2008年07月03日

FCR33はまだ未装着

色々忙しい日々が続いている。なのでバイクの所に行く事すらできないのだが、マニュアルを読みながら今FCRの構造やセッティングを調べている所だ。

色々アドバイスを頂いた方から、セッティングで必要になってくるメインジェットとスロージェットを一緒に購入した。基本的にはファンネル仕様でBITO R&Dから初期セッティングされている状態なので、そのままでも走るのだろうが、データを頂いてその上エアクリーナーボックスと吸気容量の拡大などに手を入れた上であらためて微調整しないとならない事から、あってもよいと思って揃えたのだった。

メインジェットは#115,118,120,122,125,128,130,132のセット。標準が#120となっているらしい。スロージェットはPOSHのキットで、#32,#35,#38と#40,#42,#45を揃えた。単品で買うより安いというのもセット買いの理由だ。

さて、これがどのような体感変化があるのか。正直とてもワクワクしている。

またこれで北海道を走りたい。

写真はそのFCR。純正と交換しても、33Φだとクリアランスが確保できるとの事だ。

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2008年06月29日

DJEBELのパーツ買いまくり

季節は夏に一歩一歩近づいている。朝晩はまだ湿気を含んでいる涼しい気候で、ふと朝出社する為に家を出た瞬間、夏の北海道の臭いを感じる事があったりするほどだ。

そういう季節になってくると、バイクが気になってくる。私にとってオンシーズンというのは、夏の道東の季節だと断言できる。灼けるアスファルトの照り返しを感じながら走る西湘バイパスでも、眼下に芦ノ湖を見渡す芦ノ湖スカイラインをテンポよく飛ばしているシーンでもない。私はジャケットがなければ肌寒く、霧が足早に道を横切る北太平洋シーサイドラインをアクセルが停まるまで開けながら抜けているシーンが私にとっての夏休みなのだ。

先日までME06にあらためてスイッチが入ってしまい、今になって17年も前の車体を探しまくっていた。あとちょっとで購入する所まで行ったのだが、今のDJEBEL250XCを転売する為に、車体の写真を撮りに行った日、あまりの調子の良さと、やはり装備的に私のスタイルにあう事をあらためて確認してしまったのだった。

ME06は今も素晴らしい車両だ。それこそ現行のXRよりも魅力がある。実際専門店もまだ健在なのがそれを証明している。今思ってもあの89のXR250RJは乗っていて楽しかった。

そんな中、DJEBELの問題を解決できる情報を得た。結局はアクセルの張り付き、突然のストール、高回転型と言いつつ下からのトルク感が感じられないギア比、すぐあがるバッテリーなどが問題だったのだが、それらの殆どをおよそ解決できる可能性が出てきた。

アクセルの張り付きやストールは、純正キャブに問題があるようだった。GPz900Rに乗っていた時に、FCRに交換しようと思ったりしたものだが、フィルターをK&Nに換えただけで吸気系はそのままにしたのを思い出す。エンジン廻りではヨシムラのST-1カムを入れて調整しただけだったのだが、パワーとしてはそれ以上を82年発表の車体に求める事は考えなかった。

今回、FCRの33Φがその解決案としてあった。ツーリングユースなので純正のエアクリーナーボックスも使えるのが重要だ。かのカスタム界ではポリシーが私にシンクロしているBITO R&Dが初期セッティングをした上で販売しているのも安心感があった。これを先に導入したという方と連絡を取り、情報を頂いた上で購入するものを考えたのだった。

他にクロスしているミッションは変更しようがないので、ファイナルのスプロケットを1丁あげてみようと思い、サンスターの43Tを購入。これで様子をみようと思う。

これらは全てウェブの通販で買った。昔は落合の東京パーツや谷原のコミネ、またはお約束の上野に行って購入しなければならなかったのだが、買うものがわかっている時はやはり通販が便利だし安い

写真は今回購入した品。左奥のFCRが今回の目玉。

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2008年05月22日

由のアジ練、本格的に再開(その2)

なぜ今整備かというのは今の所課題が多い為ノーコメント。とにかく私のバイクが無事に息を吹き返したという所だ。

久しぶりにクラッチが繋がれ、走り出したDJEBEL250XC。妙にフロントがグラつく。基本に忠実にニーグリップを締めるが、最初のコーナーや交差点が怖い。怖いと感じたのは久しぶりではないか。

最初にブレーキを確認。フロントもいい感じで効くし、リアも充分。サスも抜けてはいない。ただ、アクセルを戻すと強制開閉のキャブらしく、手首に負担がかる事を身をもって思い出した。エンブレのかかり方もちょっとギクシャクするのだ。

ロングを走っていると、このスロットルの感触と、微妙に自分の走り方にあわないミッションがストレスになる。アクセルを開けている時は比較的よいのだが、パーシャルで走るとどうしてもスムーズではなくなってしまう。感覚的に言えば、まるで2ストのパーシャル走行のような感じとでも言おうか。

私のDJEBELは97年式。96年でデビューし、オーストラリアン・サファリでほぼノーマルで完走したり、あの加曽利隆氏がノーマルでオーストラリアを東西南北に2度に分けて縦横断した事から、その耐久性だけでなくポテンシャルに正直「これしかない」と思って、愛着はあったがリアサスが抜けて修理が必要だったXRを手放し、乗り換えたという経緯がある。

丁度97が発売された時期でもあり、初期型カラーが好きだった私は、1台だけ在庫があるという96を買ったのだが、手違いで別の行き先に渡ってしまい、初期型タンクをつけて同じ値段でという条件で買ったのだ。なので、私のDJEBELはタンクこそ初期型カラーだが、フォークブーツは2型の色なのである。サイドカバーもフロントフェンダーの2型カラーのデカールも剥がし、真っ白。結構このシンプルなデザインが好きだったりする。

だがDJEBELはつい最近まで発売されていたモデル。10年を越えて現役だったのだが、前期型から中期以降はキャブの形式も変わった。初期型は色々問題もあったので、そういう意味ではデキのよいバイクではないのかもしれない。

そんな車体を、久しぶりに振りまわした。試走もちょっと長めに由のアジ練場まで。裏道の交通量の少ないルートを大きい声では言えないが何度も全開にした。デジタルメーターの数字がどんどん変わる。

ダートではさすがに倒し込めないが、回転数をあげていればそれなりにレスポンスよく地面を掻きむしる。タイヤがノーマルなので接地感があまりないのが玉にきず。好みだったピレリのMT21あたりに変えれば、案外いい感じになるかもしれないとあらためて思った。しかしその分タイヤの剛性があがり、舗装路ではゴツゴツ感に見舞われるのだが…

ひとしきり、スタンディングによる低速走行や倒し混んでイン側の足をフロントホイール横に出してみたりすると、これが楽しい。おまけにハザードや大型ヘッドライト、ライトカウルなどツーリングには便利な装備も一杯ついている。ラジカルミラー、6つほどミラーの支柱とブレーキチューブにつけられた洗濯バサミが旅を感じさせ、キャリアに装着した板など自分なりに工夫したポイントが、これまでの自分の旅を思い出させてくれた。

これ以上回らない所までアクセルグリップを回し、減速ポイントを奥気味に設定し、全閉。リアタイヤがホッピングする寸前まで前後のブレーキをかけ、スパンと倒し込む。この感覚が楽しい。

当然自分の感覚がまだ戻っていないので、随分とろい動きなのだと思うが、自分的にはビリビリ来る感覚が沸き上がってきて、振りまわしている感じがオフ車独特の楽しさでもある。最近流行りのモタードは乗ったことがないが、ダートでリアタイヤが地面をひっかき、フロントが浮いてくる時に車体の重心の移動にあわせ、自分の体重ポイントをニーグリップした膝より上の腰の位置と、加重をかける外側のステップに移動し、バランスを取るのが楽しい。

1度だけアスファルトで転んだ時についたフロントフェンダーの傷が残念だが、やっぱりいいじゃないかと感じさせてくれた試走だった。

この車両になって11年目。もうちょっと乗ってみてもいいかなとあらためて思ってしまった。バッテリ端子をはずし、キャブのフロートのガスも抜いて、またガレージへ。この夏ちょっとツーリングに行きたいと思っているので、走るならばその前にオイル交換をしてやらないとと思うのだった。

その後、エスクードの水洗いと、ガラス面への撥水コーティングをする。こっちの方が時間がかかってしまった。DJEBELに2時間、エスクードの洗車兼コーティングに2時間をかけ、16時すぎにフィールドへ戻り、片づけを手伝って由と共に帰路へ。

帰り際夕食を作るのが面倒なので、よく行く和光の「とんでん」で夕食しながら帰った。

今日はハードだった。右の腕が張っているし、手首が痛い。風呂でゆっくり体をほぐして、目をつむると強い日差しの中、3桁を指すデジタルメーターの数字が視界に隅っこに写る、ハンドル先の風景を思い出しながら就寝。

写真はとある目的で改めて撮影したDJEBEL250XC。思った以上に快調で嬉しい。

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2008年05月21日

由のアジ練、本格的に再開(その1)

GWに私も一緒にアジ練に行ってから、ちょっと間があいてしまったが、今日からまたしばらく毎週のアジ練再開だ。

毎週のようにできる環境というのはよい事だ。それでなくても人や犬の時間を費やす時間が長いドッグスポーツなのだから、毎週続けられる環境があるのはとてもラッキーな事でもある。ましてやアジは大変なスポーツであり、犬との意志疎通が成り立たないとまともに走れないというものなのだから、練習なくては成り立たない。とてつもない時間を費やしている人が大勢いる世界なのだ。

私は前回走らせて貰ったが、今は見よう見まねでできる所までしかできないのは自分で分かっていた。実際はもっと練習をしていかなければ、もっとくーと意志の疎通をはからなければできないスポーツがアジリティ。簡単ではないのは充分に分かっている。

今回は私の用事がある関係で、今日は会社を休んで由に同行。大渋滞の谷原付近で1.5倍の時間がかかりながらも、お昼前にフィールドに到着。昼食も取らずに、練習場へ飲み物やクレートなど練習に必要な荷物を運び入れた。

挨拶もそこそこに、私だけ車でガレージへ移動。由が練習している間、私がやらなければならない事をしに行く為だ。裏道を走り繋いだが、幹線道路に出る所では大渋滞。今日はどこもかしこも混んでいるようだった。

ガレージは兄が仕事中。邪魔にならないようにエスクードを停め、置かせて頂いている屋内からまずは残っているロッキーの夏タイヤをどかし、バイクを引きずりだした。フロントのエアーが抜け切っている上に、扉近くに荷物が積まれているので出すのに苦労しながら青空の外に。みると埃がまんべんなく積もっている状態だった。

このエンジンは3年弱、火が入っていない。DJEBEL250XCはバッテリが弱く、まず1年以上乗らなければ必ずあがってしまう。端子をはずしておけば、何とか1年持つか持たないかという微妙な寿命だ。

キャブのフロート室のガソリンが終わっていると思い、覚悟しながら行ったのだが、3年近く前にちゃんとその事も考えていたようで、ガスはそれ以上抜けなかった。

ヤフオクで購入した中国製のMFバッテリーをセットアップ。最近安いバッテリーが色々出ているのを知ったのだが、その中でも比較的信頼できそうなブランドを選び、送料込で3000円弱のバッテリーを事前に準備していたのだった。これまで乗る度にあわてて近くの用品ショップやバイクショップで、DJEBEL250XCのバッテリを購入してきて、毎回10000円近くの出費を強いられていたので、正直ウンザリしていた。それが私の気に入らない点でもあった。XRはバッテリーレスだったにもかかわらず、キック2~3回で目覚めてくれていた。

