのだ。

過酷な丘の上では、一人だって張りたいと思う。まあ知り合いが居ても楽しいのだが、場所柄なのか、個人行動が多く、協調性はあまりない旅人が集まっていたのも、そのロケーションからなのだと思ったりする。

風にはためくフライシートの音を聞きながら、朝昼晩どの時間帯でもその場所に居るという喜びを感じられるのは、今のところ、その丘だけなのだ。

そろそろシーズンまっただ中。私もちょっとウズウズするのだが、旅人たちはまたあの場所で、自分たちだけの誰にも邪魔されない時間を楽しむ事ができるだろう。いつか、あの場所がまた大きく変わったとしても、きっと私たちはあの場所を忘れる事は絶対にない。

日が暮れかけた頃、少々アクセルを空け気味に道を登ってくると、うっすらと空が溶け込んでくるような色の中に、階段がまっすぐ上まで伸びている高台の駐車場に着く。減速しつつ、トイレ横のシケインを抜け、草むらが左右から張り出してくるダートを一気に登ると、そこはいつだってワクワクさせてくれるパラダイスなのだ。

写真はサロマ湖付近では何度か利用した、キムネアップキャンプ場の朝。何もなくて、広い事から、一度はボーイスカウトのような団体が居て大騒ぎしていたにも関わらず、静かな夜を過ごす事ができた。

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2006年07月11日

北海道を旅する事その2

北海道を最初に自分のバイクで走った1985年。まだ多くの国道や道々に未舗装路があった時代。未舗装路が好きな私のクセに、何を血迷ったかSUZUKI RG250ガンマ2型で初めての北海道だった。

オイルを2L、リアの振り分けバックに入れ、自炊用具といえば固形燃料とメタクッカーに、アルマイトの小さいコッフェルだけ。あとはシュラフと薄い銀マットをリアバックに入れて走った。16インチのフロントタイヤに、舗装前の深砂利ではハンドルを取られふらつきながら走った。しかし、そこに広がる風景は全てが新鮮で、広大で、味わった事がない気持ちだった。

もともとツーリングでもある程度はルートを考えて走る性格の私だったのだが、この時ほど行き当たりばったりはなかったと思う。前知識なしで、往路のフェリーの中で耳にした話と、ツーリングマップル1冊だけ。今でこそ情報が溢れて何の心配もない宿情報は圧倒的に情報量が少なく、それでも私は霧にむせぶ釧路西港を出て、青看板だけでR44に入り、開陽台へ向かったのだった。

雨の中ひたすら指先の寒さに耐えながら浜頓別で雨があがるまで北上し続けたオホーツク沿岸、これでもかと続くサロベツのダート、眠さと戦いつつ走った音威子府から比布までの間、陽が暮れてもなおその日休む場所が見つからない寂しさなど、とにかく初めての北海道であまりに多くの事を一気に学んだ。

そして多くは辛い思い出だったにもかかわらず、私はその旅の帰路の間に、来年はどう走るかを頭に思い描いていた。そして本格的に日本一周への計画を指導させ、最後にこの大地に戻ってくる事を決めていた。

都会生まれで都会育ちの私が、この北海道という土地に惹きつけられた力は相当なものだった。それからというものの、2001年までの毎夏は必ず丘に上がった。そしてそれ以降は夏に上がれなくても、春や冬に訪れ、年に1度以上、多くて4度道東を訪れる程見事に私が目指す場所として定着したのだった。

そして2002年の夏、初めて体調不良が原因で、夏の予定を全てキャンセルした時、これまでの自分と決別すべく、自分自身のポリシーとして生活に組み込んでいた北海道ツーリングを、あえて少しづつ外していった。そうでなければ、自分が自分なりに楽しめなくなってしまうという事が段々と判ってきたからだ。

もっと気楽に旅をするべきだ。北海道以外だって、いくら日本一周をしたからといっても、行ってない所はある。そういう所や、また違う旅のスタイルもあってしかるべきだと悟ったといってもいい。大げさだが、自分の中で貫いていたものを、自分から少しづつ崩していく事で、自分を見つめなおす事ができたのだと思っている。

近海郵船や有明発北海道行きのフェリーがなくなり、航路もどんどん縮小されていったのもそのきっかけかもしれないが、それでも小樽からだって苫小牧からだって、私が目指したのは道東の丘だった。

そこで毎年みかけた顔も少しづついなくなり、滞在日数もどんどん減っていった。反面、道東に根を張ったり、家族や子供ができても、手段はバイクではないにしろ丘にあがるようになった友人も増えていった。皆、昔とは違う。そうして丘に戻ってくる事ができるだけでも、恵まれているのだから。

北海道は、今でも走ると初めて訪れた時の匂いがする。風景もどんどん変わってしまってはいるが、それでも昔の面影は充分にさがせば転がっている。あの森の中を貫く綺麗な舗装路の高速コーナー、道のまん中に草が繁っているダート、太陽に照らされ眩しいばかりの光と影の森。いつだって北海道は待っていてくれる。

大した事じゃない。ただバイクで北海道を巡るだけの事だ。でも、実際に自分で走ってみると、それは判るはず。今年走らなくても、来年がある。そういう気になれた、21年目。

写真は夕暮れの霧多岬バンガロー。1987年の秋、しいたけ兄と一緒に1棟を借りた。バンガローの前にはしいたけ兄のGB400TTと私のSRX4YSP。他に誰もバンガローにもテントも人がいない、貸し切りの初秋。

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2006年07月10日

北海道を旅する事その1

夏は北海道。バイクに乗るものの多くは、北海道を荷物をリアシートに積み、旅をしてきた。私もそんな旅人の一人だ。

北海道に魅せられたきっかけは、今でははっきりと思い出せない。今、何かきっかけだったかと言えば、バイクに載り始めた頃に読んでいた雑誌や通っていたショップで、バイクでツーリングするなら北海道という図式は当然であり、また憧れでもあり、定例でもあった。

夏前になればどのレース専門誌以外のバイク雑誌で、北海道を目指せと特集が組まれていた。高校生当時、お約束のように広告ばかりのオートバイ誌や、モーターサイクリスト誌、モトライダー誌、ミスターバイク誌などを読んでいた訳で、北海道の特集になればその号は保存版になった。

また毎年夏前になると出るツーリングガイドのような本も、内容はどうあれまず購入していた。多くは新しい情報を得られる事はなかったが、何より最新の旅人の口コミを読みあさっていた気がする。

そして私は大学の研修で、広大な網走の大規模農場に住み込みで働く事になり、初めて憧れだった北海道の地に立ったのだった。時期的には、18歳のだったはずだ。私は丁度車の免許を取っている最中で、仮免に受かった直後だった。

研修地では軽トラを運転させて貰ったり、時折道に迷って大規模農道に入り込んだツーリストをみては、収穫作業の手を休めて、額の汗を拭いながら、目で追った。その時に、それまで迷っていた私は、夏が終わる頃にこの地に自分のバイクで戻って来ようと思ったのだった。

フェリーの路線は知っていたが、いつ出発するかなんか調べていなかった。それまでに聞きかじった知識で、荷物を積み込み、0時前に出航するはずの北海道行きのフェリーに乗るべく、一人で銀座を抜け、有明埠頭へ向かった。

その時の都心の蒸し暑い夏の夜の空気は、まさに今日の都心の空気のように、ねばっこく体にまとわりつくようなものだった。

フェリー埠頭に着くと、頭の中ではずっと苫小牧から始まる旅をイメージしていたにもかかわらず、その夜は苫小牧行きはなく、釧路行きだけが出る事を