私は1985年から丘にあがり始めた。そして、開陽台で知り合った友人たちと、その繋がりで和琴で知り合った友人たちと、北海道に渡らない時も多く交流してきた。
なぜだか、学生時代よりも、社会人時代よりも、彼らはとても気持ちのよい間隔を保ち、同じ匂いがしていたという表現が一番近いのだが、それまでの人生も、職業も年代も違う連中に、とても深い親しみを感じていた。
そして、内地でも毎年焚火を囲むキャンプをしたり、とある高円寺の古アパートで、一晩中ギターをかき鳴らしてフォークを歌ったりしていた。その時間は今も鮮明に憶えている。
開陽台にハイジーの家ができ、93年にハイジーがなくなるという噂を某兄ちゃんが流し、多くの旅人が飛行機で閉店に集まった。その年はガセだったのだが、少なくとも「そうなる予感」は充分にあったんだと思う。事実翌年には、本当にハイジーの家の撤去があった。
その94年、私はぜひともバイクで丘に上がりたかった。近海郵船でカブを無人車で送り、釧路で受け取って、R272を走った。武佐サマが雪化粧をし、平地でも雪が舞っていた。その年は、今の展望台ができて、ハイジーの家はこの時点で展望台に入るかどうかを決めかねていた。いろいろ、本当にいろいろあったのだ。だからこそ、ハイジーの家がこれで最後だという気持ちを強く感じていた。
その年は丘の上には大きな建造物を建築中で、立入禁止の看板が建てられ、それらは寒風に吹きつけられていた。
私は閉店パーティ最中、そっと抜け出し、丘の上に上がった。立ち入り禁止のロープを潜り、足場だけが組まれている2階部分にあがり、そこで仰向けになって無限に広がる秋の星空を眺めた。そして自然に涙が流れてきた。声をあげて、止まらない涙を拭く事もなく、30分以上、そこに居た。
私はこの日を自分なりのピリオドを打とうと思った。それでいいとも思った。別に誰のせいでもないし、どうなる訳でもない。悲しいという訳でもなかった。ただ、何かにもどかしかったのだと思う。それまで大事にしてきたものが消える運命を頭で理解していたが、無力な自分がきっと悔しかったんだと思う。
翌年、新展望台の1階にテナントとして入る事をかあさんととうさんから聴いた。色々あった中で、きっと大きな決心だったと思う。事実そのあと、色々苦悩の日々があったようだ。私も翌年、7月に1度、バイクで丘を訪れたが、テントを張らなかった。張れなかったと言ってもいい。
そしてその1カ月後、あらためてまたバイクで丘にあがったのだが、実はそのちょっと前、古い友人のシェフから、新しくなった丘にテントを張ったよ、という連絡があった。そして、彼は「やっぱりここはいい所だよ」と言ったのだ。それを聴いて、私は新しくなった開陽台で、第2期のキャンパー生活をするようになっていった。
あの日、あの夜の工事現場での事は忘れない。私の丘への思い入れ。それは今でも変わらないのだが、きっと今回の閉店の場に居たら、また違った感覚なのだろうと思った。そしてきっと涙は出ないと思う。私の中では、もう整理はついていたのだ。
97年に結婚式をあげた開陽台。かあさんはとうさんと娘さんと計画し、わざわざ牧師さんを呼んでくれた。私も今はなき父親も、当時のビデオで微笑んでいる。あの夏も、開陽台とハイジがあったからこそ、素晴らしい友人と時間を共有できた。
開陽台はもう私たちの手の届かない所に行ってしまったのかもしれない。でも一時期を私たちが過ごした事は、しっかりと今も「風の想」レリーフに刻まれている。