しかしDJEBELのオーナーズクラブの情報から、秋葉原の部品屋で安いバッテリが手に入ると知って、まめにチェックしていたのだが結局欠品で手に入らなかった。しかし最近はそれよりちょっと高価だがそれでも正規品の1/3程度の値段で買えるバッテリがすぐに見つかるようになった。

タイヤのエアーを入れて、各部をチェックした上で、バッテリーを接続。イグニッションを入れるとデジタルメーターが点灯した。そしてチョークを引き、さあかかるかどうか、と唾を飲み込んで気合を入れ、セルボタンを押した。

…いともあっさりとほぼ1発でエンジンは息を吹き返した。正直、驚いた。

雑音もなく、カムチェーンの音がちょっと気になるが、これは元々このエンジンの音だ。消音された純正のステンレスサイレンサーは、小気味のよい単気筒の音を鳴らし、どちらかというとメカノイズが目立つ。しばらくバイクをサイドスタンドからはずして垂直にして暖気をする。

アイドリングが安定して、チョークを段階的に戻して軽くスロットルを煽る。レスポンスは問題ないのだが、このキャブは新車の頃からアイドリングがたまに安定しなくなる。それにスロットルを戻した瞬間に、スパーンとエンストをしてしまうのだ。

ストールしそうになるアイドリングの中、エンストしないうちにとヘルメットを被り、ワークブーツの紐を結び、グラブをしてまたがった。

久しぶりの感覚。夏のような日差しが腕に感じられ、大げさではないが10年前くらいの夏にタイムトリップしたような感覚が沸いてきた。

慎重にクラッチを繋いで、試走にでかけたのだった。

写真はDJEBEL250XC。年月は経っているが、屋内保管なのでエンジンもエキパイもリムも綺麗なものだ。

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2007年10月09日

ORP全国オフミーティング

すっかり参加できなくなってしまっているORP全国オフが、この3連休に行われた。

今回も結局体調不良や何やらで行けずじまいになってしまった。毎年必ず参加していたのに、申し訳ないやら、口惜しいやら。

場所は毎年変わらずなのだが、参加者は毎年着々と減っているのは事実だ。バイクから離れてしまった人も多く、私にしてもバイクに乗っていない。車だって参加していいのだが、何かとライフスタイルも変わってきていて、優先度が変わってきている事を否めない。

ORPはアウトライダー・パティオという、雑誌アウトライダーから派生した、パソコン通信ネットワーク、Nifty-serveの会議室機能PATIOからその名を取っている。アウトライダーが一旦廃刊になり、その後復刊したが、時代の流れもあって読者は減る一方。ツーリングする人も減っていっているようだ。

そしてバイクも乗り続けている人の過半数はBMWやハーレーなどの海外製大型バイクになっていき、そのスタイルも随分変わってきていると思う。それは悪い事ではなく、いわゆる団塊の世代が今、昔の免許で大型海外製バイクに跨がり、週末ツーリングを楽しんでいるという層は増えている事も、時代の流れだと思う。

私としては自分が住む環境の影響が大きいと思う。それこそ安心してバイクを置いておけない都会であり、盗難やイタズラがはびこる社会。ちょっとバイクを置く場所すらない事実などが大きな理由だ。それはもう20年以上前から問題としてあって、それでもしぶとく電車で1時間かかるような場所のガレージに保管したりしていたのだが、それでは結局本末転倒なのだ。

それが時代のせいとも言い切れないが、今も安心してバイクを維持できない環境であり、その状況は年々悪化している。いつか自分の環境だけでもそれが改善されれば、きっとまた私は乗ると思う。それができるなら、バイクで旅に出る事だっていくらでもできる。

何だか愚痴や言い訳のようになってしまったが、思う通り行かない事は歳を重ねるごとに増えていくような気がしてしまうのだった。スピリッツがあっても、リアルに叶わない事だってあるわけで。

写真は第1回のORP全国オフ。しらびそ高原で行われ、KLX650で肘掛け椅子を積んで行った。テントは当時愛用していたエスパース。

今年は主宰の須藤カメラマンの1泊だけ、数人いるスタッフは全滅という状況で、メンバーの人に申し訳なく思ってしまうのだった。

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2007年06月06日

哀れな愛車たち

私自身、結婚後はそれなりに北海道ツーリングも続けてきていたが、くーがやってきてからは、一人で長期間(といっても1週間ちょっとだが)の旅は控えてきた。別にそれは仕方なくではなく、気にならない状況でもあった。

古い旅人の友人たちも、結婚するとしばらく旅から遠ざかってしまうものもいる。また子供ができるとそれは顕著になり、なかなか子連れでは昔のようにバイクで気楽にツーリングなんかできる訳もなく、家族で車で旅をしたりするのが限界だろう。実際は旅をしている余裕がないし、実際しても心から楽しめなくなるからが、きっと遠ざかる理由なのだと思う。

しばらく子育てに明け暮れ、でも合間にはバイクに乗りせいぜい1泊程度のツーリングにいく事ができるようになると、ふつふつとロングへの思い入れが深くなってくる。子育てや犬の世話などは奥さんに任せて、という人もいるだろうが、私はなかなかそういう気にもなれない。由はこれまでも、一人で旅にいってくればと言ってくれた事もあったが、やはりなぜか心の底から楽しめなくなるのが分かるだけに、実行に移せない。

バイクのメンテナンスなんか、もうすっかりしなくなってしまった。私のバイクの場合は元々そんなにメンテナンスらしい事を必要としないモデルだったのだが、自分でエンジンやフォーク、ブレーキオイルの交換くらいはしてやっていたものだった。

2年動かしていなければ、ラバーやシール部分は相当痛んでいるはずだ。バッテリーはMFになってからはもう諦めるしかないのだが、タイヤにしても信頼度は落ちる。安心して飛ばす事ができなくなってしまっているはずだ。

何とかバッテリーレスのオフ車でも手元においておきたいものなのだが、なかなか代替できる車両がない。昔6万円で友人から譲って貰ったXR250RJなんかは最高なのだが、今欲しいと思えるものがないというのも計画が進まない理由のひとつだと思うのだった。

ガレージのある家、安心して保管できる場所、そして手をいれまくったリッタークラスのオンロードバイクに、250クラスの軽くメンテナンスフリーのオフ車が一番理想な構成なのだが…

写真はある夏の羅臼知床観光ホテル前で。ここの巨大な岩風呂がなかなかいい味を出しているのだ。

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2007年02月22日

ハーレーと私

ハーレーと言えばやはり映画「イージーライダー」。単純だが正直な気持ちだ。

私のハーレー経験は、アウトライダーパティオの全国オフで、XL1200spotsstarにちょっと借りた事位だが、スタイルでは私はスポスタが好きだったりする。黄色いタンクのスポスタは、ハンドルも重く、コーナリングも重さを感じるものだったが、アクセルを開けた時のトルク感はなかなか楽しかった。

ただ私としてはもっと暴力的でもいいのではと思ったりする。そう、XR600Rに乗せて貰った時のゾクゾク感はなかったのだった。その600RはDKモデルだったにも関わらず、当時乗っていた輸出仕様のレーサーに保安部品を付けたXR250Rと比べられないトルク感、弾き出されるか、ホイールスピンするかどちらかのパワーは、ワクワクしたのだった。ここでやっぱり私は外車に縁がない事を自覚してしまった。

交差点のスタート毎に、慣れないアクセルワークのせいもあって、バイクは横を向いた。ちょっと砂が浮いていれば、すぐにスピン。車両重量の軽さもあいまって、フロントのホイールリフトは気が向けばすぐにできたのだった。オフロードバイクなのだからまったく乗り物としては違うのだから比較する事自体がおかしいのだが…

ハーレーは旅するバイクとして使うには、相当な気合がいるはずだ。以前よりは故障も減ったようだが、オールドハーレーの存在感はやはり独特であって、それは旅にとても溶け込めるものだと思う。色鮮やかレーサーレプリカはやはり、ちょっと浮いてしまう。しかしそれも台数が多ければ、段々と慣れてきてしまうようで、荷物を積みにくいリアに大量の荷物を積んだレーサーレプリカのバイクも、そんなに嫌いではない。

ただやはり、絵になるものというのは違う。例えば私がこれまで乗って旅をしてきたバイクでは、なかなか絵になりにくかったのは、RG250ガンマ2型、KDX200SR-G1。どちらもハデな色あいだったが、振り分けバックをリアにして、折り畳みのパイプチェアを乗せて旅をした。

逆に絵になったのは、SRX4YSP、ZX-4G1、GSX750S1、KLX650D1、DJEBEL250XC。これらはどんな風景の中でも絵になると私は感じていた。古い町並み、都会の街角、港町、山村など。そして荷物を美しくパッキングしていればもっと絵になった。

絵になったかどうかよく分からないのは、MR50、XL250Rc、GPz900R改、SuperCub90。それなりにあうのだろうが、特に900Rなどは雨で乗りたくないほどに磨きあげ、改造をしていたので、荷物を乗せて永源寺まで往復した夏と、浅間でハーレー乗りたちのキャンプに参加した時以外は、キャンプ用品を積んだ事はなかった。

ハーレーは広大なアメリカ大陸がやっぱりイメージになっている。ドゥカやBMとはまったく違う。ハーレーはバイクではなく、ハーレーなのだから。

写真はXR600Rのパワーを求めて、半年も納車を待った、黒いKLX650。とある峠のカーブで、パワーリフトして曲がっていく所。こんな芸当も簡単ではあったが、林道では重さで体力なしの私は参った。Rなしだった為、その重さとパワーのなさに失望した車種でもあった。

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2007年01月19日

北海道一のバイクショップ

長年私の旅の目的地としてあった、中標津は開陽台。そこで過ごす時間は私にとって特別だった。日々、何をするでもなく、たまに知床や根室、釧路あたりまで日帰りで足を延ばしたり、1歩も丘を降りる事がなかったりもした。

それだけの期間滞在すると、やはりバイクにトラブルも発生する。カタナの750で行った年、初めて電気系統にトラブルがおきて、バイクショップにお世話になったのだが、実はそれ以前から通い続けてきたバイク屋があった。

それは今でも、修理の用事がなくても必ず中標津にいけば立ち寄る所の一つでもある。

バイクブームの時は、多くのミツバチ族がバイクに乗って北海道を旅していた。そんな中には結構多くの割合で、北海道の道や自然をあまり考えずにやってくるのも多い。

またテンションがあがり、事故を起こしてしまったり、転倒してしまったりもするものだ。そんな時、力になってくれるバイクショップは貴重な存在でもある。

バイクショップといっても、私や私の知り合いはここをバイクショップとあまり思っていないのではないだろうか。兄貴というか、親方というか、何事も頼りになる御大がこのショップのオーナーだ。

違うメーカーの部品を使って応急修理は当然、純正なみに修理してしまう事も多くある。息子さんと共にレースの巡業もしていたり、北海道でこれほどのバイクショップには出会った事がないと思えるほどだ。

しかし反面、礼儀がなっていないお子さまには厳しい。挨拶すらできない子が多かったというのもある訳で、苦労して修理してもお礼の一つすら言えないのが多かったのも、私ですら感じる事ができた。

この御大は単なるノウハウだけではない。オフロードバイクが専門であり、山を駆け回る事がよくあり、私は一緒に走った事がないが、そのダイナミックなライディングはそう簡単に追いつけるものではないらしい。そしてそれを聴いていただけに、私は怖くて一緒に走ってはいない。

開陽台にハイジーの家がなくなってからも、このバイクショップや、道東に住み着いた友人などが沢山いる。私にとっては、道東はやっぱり落ち着く場所であり、目的地なのだと思う。

写真はそのバイクショップの外観。何度この店内でコーヒーを頂いた事か。ちょっと離れたこのバイクショップの車庫の一つには、私の古い友人が住んでいる。

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2007年01月18日

パンクの苦悩2

パンクの修理をしている場所は、奥にはトラックが何台も入る整備工場を持ち、広大な駐車場を持つ小樽の三菱ふそうの事業所の正門横、歩道との間にある芝のスペースだった。

事業所の人が1人、出勤してきた。私は頭を下げて、場所を借りている事を詫びながら引き続き修理をしていると、その人が車を停めて一旦事務所に入ったあとにやってきてどうしたのかと聴いた。

パンクの事と、これから船に乗る事だけを言うと、その人は事務所に戻っていく。外にも数人出社してきたので、恥ずかしい目に晒されてしまうのだが、構ってはいられなかった。

すると、一番先に出社してきた方が、タイヤサービスを呼んだから、中で到着するまで待っていなさい、と声をかけてくださった。申し訳ないのでオフィスに入るのは遠慮していると、20分後にはヨコハマタイヤの文字が書かれたタイヤサービスのトラックが到着。最初チューブという事でちょっと困ったような顔をしたのだが、手際よくチューブを専用の工具で引きずり出し、修理してくださった。

修理を完了したタイヤを組み込み、チェーン調整するのは私だった。友人に手伝って貰い、組み込む。無事修理が完了したのだった。

タイヤサービスの人も修理代を500円しか取らず、お礼を言うしかなかった。また最初に声をかけてタイヤサービスを呼んでくださった方は、お礼を言いに事務所に行った時に知ったのだが、管理職の方だった。

丁寧にお礼を言い、大勢の事務所の方が手を振って見送ってくださる中、私はフェリー埠頭に向かい、無事乗船できたのだった。感謝してもしきれなかったが、帰宅してからお礼を包んで感謝の手紙を添えて送った。

その後、三菱ふそうの問題が大きく報道され、あの人たちもきっと何かしらの影響を受けてしまったのだろうなと悲しく思い出したりもした。私は三菱の車は好きだし、販売店の人にも悪いイメージはなかった。そしてこの出来事もあり、迷惑をかけてしまったが、旅の中で人の恩というものをまたひとつ、味わったのだった。

乗船後は汗だくだった体を甲板で冷やした。風呂に入り、やっとほっとできた。

新潟には朝に接岸。同じ船に乗り合わせた友人には、じゃあ、と声をかけ、そのままノンストップで北陸自動車道から関越経由で、自宅に帰った。修理したタイヤも問題なく高速走行をする事ができた。

…余談だが、この時、石打の手前のパーキングエリアに1台、シルバーのBMW1150GSが停まっているのを高速巡行中に横目でみかけた。その後、しばらくしてそのBMWが追い抜いていくのだが、その時並走してハンドアクションを私にしてきた。まったくそのバイクと目に気付かなかったのだが、後日それが誰だか判明したのだった。

それは単に私がその日、新潟から帰って来るという情報を知っていた友人が、わざわざ東北道から北陸道経由で関越という1周コースでこの一瞬のネタの為だけに走ってきたのだった。彼は私を追い抜く2~5秒だけの為に、やってきたのだ。あとで私が正体に気がつかなかったと言うと、ヘルメットのシールドをあげるんだったと悔しがった。

バイク乗りというのはそういう人が多い。

写真は修理を終え、乗船開始しているフェリーターミナルに到着し、手続きを終えて乗船する寸前の1枚。何気ない毎年の夏の1シーンだが、この時は本当にへとへとだった。

今日のニュースで三菱ふそうのリコールの件が出ていた。お世話になった小樽の事業所の方々は、何も悪くない。その事を思うと心が痛む。

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2007年01月17日

パンクの苦悩1

車でパンクした事はこれまでないのだが、バイクでは何度かあったりする。

自転車でのパンクがやはり一番多く、ユーラシアのチューブは結構クタクタだった。当時はチューブラーの存在すら知らなかったし、自転車というものは補修キットを常備する事が当然だと思っていた。

車はでも、テンパータイヤに交換した事はある。それに、今年は何故だかやっていないが、毎年スタッドレスタイヤと鉄チンホイールのセットを組み換えるのも私の仕事なので、交換はよくやっていると思う。

バイクは、結構林道やら何やら走り回っていたわりには、パンクはなかった。しかし、2002年の夏、小樽のビジネスホテルで北海道ツーリング最後の夜を過ごし、翌朝の新潟行きフェリーに乗る朝、走り出した途端にリアがおかしい事に気がついたのだった。そう、見事にパンク。

今でも怪しいと思っている。真新しい5寸釘がブロックタイヤの山の間に突き刺さっていたのだが、ホテルの玄関脇に停めていた事で、夜にいたずらをされたのではないかと。それからはフェリーの出航の時間もあるので、行ける所まで行こうと徐行しながら移動したのだがリムが痛みそうだった事と、チューブが切れてしまってはもう修理もできない為、しばらく押して、フェリーの煙突が見えた所で何かほかに方法がないものかと考えた。

ビジネスホテルに同泊したZX-9とTDM850の友人が心配しながらも、どうする術もない。私は三菱ふそうの大きな支社があり、その前でバイクを停め、まずは荷物を降ろした。

観念して修理しようと思い、使えるかどうか分からなかったが、パンク修理キットを出し、センタースタンドがない為、壁によりかからせてリアタイヤを外す。

そして既に堕ちているビードの隙間からチューブを引きずり出そうとするのだが、これがまた硬く、チューブが出て来ない。四苦八苦していても時間はすぎていく。あと1時間以内にターミナルに行かないと今日の船には乗れなくなる事で、焦りも最高潮に達していた。

写真はその修理中に、疲れはてて一息ついた時の1ショット。ロシア語の看板が国境が近い地である事が感じられる。

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2006年05月22日

本棚にある思い出

本棚には色々な本が収容されている。それは当然だろう。

我が家にはリビングと納戸のような使い方をしている私の部屋がある。前者は基本的に普段の生活で一番使う料理本や地図、カタログなどを中心に、各種家電製品などのマニュアルや、生活に必要な書類が収容されている。特に「書類」と言われるものは領収書や契約書、明細などであり、それらはクリアファイルやフォルダに入れられて整理されている。

その中にオークションに出品しようとしていた、古いバイクのサービスマニュアルがある。車種はヤマハのSRX4の初期型。今ではもう売られているのすら見かける事もないモデルだが、私にとっては一番長く乗ったバイクだった。日本縦断をしたのもこのバイクだった。

サービスマニュアルというのは、データブックのようなものだ。キャブのクリーニングや点火タイミングの調整方法、ホイールの外し方なんかも載っている。昔はこの本を地面におき、閉じないように重りになるものを載せて、バイクの傍らに座り込んだものだ。特にSRXはキャブに入り込んでいるチョークワイヤーがやっかいで、なかなか苦労させられた。

何度も土砂降りの中、水が入り込んで錆び、チョークが引けずにエンジン始動で苦しんだ事か。一度は5km離れたホンダのバイク屋まで押していった事もある。ホンダのメカニックも、その構造をあまりよく言わなかった。メーカーによって随分違うものなのだなという事もその時から感じていたのかもしれない。

最初に乗ったバイクであるヤマハのMR50も、土砂降りの中でいきなり電気系統が沈黙し、途方に暮れた事があった。それも、キルスイッチがリークしたせいだった。原因はスイッチの金具の無駄なバリがあり、それがリークの原因だった。ヤマハとの相性がイマイチなのは、そういう経験からだ。単に私が整備をしなかったせとも言えず、相性の問題なのかもしれないなと思ったりした。

SRX4は主にトラブルといえばその程度だった。シートカウルを交換したり、ウィンカーを小型にしたり、ハンドルをマグラに換えたりと、自分なりにカスタマイズした。その為、サービスマニュアルを活用したのだが、今こうしてこのサービスマニュアルだけが残っている事が何だか寂しい。

これまで色々なものをヤフオクで売ってきたが、思い出深いものも含めて、今は次のオーナーがどう使っているのだろうかとちょっと気になる。

今さら売りに出してもきっと買い手はつかないだろう。それでもなかなか捨てられない。そんな本が、今も居間の本棚に佇んでいる。

写真はまた素顔を晒してしまうが、もう随分昔、私が今の会社に入って、会社でバイク乗りを探してはじめてツーリングに行った時のもの。自分でも若かりし頃を思い出してしまって思わず笑いが出る。このSRX4は4年半乗っていた。

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2006年04月20日

料理のできる人

とある平日の夜、女性タレントが料理の腕を競うバラエティ番組を見た。以前時間帯が別だった頃に結構面白くてみた記憶があるが、最近はこの時間に帰ってこれるかどうかわからないので、久しぶりだった。

ジャニーズのTOKIOが出た時は、好きな番組のひとつ鉄腕DASHで彼らの料理の腕は相当だろうと思っていたのだが、実際やってみるとその番組が本当に彼らがやっていたのかが怪しい程だった。ただ確かにその中で料理といえば出てくる2人は、手順をみてもこれは経験がある人だなというのが分かった。

料理というと、以前は女性が本領発揮というものだったのだろうが、実際料理屋に行っても厨房で働くのは男の方が多い。家庭で好きでもないのに台所に立って料理をしなければならない、いわゆる専業主婦は、いつしか義務という言葉で苦しんでいる事が日常になってしまったのではないだろうか。

私は小学生の頃から鍵ッ子だったので、自分で台所に立つ事は少なくなかった。それは自分が腹が減ったから作る、というこれもひとつの必然であり、誰から言われてやった訳ではない。その部分に大きな違いがあるのかもしれない。ちなみに由は掃除も洗濯も工作も好きだが、料理だけは嫌いなのだ。

平日の多くは仕方なく台所に立って夕食を作ってくれる。別に下手な訳ではない。料理の本を手に、その通りに作るというのが由のスタイルで、私のようにあるものを適当に入れてするメニューは出てこない。私の場合はカレーに大根やカボチャが入っている事があるのだが、由のカレーにはそういうものは入っていない。

そのテレビ番組の女性タレントは、殆どがテレビの絵的に盛り上がる為か、一般的に料理をした事がないというのを連れてくる。ある意味可哀相なのだが、そんな中で料理上手という女性も当然居る。まさかこの人がと思っていたらとても気配りのある料理を作る事ができる人だったり、想像を絶する料理方法で作る人も居た。それはそれで面白おかしく観る事ができる。

ただ私はいつも思うのだが、とてもよい食材を使っているのに、とても勿体ない料理のしかたをされる事が多い事が残念だ。その価値だけでなく、生き物であったり、食べ物である価値のあるものを、あまりにも粗雑に扱う場面が許せないのだ。

心が狭いと言われるかもしれないが、やっぱり見ていて気持ちのよい番組がよい。一生懸命料理する姿はとてもよいのだが、甘えた料理の仕方をしている人をみると、少々腹が立つ。そしてそういう人が居た方がテレビとしても面白い訳で、それがまたわざとらしくて気に入らない。もっと素直に料理番組を作れないものなのだろか。

と愚痴のようなものになってしまったが、本題は別にある。その女性陣と対決するグループとして、あの石原プロのメンバーが出演した時だ。西部警察のシーンが流れ、私は懐かしく思った。私は結構好きで見ていたのだ。そしてその中にあの両方のバックミラーのない、明らかに違法の黒バイ、カタナ1100が出てきた。そのあと、石原プロの倉庫のシーンが出て、そこに実車があったのには驚いた。ちゃんととってあったのだ。

カタナといえば銀というイメージだったのだが、私にとってのカタナは黒。真似たといえばそれまでだが、シリンダーヘッドがガソリンタンクの幅を越えて張り出している当時の空冷エンジンは素晴らしく迫力があった。そしてあのデザイン。私の中の永遠の1台だ。

他にもスポンサーを受けていたスズキ車が何台が見えた。黒一色のGSX-R1100、GS650G、そして車は日産車ばかりなのだが、壮観だった。

石原プロのメンバーは、社長を含め料理の腕は本物だった。若いタレントは名前すら知らないだけでなく、やはり料理の腕はまったく望めず、逆に熟練の俳優達は殆どみな料理の腕は素晴らしかった。芸能人というのはこういう事を言うのではないかと思ったりもした。顔やスタイルがいいだけではだめなのだ。中身もある者がやはり本物なのではないだろうか。

写真は昔乗っていた750カタナを開陽台付近で撮影。前にも書いたが、エンジン以外は全て1100で、オールペンとレザー張り替えをして、元が2万のバイクが総額15万程でこのようになった。

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2006年03月30日

やっぱり好きなXR

こんなに体中が痛いという、お粗末な状況なのだが、なぜかバイクに乗りたい。きっとそれは春の兆しが明らかに感じられるからだ。そうに違いない。

会社帰りは雪でも降りそうな真っ黒い雲が職場周辺を覆い、突き刺さるような寒さの風が吹き荒れていた。まるで2月に戻ってしまったような感じさえするのだが、春らしく寒くなったり暖かくなったりと、一進一退をしながら季節は変わっていく。

昨日は帯広公害の中札内で記録的な積雪があったようだ。斜里でも結構降ったようだ。北海道もきっと冬と春を行ったり来たりしながら、着実に季節の移り変わりが進んでいくのだろう。

なぜかオフロードバイクに目がいく。最近街中で走っているオフ車は、殆どモタードと言われるオンロードの小径タイヤが装着されている。サイレンサーも結構な確率で交換されている。そしてまたかなりの確率で半キャップを被っている乗り手なのだが、たまにちゃんとしたヘルメットを被っている乗り手もいる。そういうのは乗り方自体が完全に違う。

そういう姿を見ると、動かしてやっていない私の愛車、DJEBEL250XCが不憫でならない。4月いっぱいまでは何かと忙しいのだが、5月あたりになったらメンテナンスをしてやろうかと思っている。ただ気になるのは、手がかかるバイクという事。バッテリはもう確実に買い換えなければならないだろう。何かとお金がかかる車種だ。

それと同時に、できれば程度のよいXRが見つかれば乗り換えたいとも思っている。ヤフオクを見たり、中古バイクサイトを見ては、なかなかそそられる車種がなくて諦めているという状況なのだが、実際これだと思える車種なんかあるわけがない。私の欲しいXRは10年ほど前のモデルだからだ。当然、ネットで探したって程度がよいかどうかなんてわからない。

硬いピレリMT21を履かせて、バッテリーレスの市販レーサー。自分にあっているのはやはりこの車種なんではないだろうか。

写真は依然乗っていたXR250RJ。友人のセロー(現在も現役)と一緒に、フェリーの乗船を待つ朝。

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2005年12月16日

コーナーの向こう側へ

というタイトルでも、山川健一氏の著書の事ではない。

我が家の近くに、ちょっとした起伏のある道がある。

箱根山地区と言われるちょっと高台。昔軍事施設があったようで、私が小学校、中学校時代は、とても広大な森に見え、少々不気味な雰囲気さえあった。今ではすっかり散歩コースや通勤コースになっている。

私はバスを行きとはちょっと違う、手前で降りて、街灯の少ないカーブと坂が続く細い道を下り、朝とは別の方向から家に帰る事が多い。徒歩で15分程の道のりだ。

このコーナーはブラインドになっている所も、S字カーブもあり、それがフラットではなく勾配がついている。抜け道としてタクシーやトラックが飛ばしていくのだが、一応歩道とはしっかりガードレールで分けられているので安全ではある。途中1つだけ信号のある横断歩道があるのだが、押しボタン式である事と、車が来なければ赤信号で渡ってしまう人しかいないので、めったに赤にならない。

ここをバイクで何度も走った事があるのだが、なぜか攻めるとまではいかないが、ちょっとだけキビキビしたコーナリングをしてしまう。別に必要性はまったくないのだが、そこはバイクに乗っている人間の性なのかもしれない。深いカーブ手前のS字では、筑波サーキットのS字を駆け抜ける平忠彦よろしく、逆の重心をかけたまま切り返したりしてしまう。

夜は特に街灯の部分だけしか飛ばしていると見えない。しかし山道を走るように、点々と間隔をおいて立っている街灯下の道路だけが、ぼんやりと照らされている中を、ストロボに照らされるように、街灯と街灯の間の暗闇と、照らされた明かりの続く真っ暗な道を駆け抜ける。

アスファルトは街灯に照らされ、光っている。そんな道をみていると、ツーリングの帰り、日が暮れた奥多摩や秩父の山の中を、飛ばしている自分を思い出してしまう。デジャヴ、とまではいかないが、真っ暗な世界に、曲がりくねった道を照らすように等間隔で並ぶ街灯の明かりは、独特の世界ではないだろうか。

普段の会社への行き帰りの中に、そんな事を感じさせる道が1本あるという事は、ちょっと嬉しい事だ。バスを使う事で、バックパックを背負い、郊外のバスで移動しているような気分もあって、少しだけ気分転換になるのは、時間こそ早く到着するが、山手線ですし詰めにされながら帰るよりははるかに気分的によい。

たまにそんな事を思っている時に、スロットルとギアをうまくあわせながら美しく走り抜けるバイク乗りをみると、もっと嬉しくなってしまう訳で…

写真は随分昔、旅先で撮影する為に移動中の1シーン。あまり意味はない。

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2005年11月17日

葉の色づく頃

毎朝今シーズン冷え込み記録が更新されているらしい。通勤の時に聴いているJ-WAVEで知らされる。まだ夜が明ける前に起きてきて、ほんの30分準備やら何やらをしているうちに空は白んでくる。

この季節になると、雲の少ない高い空が段々と鮮やかに色が変わってくるのが見れる事と、どう考えても綺麗ではない大都会の空気でさえ、少しは爽やかに感じられる。ただ眠くて寒くて、布団から出るのが日増しに億劫になってくる。その勢いで休んでしまう事もこれからの季節、月に1度くらいはあるだろう。

社会人になってから5年間連続で、11月の上旬に標高1600m程度の林間で数日のキャンプをしていた。風呂に入ったあと、ちょっとロープに干しておいたタオルが干された形状のまま、氷ついている事もある気温だ。夜は焚火にあたりつつ、年を重ねるごとにメンバーも増え、装備もキャンプといいつつも、巨大な鍋などが増えて、それでも必ず林道を抜けてその地でジャムっていた。

斜面の中、少しでもフラットな所にテントを張る訳だが、白樺林の中なので、ちょっとした貸し切り気分になれるサイトで、見上げると空はあまりよく見えないが、それでも枝や葉の間から、星がきらめいていた。ささやかな楽しみだった。職場の人に話をしても通じない遊びだ。でも会社の中には、結構バイク乗りが居て、キャンプに興味をもち始めた友人が居たのだが、9割以上完全にバイクを降り、キャンプなんかしなくなってしまった。確かに当時はブームだとも言えたので、そういう時期だったのかもしれない。

ブームを越えて、今同じ遊びをしている連中は、やっぱり同じなようで、一風変わっている。普通に見えて、普通の遊びにはあまり興味を示さない。面白いもので、やっぱり久しぶりに会っても、髪に白いものが混じっていたり、太ったり、子供ができたりしていても、あまり変わっていない。皆それなりに生活している訳だから、時代に取り残されている訳ではないのだろうが、でもやっぱり筋の通った変わり者はそういう匂いがするようだ。

私もバイクには殆ど乗らなくなってしまったが、でもまた来年はバイクで旅をするだろう。若い頃はバイクに乗っている事にこだわり、乗らない人とは話題も換え、降りてしまった者はよい目で見なかったりした。しかし人それぞれの乗り方がある訳で、それは決められたものではない。

誰にみせるものではない。誰かに言われてする事でもない。自分が決めるまでだ。そう思える歳になったとも言える。

今日電車の窓の外を、看板を背負ったGPz900Rが抜いていった。Kの方でもZの方でもなかったようだが、背中から感じるものが、私にも伝わってきたような気がした。看板を背負って走る事は、カッコいいからするのではない。根底にあるのはヘルズ・エンジュエルスの精神なのだろうが、見えない看板を持っている者も沢山いるだろう。ただ悲しいかな、以前はよく街中を元気よく駆け抜けていく姿を見かけていた彼らを、最近とんと見なくなってしまった。

ロング・ライダーズ。まだ当分、バイクで旅に出られるだろう。落ち葉の敷きつめられた道を走り抜け、舞い上がる紅葉した葉がそれを知っている。

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2005年09月13日

うなされて浮かぶもの

流石に39.2度まで株式市場の大商いのように盛り上がった熱は、そう簡単に下がる事もないので、今日も相当へこんだまま、なんとかノルマをこなした。熱をはかると随分下がってきているが、また明日盛り上がらなければいいが…

という事で昔の話。何だか段々と露出する事が多くなってきたが…昔の写真ならよいだろうかと思ってみる。眼鏡も今はセルフレームではないし、髪の毛の白髪もないし…熱もある事なので、こんな写真を載せてみる。あとで後悔する可能性大だが…。

土曜にツーリング?をしている旧車のオジサンをみかけてから、やっぱり頭の片隅に大きいバイクでのツーリングを思い出してしまう。熱にうなされているせいか、走っている時の些細な出来事も思い出したりしつつ、頭の中はまったく熱のせいで整理がつかないような感じだ。

GPz900Rに乗る前、というか同じ時期にこの750を所有していたのだが、以前も描いた通り、私はこのカタナに大いなる魅力を感じている。別にマンガで有名になったからではなく、この重くて遅くてアメリカンのようなディメンションのこのバイクは、色々時代を映すストーリーがある。

認可されなかったクリップオンハンドルや、カウルとは言えないがこれまた認可されなかったスクリーン、そして何より前モデルのGSX750E(1100E)とまったく同じフレームで、殆ど独創的なハンス・ムートのライトカウル、タンク、サイドカバー、シート、リアライトカバーだけが乗っかっただけという、パーツリストを手に入れてからあまりに赤ベコとの共通部品の多さに驚いたものである。

写真から少しだけ判るが、ニッシンのタンク別体ブレーキマスターや、初期型750には認められていなかったスクリーン(縁取りされたラバーは取り外してある)、シビック用のウィンカー、ライト下の整流板、グッドリッジのメッシュホースはANDFも生かしてある。フォークスタビライザーやデザインは一緒だがサイズが違う1100用のホイールなど、実にどうでもいいこだわりが施されている。

どんなに引っ張っても200km/hに達しないエンジンは、ほぼノーマル。キャブのオーバーホールだけのエンジンは、やはり当時の美しい空冷フィンや腰下部分の飛び出しが迫力のあるものだ。空冷エンジン、そして「ナナハン」がらしさを主張していたのは、このエンジン部分が殆どではないかと思う。CB750Fにしても、真上からみるとガソリンタンクよりも幅があり、カムカバーが存在感を主張していた。当時のエンジンの美しさというのは、隠さず見せる部分にもあったのではないだろうか。

古い友人の中では、カワサキ派と言われていた私だが、メーカーにこだわりはあまりない。GPz900Rでナナハンとリッターバイクの壁を一気に越えてしまったのだが、しばらくこのカタナと同時期に所有していた。その理由はまったく違った乗り味と乗って楽しいと思えるバイクだったからだ。

当時まだ20代中盤。バイクで旅する事がライフスタイルだという為には、当然限定解除を持っていなければと思い、免許取得前にGPz900Rを購入するが、友人から納車前にカタナを譲り受けてしまった。私のビックバイクライフはこのカタナから始まる。

激しいカスタムが施されたカタナも、嫌いではない。しかし、ノーマルと見間違うスタイルで、実はちょっと違うというようなカスタムの方が好きだ。このカタナもそのコンセプト通りに仕上がっている。

こういうバイクを休日にみかけると、妙に嬉しくなってしまう。ただみかけるだけでなく、できれば元気に走っていて欲しい。おお、と思わず声を出してしまうように…

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2005年09月10日

ツーリング風景

週末、キャンプにでかけた。

10時に上信越道の横川SAに集合という、私たちにしてはゆっくりのスケジュールだったのだが、都会生活者の性というものだろうか、渋滞嫌いな私は6時に出発、といいたい所だが、ダレてしまい6時半に出発となった。

JATICの情報では、関越に乗る前に混雑がある程度で、今の所ルート上はクリア。途中関越に乗る直前で大型バイクが10数台待ち合わせをしているのか、それっぽい姿をしたバイク乗りが目立った。ラッキーな事に混雑もなく、関越に乗る。ETCゲートを潜り、本線に入る。料金所手前でも多くのグループツーリングの待ち合わせ姿があった。

一気に横川まで行ってしまうとどうみても時間は1時間半以上あいてしまう。その為順調に外環合流、三芳PA付近と渋滞ポイントをパスできたので、ドッグランがるという高坂SAへ入る。ここにも多くのグループのバイク乗りが沢山いた。しかしソロは殆どみかけない。なんでだろう。

バイクはざっと見回しても50台以上。その1/3はカローラ以上の価格のBMWだ。そして他の1/3はビックバイク。ライディングウェアも最近はお洒落になったのか、殆どがレザーで、聴いたことのあるブランドマークが付いている。私の時代であれば、せいぜいラフ&ロード、ちょっとグレードがあがってクシタニが正統派で、KISSやらNANKAIみたいな、ちょっとセンス的に好みではないウェアもよくみかけた。

そんな中、おやと思った人が数名。ソロっぽく感じた人で、マッハIII、そして別の所でCB750K0あたりのOHC 4本マフラーのマシンに乗る年配の人。どれも綺麗に磨きあげられていて、ずっと乗っていたのか、あとから手に入れてレストアし、磨き上げたのかわからないが、私の乗り始めた時代よりも前のバイク達だ。

高坂SAの、斜面を強引に囲い、飼い主が犬の糞を取ったりする時に転びそうな斜面に椅子まであるのだが、これはちょっと整地してからではないと無理ではないかと思えるドッグランで少し遊ばせ、ホットドッグの朝食を食べたあと、SAをあとにした。

上信越道の分岐の手前、さっきの綺麗なマッハIIIが追い越し車線を勢いよく抜いていった。速度的には200km/hも出ていないだろう。その後ろをピッタリとニンジャGPz900Rがついていく。思わずニヤリとしてしまったが、いくらなんでも追う方が有利な車種なので、逆なら面白かったのに、と思ったりするのは、まだ血が騒ぐ自分を感じたせいだろうか。

アクセルを踏めば免許取り立てでも200km/h以上の速度を、エアコンを効かせ、カーステレオを聴きながら出せる最新のスポーツカー達が同じような事をしているのではない。単にまっすぐ走る事すら神経を尖らせ、ものすごい振動とロードノイズと風切音の中、ヘルメットで囲まれた狭い視野の中で走る事に、何の価値があるのか。

それは乗って見たものでなければわからない。ふた昔前のGPz900Rですら、楽にその速度域で走る事ができる時代、どんなに頑張っても200km/hの時代のバイクでそういう事をする人は、やはりネジ者なのかもしれない。速度という数字ではない。その車種での最大の速度というのは、自分との戦いだから。

私の今の相棒、DJEBELで平均100km/h以上で走るようなものと似ている。何より荷物をフルで積載していると、120km/h程度しか出ないのだから。

そして、待ち合わせの横川SAに、集合時間の1時間前に到着した。

写真はそんなコトをやっていた頃のもの。新しい世界を見させてくれた、GPz900R A7改。筑波サーキット裏で。401モデルのフルスケールメーターを振り切る実力があったが、既に実メーターで320km/hが刻まれたZZ-R1100にフラッグシップを譲っていた時代、10年近く前のモデルが動力性能で叶う訳がないのだが、私が好きだったこの車種で、私は走りたかった。

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2005年07月10日

おつかれさん

由は私のパートナーであり、旅仲間でもあり、バイク仲間でもある。多くの旅の中で知り合った旅人の一人であり、その中で縁があって今こうして一緒に生活を共にしている。2年前にやってきた、くーという尻尾の立派なコーギー・ペンブロークと3人住まいだ。

由は元々神戸の出身で、大学時代に自転車に興味を持ち、何を思ったか突然北海道へサイクリングに出かけた。初めての旅は、由にとってはあまりに色々な事があったようだ。そして、和琴半島に辿りつき、一夏をそこでアルバイトをしながら過ごした。この時、和琴で出会った旅人は、今も付き合いを続けている。

和琴の夏、バイクで来ていた旅人の後ろに乗り、夜明けの摩周湖や知床なども走りまわり、ある日熊の湯で知り合ったとあるバイク乗りの女性に、由は声をかけた。

「私でもバイクに乗れるんでしょうか?」

彼女は、阪口エミコさん(現、シール・エミコさん)といい、当時モーターサイクリストで企画を持っておられ、熊の湯もその企画の取材で来ていた。エミコさんとは、その後私は地平線会議で初めてお会いするのだが、当時パートナーとして一緒に自転車で長い長い世界一周中の旅の途中、重い病気を患い、緊急帰国し闘病生活に入られていた。

無事回復され、今は元気にされているようで本当によかった。その彼女は由に、あなたでもバイクに乗れる、という事と言ってくれたようだ。由にとってはこのエミコさんからの一言が、バイクに乗るきっかけになった。エミコさんも当時の事はうっすらを憶えていて頂いておられた。私は地平線報告会でレポートを書く機会がある関係でお会いしたのだが、由とは改めてちゃんと再会をしたいと思いつつ、実現できていない。

由はその話を胸に神戸に戻り、中型自動二輪の免許を取り、SX200Rという当時では旅人バイクとして名高く、女性ではなかなか選ばないトレール車を手に入れ、北海道や四国や九州にツーリングに出かけた。よく転び、交通事故も1度経験し、ご両親は本当に心配されたようだ。

後にSXは和琴の知り合いの手に渡り、今は北海道の牧場で働いているとも聴く。由は、次にセローのセル付初期型に乗り換えた。これはフロントフォークを1cm突き出し、足つき性を改善し、リアキャリアやキックなども装着された旅人バイク仕様。私が由に最初に出会った天竜川の河口の砂浜で、由はスタックし、このセローを放置して歩いてキャンプ地にやってきたのだが、私が特にこれといった感情もなしに、和琴の友人なので放置されたセローをサルベージをしてきた。それが正式な由との出会いだったと思う。

このセローは他に、阪神大震災も経験した。由のご両親や親戚は、女のくせにバイクに乗って、というようにあまり喜ばしくない印象だったのだが、この震災で瓦礫や舗装が割れた道を走り回り、断水した親戚の家に、山の方で水を汲んできたペットボトルを配り、避難所でも力になっていた事で、トレール車に乗る由に対しては、とてつもなく力強く感じられたと後に聴いた。そう、バイクなんていう対して役にたたない乗り物が、緊急時にどれだけ威力を発揮するかを、身をもって実践したバイクでもあった。

私が東京から神戸に乗って行ったり、一緒に四国や北海道をツーリングしたり、ORPの全国オフミーティング会場だった岐阜の山の中で落ち合ったり、一緒に旅した思い出深いバイクだった。

由が東京にやってきてから、バイク2台でツーリングする回数は激減し、私としても都心のタクシーや違法駐車の多い道を由に走らせるのは正直避けたい事もあって、もっぱら車で出かける事が多くなった。私はというと、ささやかに夏だけはソロツーリングに出るので、何とか毎年乗ってはいたのだが、私が気がついた時にセローはエンジンをかける程度で、殆ど3年はまともに走っていなかった。

税金だけがかかり、既に昨年から自賠責も抜いてしまったセローを、どうしようかとは思っていた。ヤフオクで売ってしまう事も考えたが、まずは和琴の友人、ノリちゃんに乗って貰えないかと話をしたが、結局成立しなかった。ノリちゃんには、私のリアサスが抜けたXR250RJを譲った事があるのだが、今はもっと小さい200ccあたりに乗りたいという事だった。

しばらく忘れていた頃、友人のじみおからセローのエンジンを探しているという話が舞い込んできた。エンジンといわず、本体があるという事を返した後、実はそのエンジンを欲しがっていたのは開陽台の友人のjojo氏だった。

そして日程調整の後、今日朝から埼玉のガレージまで足を運んで貰った。

私は朝6時半に自宅を出て、jojo氏が来る10時頃までにバッテリーを充電しようと思ったのだが、外しておいたバッテリーが見つからない。またエンジンをかけようとフューエルコックを開けると、コック部分とキャブのドレーンからガソリンがボタボタ落ちてきた。シートやタンクを外し、コックを分解してみると、どうもパッキンがおかしいらしい。状況をjojo氏に伝え、バッテリとフューエルコックASSYを持参して頂く事にした。

現地にjojo氏が到着し、フューエルコックの交換とキャブの清掃を行ったが、ジェットがすっかりドロドロのガソリンで詰まっている事や、フロートが動作しない事で自走できない状況なのがわかった。彼はZ1100RやGPz750、VFR750などを所有する根っからのビックバイク乗りであり、古いバイクの手の入れ方を知っている。私はキャブなんかそうそう外す事はしたことがない。分解するにもはずれない部品が多数。キャブクリーナーやブレーキクリーナーを使いなんとか動くようになるまでに2時間弱かかってしまった。

アイドリングが不安定で、下が安定せずアフターファイアが出る状態だったが、なんとかjojo氏はセローを駆って葛飾まで帰っていった。見送る時に、ちょっとだけ心の中で「おつかれさん、気をつけてな。」と言ってみた。

由はこれで一旦バイクからおりる事になる。しかしまた機会をみて、復帰してもらう事を考えている。その時はもっと交通量が少なく、静かな場所に引っ越したあとになるだろう。私もそういう環境に住めるようになったら、大排気量のバイクを復活させたい。今は、オフ車で充分だし、しょっちゅう乗る事もできないのはよく分かっている。だけど、由も私もバイクを降りたなんて、これっぽっちも思っていない。

由をいろんな場所に連れていってくれてありがとう。私と出会わせてくれて、ありがとう。これからは旅の友人の手元に渡って新しい生活が始まると思うけど、元気にやってくれ。放置していた私が言うのも何だが、思い出深い相棒であったのは確かなのだから。

写真はとりあえず自走できる状態になった姿のセロー。おつかれさん。

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2005年05月12日

走るという事

フェリーの旅が好きだという話をした。フェリーがまったく別な世界に連れていってくれる事や、自分とバイクを一緒に運んでくれる事がその大きな理由だった。反対に、高速道路を移動する事をあまり好まないとも言った。とはいえ、嫌いでもないと。

じゃあ走るのは嫌いなのか?そんな事はない。やはり走る事で何か自分の中から感じるものがある。両極端な性格なのか、走る時は徹底して走る。そして翌日はまったく動かない。そんなスタイルをずっと続けている。

東京から新潟港から出るフェリーに乗る時は、ノンストップで練馬から新潟西まで走る。関越トンネルを越え、北陸道までののどかな風景の中、疲れて休みたくなるよりも、走り続ける事が楽しくなってくる頃だ。オフロードバイクで、3桁の速度をホールドしながら、ひたすら走る。最初はまだ先は長いと思っている気持ちが、段々とスロットルをあけ足元を走り去る路面が永遠に続くような間隔の中に、妙な気持ちの高揚感が沸き上がってくるのを感じるようになる。それからは、いくらでも走り続けられるような気持ちになる。

北陸道に入り、道幅が狭くなり、営業車が増えてくる頃疲れが目に見えて襲ってくる。風景も正直あまり面白くないせいも起因しているのだろう。しかしあと少しで目的地だという事から、スロットルは緩まない。たまに集中力が欠けている瞬間が現れてくるが、すぐに持ち直し、走る。そして、2時間40分で新潟西の料金所を通過する。

市内のバイパスを走り、新潟駅横のビジネスホテルに到着した頃、走りきった満足間と、ほどよい疲労感と、あとはゆっくりとできる事の幸せを感じながら、食事に新潟の町へ出かけていった。走りに集中することは、緊張と疲労の中300km強を走る中に、何かを感じさせてくれるのだ。

フェリーでまる1日ゆっくり休んだあと、小樽に朝上陸し、5時に走り出す。途中知人の家に1時間寄りながらも、網走のいつもの寿司屋でお昼を取る。その後知床峠を越えて16時に知床観光ホテルに到着。巨大な風呂にゆっくり漬かり、それまで500km以上走り続けてきてさすがにこわばった体をほぐす。休憩はその間取っていないが、これも走る事が自然な事のように、無精に走り続けるのだった。この日は羅臼に泊まった。

翌日は開陽台へ移動し、それから数日はせいぜい町への往復だけで殆ど走らなかった。ここで、またひとつのメリハリのある旅というか、別な時間の過ごし方から、リラックスする時間を楽しんだ。このような事を繰り返すのが私の旅のスタイルのようだ。

走る緊張感、高揚感の先にあるやすらぎの時間は、それはそれは素敵な時間だ。これはバイクでなければ味わえない。そして多くのバイク乗りは、同じ行程を同じ緊張感と疲労感を経て、出会う。走る事は基本であり、目的であり、その先にある何かが決定的に違うものを感じさせてくれるのだ。だからこそ、バイクで走る事は誰にとってもひとつの目的であり、その先に同じものを見る事ができる。

走らなければ始まらない。だからこそ私も集中力を高めて、走る。

写真は3時間弱3桁から速度を落とさないで走りきった先の、新潟西ゲート先。まあこのバイクは荷物満載だと最高速度は120km/hしか出ないのだが…

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2005年04月14日

旅するカブ

先日知り合いの方との会話と、友人のサイトで、カブの話題が出た。町中で旅仕様?なカブをみかけたという話だ。カブは言わずと知れた、ホンダの世界に誇るバイク、スーパーカブの事だ。もっぱら、一般にはそば屋のおかもちカブ、郵便配達の赤いカブ、新聞配達のプレスカブなどが有名で、働くバイクとも言われている。

見た目もレッグシールドと言われる白い横に張り出した部分がオヤジ臭いと言われるが、実はとても機能的にできていて、小雨やはね上げる小石や泥から洋服が汚れる事を防ぎ、スーパーで買い物したあとの袋を、ばたつかないようにぶら下げるフックも裏についていたり、寒い日は風よけになる。

クラッチレバーはなく、ロータリーミッションを使い、右足だけでシフトアップ・シフトダウンができる。スクーターのように遠心クラッチより、エンジンブレーキなどを効かせ、速度調節も楽にできる。通常左右にウィンカーやヘッドライトスイッチなどが振り分けられているが、左手をフリーにさせる事ができるように、右にスイッチ類が集中している。キャリアもしっかりしたものがつけられ、必要十分な動力性能が与えられている。

そしてホンダを代表するテクノロジー、低燃費が加わり、それこそ灯油ストーブみたいなシート下のガソリンタンクにひとたびガソリンを満タンにすれば、実走で50km/L以上という低燃費で、ガソリンタンクの小ささをカバーし、長距離を走る事だってできる。

このカブを旅の足としてつかう旅人は少なくない。ユーラシア横断や、渡りとい言われる北海道と八重山を季節にあわせて長い旅をする者など、低予算で長期間旅をする旅人にとってこれ以上最適な車種はないとも言える。そんな旅にどっぷり漬かれるカブは、いつか乗ってみたかった。そして友人のカブ90カスタムを借りて、秋の北海道を走った時にその決心が固まった。

丁度、開陽台ハイジーの家の旧店舗最後の閉店パーティにあわせ、妙な拘りからバイクで行く事を考えていた。フルスケールのバイクは何台かもっていたが、何故か小排気量で行きたかった。そして丁度その時、友人が察してくれてカブの90カスタム、セル付き角形ライトで、スピードメーター内にフューエルメーターを備えた、名前の通りカスタム版を使えよと言ってくれた。

私は人のバイクで旅をするどころか、試乗すらまずめったにしない。バイクとはそういうものというポリシーがあったのだが、今まで数回試乗させて貰った事はあれ、数日借りる事はなかった。それがカブだからという意味で少し気楽な気分で借りる事ができたという所が正直な所だろうか。何はともあれ、私はカブと共に有明埠頭から、近海郵船のブルーゼファーに乗り込んだ。

カブ90は、当時旅人の友人が乗っていたハンターカブ、CT110よりはるかに実用的なバイクだった。いわゆる働くバイクだ。本音を言えばCT110が欲しかったのだが、少々高すぎた事と、事実上新車を手に入れるのは大変だった事から、カブの購入を見合わせていた。しかしこの90で走る都内と道東は、思いの外快適であり、楽しかった。

この影響もあって翌年、CT110が無理ならば、という事から、一番ベーシックな丸形ライトでセルなしの90DXを買ってしまった。そして早速、荷物を沢山乗せる為にある程度防水性能をもたせたケースをキャリアにドリルで穴をあけ、ボルト止めしたり、武川のレーシングショックに換装したり、バックミラーを小型のタイプに変更したり、いじって楽しんだ。旅やカスタムパーツのステッカーもいろいろ貼った。写真で見てわかる通り、ナラシ後マイクロロンも入れたし、工具もスナップオンを使ってはいたが、さすがにEARL'Sのホースやカストロールのオイルはハッタリだった。

その翌年の夏、和琴で友人の結婚式があり、この自分のカブ90DXで北海道に行った。林道や旅先で食べたメロンのシールや、泡波のラベルを貼ったりして、妙なバイクになってしまったが、旅にでる毎に妙なステッカーやシールが増えていってしまい、妙にうるさくなっている。

この写真は帰りのフェリーに乗船前。ライディングスタイルは、しっかりツーリング装備というのがアンバランスだが、私が乗る場合はこんな感じになってしまう。逆にビーチサンダルにドカヘル、短パンにタンクトップで八重山を走るのも嫌いじゃないが…

長く付き合えて、壊れないスーパーバイク。似たようなバイクあれど、ホンダのカブがやはり頂点に君臨している。よくハーレーはバイクじゃない、ハーレーだ、という言葉も聞くが、カブもそうなのだ。

そう、カブはバイクではない、カブなのだ。

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2005年03月31日

雪国ライダー

東京が漸く開花宣言が出たとの事だ。でも毎朝6時すぎに家を出るとはっきりと寒く、ハリスツイードジャケットにオックスフォードのボタンダウン、コーデュロイのパンツに、まだマフラーは必要だ。日中はオフィスから外に出ないので暖かいのかさっぱりわからない。

ただ北海道はまだ雪が降る日も多いらしく、春の雪とはいえ、まだまだ冬といった感じかもしれない。今年の冬のシーズンは、例年行っていた北海道も、犬の骨折リハビリの為に中止してしまい、冬旨い寿司も、六花亭のケーキも、ぱんちょうの豚丼も食べられず悔しい思いをしている。

冬の北海道を舞台にといえば、以前友人が多数、バイクで旅をしていた。少なくとも知っているだけで8人は知っている。殆どが今では使われていないスパイクを履かせ、轍や路肩に積もる雪に前後をふられながら、緊張感と共に走っていた。私もやってみたくて色々と調べてみたが、自分には無理だという事と、周囲に迷惑をかけそうだ、という事で断念した。しかし、車でキャンプ旅に行ったことはある。2005年2月17日の日記にも書いた通りである。

冬に車で走ったのは、自分の車で1度、レンタカーで4~5度(あまり憶えていない)なのだが、全て4駆+スタッドレスだった。その時にもバイクでのツーリストは何度か見た事がある。

こんな環境でも、職業ライダーはしっかりとバイクを走らせている。アイスバーンだろうが湿雪だろうが、彼らのダイナミックなライディングには、拍手を送りたくなる。こういう環境が数カ月続く北海道は、特殊なのかもしれないが、環境にあわせていろいろと工夫をする人間はやはり面白いものだ。

一度キャンプをしていた浜小清水前浜キャンプ場の駐車場で、スタッドレス仕様のセローを友人に乗させてもらったが、面白いように普通に運転ができた。アクセルターンも簡単にでき、ただ普通に走っていてもフロントやリアが大きく振られる事があり、気が抜けないのは確かだ。バイクをコントロールするだけでなく、接近してくる対向車や追い抜いて行く車に気を配りながら、ある程度ペースが高い国道を走るには、やはり相当疲れそうだというのも、実感できた。

写真は網走郊外にある、やまね工房前の脇道へ、ドリフトをかけながら登っていく郵便配達のカブ乗り。このあと、リアが大きく振られ、ヒルクライムなみの斜度のある細い道を登り、配達後すぐにUターンし、イン側の足をモトクロスの乗り方よろしく突き出し、大きくリアを滑らしながら走り去っていった。

みていた私は、思わず「おー」と口に出し、拍手してしまった。ニヤリと郵便配達の男は笑ったような気がした。彼らにとって、この季節は辛いのだろうが、その厳しい環境の中で生き生きと暮らしているような気がする。

そろそろ、この雪もとけ、本格的な春に向けて北海道も動き出す頃だ。

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2005年03月26日

長い付き合い(12台目)

私の車歴の最後、という事は現在所有しているものとなる。
Cub90DXもまだガレージに眠っているが、やはり北海道へのロングツーリングには、こちらが現実的だ。

これを購入したのは1997年の夏。これまで必ず自分の好みにあわせて手を入れていたのだが、このバイクはどこにも手を入れる必要がないとも言える程、私のツーリングスタイルに合っていたという事だ。

カタログスペックでは乾燥重量はXRなみに軽く、燃料タンクも17L。幅広のシートと標準装備のキャリアでリアには荷物を安定して積める。ヘッドライトは手を入れる必要がない位明るく、ガードもついていた。ハンドルガードも十分な強度であり、サスも劣る所はなかった。

しかしさすがスズキとも言える所が沢山出てくる。純正オプションでもボルト穴があわない、デジタルメーターの液晶が半分表示されなくなり交換を迫られたり、ツメがあまいというか、品質はどうしても何か足らないというのも現実に起こった。

よくできている。それが感想なのだがやはりトルク感のないエンジンフィール、軽快感のないハンドリング、渋滞で腱鞘炎になりそうな程の強制開閉キャブのスロットルワークなど、物足りなさが目立ってきているのも事実である。

とはいえもう9年目の相棒。これまで以上に長いのは、乗る機会が明らかに減っているのと、欲しいバイクがあっても保管する場所がない状況が、このバイクのままでいいという気持ちを変えないのかもしれない。

つい先日、友人からXR600Rを7万円で譲ってくれるという話があり、相当に揺らいでしまった。結局は悩んでいるうちに他人の手に渡ってしまったのだが、正直な所XR600Rは魅力がある。でも私はこいつでいい、と思う気持ちもあるようだ。

もうしばらく相棒として旅をする事になるだろう。旅をするバイクとしては今でも、非常に高い評価を私が持っているのは確かなのだから。

いろいろなバイクに乗ってきた。メーカーにこだわる事も、一度でも乗ってみる事でそれなりの評価をしてきたつもりだ。結論としては、どのメーカーも味があり、決して劣るというものでもない。

ここ最近はバイクはミドルスクーター以外は殆ど売れないというマーケットのようだが、旅をする若者も、ツーリングに出る若者も減ったように思える。非常にもったいない事だ。私は今でも、もっともっと旅をしたかったと思っている。日本縦断をしても、北海道に20年、毎年必ず1度以上は訪れているといっても、まだまだ足らない。もっともっと旅をしたかった。そしてこれからももっと旅をしたいと思っている。

同じような思いを持っている旅人やバイク乗りはいる。そしてその中で私と出会う相手というのは、実は偶然の出会いではなく、必然だという持論を持つまでに至った。それは旅の中で出会うエピソードが、自然に確信に導いてくれた。

旅をしよう。相棒(信じられるバイク)と共に。

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2005年03月25日

世界に誇る名車(11台目)

1985年から北海道は開陽台にあがるという事が、旅のひとつの目的となった。

私のウェブサイトのテーマとなっている丘に吹く風、というのがまさにここでの日々の事だ。このテーマについては、何度書いても書き足りない程の思い入れがあるのも確かだ。そして、そんな事を、既に20年近く続けてきたが、昨年とうとう1度も丘に上がらないという年があった。

丘にはいろいろなテーマがあった。その中で、1986年に突如として駐車場の一角にレンガ色の建物が建った。それが、多くの人が開陽台に訪れると足を向ける、ハイジーの家という喫茶店の話も長くなる。

ハイジーの家は冬の間はお休みになる。その1シーズンのお疲れ会を兼ねて、閉店パーティなるものが毎年この建物で行われてきた。今でこそオーナーのかあさんの旦那さんが経営する工場でそれは変わらず行われているが、武佐サマに初雪が降る頃、その閉店に立ち会うべくこの時期だけ集まる旅人もいる。

展望台が新たになり、ハイジーの家が無くなるという話が、ある年常連のキャンパーの中で話題になり、それは事実とはちょっと違ったのだが、東京にいる皆で、これはいかねばなるまいという話になり、釧路行きの飛行機を取り、10月末に行ったこともあった。

そのあたりから、バイクで秋の道東を走りたくなった。しかし、その時期に1週間の休みはなかなか取れない。という事で、私が何十回も利用した航路、東京(有明)-釧路のフェリーに無人車でバイクを乗せ、釧路行きの飛行機で人間は移動し、釧路西港でバイクを引き取り、R272を通って丘にあがるというツーリングを考えた。

しかしフルサイズのバイクを持っていく必要はないし、小排気量車にも興味があった時期だったせいか、友人が乗っていたCT110やMD90、Cub90CUSTOMなど以前から気になっていたカブ系が欲しくなった。そうすれば、会社帰りに船に乗せ、会社帰りに引き取って帰る事ができる。

いろいろ考えた挙げ句、やはりクラッシックかつトラディショナルな現行モデルのデラックス、それも90ccのモデルである、Cub90DXを手に入れ、キャリア上にはポリカーボネイト製の割れにくいボックスをボルトで固定した。またリアサスにはレーシングショックを入れ、ミラーはラジカルミラーをつけてみた。

結果的に秋の北海道を2度、夏の北海道を1度カブで走った。アベレージが高い北海道の国道でも、しっかり流れに乗れるパフォーマンスを持ったCub90DXは、思いの外、大排気量やハイパワーに慣れた体でも楽しく旅をする事ができた。

この時は友人の結婚式が和琴で行われる前日。そう、忘れもしないハイジーの家が新展望台の中に入って初めての年、1995年の7月。

かあさんはいろいろ周辺で調整が続き疲れ果てていた。私はやっぱり新しくなった開陽台に馴染めず、本当は1泊していくつもりだったのだが、どうしても荷物を下ろす気になれなかった。そんな私をみて、かあさんはとても悲しそうだった。ごめん、と何度も謝った。自分の中の整理がつくのか、この時はわからなかった。

しかしその1カ月後、XR250Rで再訪した時に私は数日この丘で過ごした。その気持ちの変わりようは何だったのか。それは、やはり私と同じようにこの丘を愛する旅人の友人がこう言ったからだった。

「うん、やっぱりここはいい所だ」

そうなんだよ。やっぱりいい所なんだよ。武佐サマも、景色も変わらない。

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2005年03月24日

ビッグオフロード(10台目)

ネパールネタが続いたので、またバイクに少し話を戻そうと思う。
あと私の車歴もちょっとになった。

バブル当時、埼玉のガレージに3台のバイクが格納されていた。KDX200SR-G1、GSX750S-1、GPz900R-A7、どれも黒い車体だった。維持費も大きく負担が大きい事もあり、1台で全てまかなえる車種を選ぼうとしていた所、雑誌でKLX650Rがスッパ抜かれた。

少し前からやはりいずれはXR600Rと思っていた。その暴力的なパフォーマンスは十分に承知していたが、それがカワサキから出るという事は、カワサキ好きな私として見逃す訳がなかった。しかし、完全なるレーサーはシートレールの強度も、一般道を走る状況も考えると、どうしてもロングツーリングには決心がいかなかった。

そんな時、KLX650Rの兄弟車、KLX650というRがつかないモデルがある事がわかった。ましてや、黒があるという。これは決まりかもしれない。

当時行きつけだったモトショップ世田谷で注文したのだが、3カ月経っても入ってこない。待ちに待ってやってきた直後、丁度立ち上げから少々関係してきたアウトライダーパティオのオフがあった事から、100kmも走っていない新車で参加した。

オフの内容は佐野ラーメンを食べる事なのだが、プレオフとして当時それなりに有名だった100km林道を走り、1泊バンガローに泊まり、翌日ラーメンを食べて帰るというようなものだった。

バイク屋に納品されたKLX650は、いたる所で驚きがあった。いや、驚きというか、あきれるというか。少々憤慨していたというのが正確かもしれない。KLX650はKLX650Rとはまったく別のバイクだったのだ。車重も30kgも重く、リアサスはリザーバータンクだと思っていた部分がそれっぽく見せた工具入れだったり、ミッションもまったく別。正直ショックだった。しかしロングツーリングという場ではまあそれなりにデザインも乗り心地も悪くないのは確かだった。

林道では装飾された保安部品やメーターまわりの重さや振動がうっとうしかった。その上ギア比がうまくつながらない。暴力的なパワーだったはずの650ccシングルは、とてもマイルドな味付けになっていた。

このバイクではその重さにふりまわされてしまい、今までハマった事のなかった開陽台の側道で見事にスタックし、T塾長に助けて貰うなど情けない状況に陥ったのが思い出される。でも積載性もよく、結局こいつで2度、北海道を走ったという事から、私は結構気に入っていたのかもしれない。

やっぱり600ccクラスのオフ車は、XRが一番魅力があるというのは間違いないが、デザインや味はやはりカワサキの方が私には合っているのかもしれない。

ダートでアクセルをワイドオープンし、後ろがあばれているようなシーンが気持ちいいのだが、実際は荷物満載でそんな走りはまずしない。

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2005年03月20日

自分にあわせるために

今日は朝から仕事。ぜんぜん終わらないので、明日も仕事の予定。まだかかりそうだ。

昨日とうってかわって、どんよりとした空で少々肌寒い。昨日はいい天気だったので、お彼岸という事もあり墓参に行ってきた。車でいけばすぐなのだが、実家によったり定期通院があったりで自転車で行った。

マウンテンバイクにロードタイヤを履かせたタイプなのだが、結構ボロボロである。腐ってもプジョーなのだが、所詮廉価モデル。シマノのディレーラも安いタイプだし、錆びている。手入れもあまりしていないせいもあるのだが…

体調が完全に復活していないせいもあるが、自転車で青梅街道を車の流れをリードしながら走るのは辛い。途中から歩道をテレテレと走る。こういう時にバイクが手元にあれば便利だと思うのだが…都心にはバイクの置き場所すら自由にならないものだ。まあ遠慮もなく、危険な停め方をして歩行者の迷惑をかけて平気なガキも多いのも事実だが…

昨日に続いてモンスターの話。

私はエンジンパワーとディメンションは、基本設計が1981年頃のモデルなのだからあまり高い期待はしていなかった。その頃最速だと言われていたZZ-R1100C1は、確かに私のニンジャと比べてもニューモデルに間違いはなかった。フレーム剛性、エンジン特性、ブレーキ、ライポジなどよくなっているのは認めていた。しかしニンジャを選んだのは個人的な思い入れだった。

当時世界最速を目指して作られたニンジャ。今思えば貧弱なスチールのダイヤモンドフレームに、新設計の水冷900ccのエンジン、フロントフォークのプアーさをAVDSという機構でフォローし、細いスイングアームにフロント16インチという時代を感じさせるハンドリングだった。それがA7になって、少しだけマシになった。

ラジアルタイヤ、フロントフォークなど剛性をあげたり、フロントを17インチにアップ。AVDSの撤去とニッシンの4podキャリパが奢られたが、その他は特に変更はないため、フレームまわりの弱さやポジションの無理さがどうしても気になった。

スーパーバイクレースの影響か、殆どのカスタニンジャがパイプハンドルに変更されてた。確かに乗りやすい。でも私はハンドルだけはクリップオンが好きだったので、シートをアンコ抜きしてハンドルとステップとシートのポジションを自分なりにあわせたりした。

カスタムはいろいろなポイントに手を入れていったが、やはり足回りとブレーキ回り殆ど交換する結果になってしまった。リアは目の字断面でスタビなしのPVM。前後ホイールはストリートでの使用を考慮してPVMのエレクトロン・マグネシウムホイール。フロントブレーキディスクはやはりPVMの鋳鉄ベンチレーテッド・フルフローティング・ダブルディスク。ブレーキは共にロッキード。フロントの4podとリアの125レーサー用2podを、それぞれワンオフサポートで装着。ホースはグッドリッジ、マスターシリンダーはブレーキ・クラッチ共にニッシン。タイヤはミシュラン59X、リアサスにオーリンズ、フロントにホワイトパワーのプロライン、K&Nエアフィルタ、KERKER 4in2でメーンスタンドもそのまま使用でき、サイレンサーにちょっと空き缶を詰めるだけで、練馬の陸運をそのまま通る程の出来だった。

ここまでやっても、ZZ-R1100には叶わない。いいのだ、バイクとはそういうものなのだから。

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2005年03月19日

モンスターの条件

モンスター。怪物と言われるバイクがある。

人が操れる限界を超えた、馬力や特性を持つもの。それはエンジンパワーや、アクセルをあけていく途中、極端にパワーが出るエリアがあるものなどが、その恐ろしいほどの力を体に感じた時に、そう呼ばれる事が多いと思う。

リッターバイク、いわゆるナナハンよりもはるかに排気量の大きい、1000ccクラスのバイクを指す言い方なのだが、バイクという乗り物を知らない人は、なんだ軽自動車に毛の生えた程度の排気量なんだ、と思われるかもしれない。それに、バイクというものは、地面に接している部分というのはサッカーボール2個分程度でしかない面積で、200kg以上の車重をあずけ、大きく傾けなければ曲がれないという、これだけ言うだけでもロクでもない乗り物だと言われてもおかしくない。事実、私もそう思う事がある。

しかし、そのパフォーマンスと必要とされるテクニックは非常に高い。

お金さえあれば、ポルシェだろうがフェラーリだろうが買え、その気になれば比較的まっすぐな高速道路であれば250km/h位の速度を出すのは、普通免許取り立てでも可能だろう。しかし、カローラの価格程度で、ポルシェやフェラーリなみのパフォーマンスをバイクなら手に入れる事ができる。しかも免許取り立てどころか、いきなり大型免許は取れない訳で、少なくとも400cc以下のバイクの免許を取らなければ、手にする事はできない。

ましてや昔は教習所では取れず、限定解除という儀式の中で、試験場で受ける試験において、1~8%程度しか合格者がでないという狭き門をくぐりぬけなければ、この怪物に乗る資格は得られなかった。

そんなパフォーマンスを日本国内で使える所があるのか、という声も多く聴いた。しかし、それは乗った事のない人たちが言う事だ。バイクという乗り物自体、言葉でその魅力や恐怖や充実感を説明できるものではない。そう、大型もそれと同じ世界。乗ってみて初めてそのスゴさ、レベルの差というのが理解できるものだ。

モンスターと呼ばれるバイクは、お金を出せば誰でも手に入れる事ができる。しかし、それを安全に、かつパフォーマンスや、ジャジャ馬ぶりを楽しむ事ができるかというと、経験やセンス、そして思い入れがものを言う。

とはいえ、この乗り物は明らかに趣味、物好きで乗る以外、乗る理由がないものと言い切れる。実用に適さない、モンスターに乗らなければできない事はまず無いというのも事実だ。別にリッターバイクと呼ばれるものがなくても、人間が生きていく上で何も困らない。

それでも、このモンスターが開けてくれる扉を目指す者がおり、また扉の向こうの世界にどっぷりと漬かってしまう者がいる事も確かだ。私は扉を数回開けて向こう側の世界にしばらく居た事があるのだが、今は扉を半開きにしておいてある、という感じだろうか。

私が相棒として迎えたモンスターは、8台目で取り上げたGPz900R-A7だった。そしてそのモンスターに磨きをかけるべく、扉の向こう側に居た私は、自分のフィーリングとシンクロするように、写真のようなカスタムをしていた。これは、リア側だけ。フロント側など、他のポイントはまた後日。

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2005年03月18日

公道を走るレーサー(9台目)

朝から昼にかけては、漸く春を感じられる暖かさだったが、会社帰りには一気にまた冬に逆戻りしたかの如く、北風が吹き荒れている。明日はもっと寒いようだが…

週末だが、ちょっと寝不足なので、また車歴シリーズ。

KDXという久しぶりの本格オフ車だと、どうしても細かい振動と航続距離が短いという点で疲れが溜まってきた。確かに走りは楽しく、何よりサスペンションの進歩には感動さえ憶えていたが、ツーリングという視点からだと、やはり4ストが望ましいと思っている。今でこそ環境への配慮から2ストは消え去る結果になってしまっているが、この頃のオフ車は軽くピックアップのよい2ストがまだまだ主役とも言えた。

そんな時、友人が6万円で88年型のXR250RKを譲ってくれると声をかけてくれた。このモデルは私が実はホンダのXRでは一番好きなカラーリングである、ホンダレッドが主体となったもの。喜んで譲って貰おうとなり、葛西まで引き取りに行った。しかし、この時カタナを手放す日でもあった。要はカタナででかけ、XRで帰ってきたという事になる。別れと出会い。そんな日だった。

状態は見た目はそれほどひどくなかったが、後日タンクやシートを外して洗浄すると、レースに使っていた事もあったようで、フレームの奥からヘドロのようなドロが出てきたり、マフラーは錆び、シート皮も破けているといった状況だった。それらを徹底的に清掃し、ハーネス類を全てチェックし、キャブのオーバーホール、ハンドル交換、ドライブ&ドリブンスプロケットの高速道路対応化、チェーン交換、ヘッドライトのガラスレンズ化とH4バルブ化、シート張り替えなど手を加え、USモデルのXR250RKは私の相棒となった。

軽快な純正マフラーの音も、絶妙にクロスしたミッションも、足まわりも、全て素晴らしかった。装着されていたピレリのMT21も自分のスタイルにあっていたのか、ロングツーリングでも扱い易く、そして走破力もあって、昔乗ったXL系と兄弟車にもかかわらず、レーサーの血は本物だと感じていた。

ホンダレッドに包まれたレーサーXR250RKは、走りだけでなくツーリングに求められる積載性も燃費も併せ持つ素晴らしい車両だ。とても3万キロ走ったエンジンとは思えないパワフルさで、時にはキャンプ用品満載の上、モンベルのフルサイズビックタープに、オリオンビール1ダースを積み、岐阜までキャンプをしに行ったり、北は北海道から、南は四国・九州までいろいろな所を旅した。

しかし最後はリアサスが完全に抜け、サス交換が結構高額になる為、同じタイプに乗っていた友人にタダであげてしまった。今でもXRへの魅力は褪せておらず、XR600Rがひとつの頂点だった。

先日このXR250RKを譲ってくれた友人が、XR650Rを格安で売ってくれる話にグラリと揺れたが、車検付である事と今の250ccオフ車を昨年ちょっとお金をかけて修理してしまった事から、悩んでいるうちに売れてしまったらしい。今思うと後悔していたりする。

このXRは4ストでの道を選ばない楽しみを味あわせてくれた。また乗ってみたいと思える車種の1つでもある。ホンダらしさ満点の歴史に残るオフ車ではないだろうか。

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2005年03月15日

ハイウェイ・スピリット(8台目)

めでたく限定解除をし、晴れてどんなバイクでも乗れるようになった。ある意味これで「バイクは私のライフスタイルです」と言えるようになったとも言える。この程度が取れなくて、バイクが好きだと言う事が恥ずかしいキャリアになったから、だ。

カタナのライディングの楽しさ、KDXのダートパフォーマンスの楽しさで十分だったのだが、限定解除を絶対に取るのだという自分への追い込みの為、そして憧れでもあったGPz900R(A7黒)を新車で手に入れる最後のチャンスかもしれない(これは後日大嘘だった事は誰もが知っている事)、という事もあり、3台目のパートナーがやってきた。

厳密に言えば、限定解除を取る前に、ショップから引き取り命令が出、限定違反で埼玉のガレージに乗って帰った。その途中、ガス欠して交番の前を押しながら横切り、ガソリンを入れた事は情けない思い出だ。その重さを身に沁みた出来事でもあった。

正式に免許を取り、埼玉のガレージから自宅に900Rを移動させた日からほんの1週間目、900Rのスクリーンとバックミラー、KDXのリアバックが盗難にあった。まだ走行40km程度で、アッパーカウルに傷がついた。あまりにショックで、この頃から通いはじめたモトショップ世田谷に盗難にあった朝、持ち込んだ。ミラーもスクリーンもない900Rが哀れという事と、自宅に置いていては、安心して眠れないという状況に陥ってしまった。

当初、スクリーンは純正、ミラーはA6以前の小柄なものに変更するつもりでいたのだが、このショップは一筋縄ではいかない。この頃からカスタムへの泥沼に入り込んでいく事になる。スクリーンは純正ではなく、ヨシムラ・スクリーン・クラフトのスモークが少し高いだけだったので発注したのが、すべての始まりだったのかもしれない。バックミラーもA6までのシンプルなタイプに変更してみた。

この憧れのカワサキを手に入れたら、絶対に付けたいものがあった。それはKERKER SYSTEM K2の2本出しマフラー。殆どがスリップオンというエキパイはそのままで、サイレンサーと途中までのエキパイをボルトオンするだけのタイプが定番とも言えた。しかし私はエキパイからすべてKERKER製のものを選び、装着した。この2本の先から奏でられるサウンドは、心を震わせた。

当時仕事は毎月100時間を越える残業が続いており、休みは土日のどちらか1日という事もあり、その休みはバイクショップに行くか、日帰りツーリングと決まっていた。当然悪魔のようなショップに入り浸る事で、日に日に私の900Rは変貌していく。いや、殆ど外見はノーマルとはわからないが、足回りは殆どすべて交換。エンジンパワーをあげるよりも、バネ下重量を軽量化し、マグネシウムホイールや目の字断面のスィングアーム、飛行機すら停めるロッキードの4podブレーキ、鋳鉄のフルフローティングディスク、オーリンズのサスなど、これでもかとレーシングパーツを組み込んでいった。

ある日、アウトライダーパティオという私がスタッフをしていた集まりで宇都宮に餃子を食べに行く集まりに900Rで行くと、どこがカスタムしているんだ?というような言葉を耳にしたりした。しかし、KERKER 2本出しの奏でる轟音は、タダモノデハナイニンジャである事を、証明していた。いや、基本的にカスタムは自己満足なのだから自分が納得できればよいのだ。

箱根ターンパイクを友人と異様な速度で大観山パーキングまで駆け上がったり、永源寺への高速巡行ツーリング、そして激しい日帰りのワインディングツーリング…これまで経験した事のない速度域で、高次元にバランスを取ったライディングを経験した。50ccに初めて乗って、走り出した感動、400ccからカタナに乗り換えた時に感じたこれまでにない感動、そしてそれをはるかに凌ぐ新しい領域を見せてくれた900Rは、私にとってどれも高いインパクトと今でも忘れられない衝撃を味あわせてくれた。

しかし鋳鉄ディスクやマグネシウムホイールなど、ハードな一般道を走る事や、保管する時の湿気の問題など、不自由な面の方が目立ってしまう。保管は屋内、乗る為には電車+徒歩で片道1時間強の場所に通わなければならない事から、結果的に乗る回数も極端に減っていってしまう。保管場所も限界に近づいてきていた。そしてたまに乗れば、仕事のストレスからなのか、サーカスのような走りをする事も多く、命の危険を感じてきたのも理由のひとつなのかもしれない。

私が理想のバイクショップと認めていたモトショップ世田谷も、社長の夜逃げにより惜しまれながら閉店。その後環八沿いのカタナショップ、FORにメンテを頼むが、最後は雑誌ロードライダーに私のバイクを使い、ショップカスタムとして勝手に掲載されてしまう事で、あまりのレベルの引くさに縁を切ってしまう。そして結果的に7年所有したあと、車体の購入価格より10万UPした価格で、知らない人に引き取られていってしまった。

こうして比較的に長い期間、私のメインバイクとしてカスタム900Rは君臨してきた。大げさだが、私はある意味初めて自分が満足のいくまで手を入れ、理想の形に仕上げたバイクだったと思っている。カスタム900Rは私のバイクライフを語る上で欠かせないほど、バカらしくお金をかけた、理想のバイクだったと言える。

ハイウェイや高速コーナーを、KERKERサウンドを奏でながら走り抜ける。いつかまた保管場所や時間に余裕ができたら、リッターバイクに乗りたい。それはカタナか、外車かわからないが、カワサキである可能性も十分にある。

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2005年03月14日

ひとつの頂点(7台目)

私の車歴シリーズも漸く半分を超えた。

どれも思い出深い相棒だが、7台目になるこのバイク、私のワクワク度の高さで言えば1~2位を争う車種だったりする。

ZX4-G1、KDX200SR-1と同時所有の時期、とうとう限定解除に挑戦を開始した。仕事もそれなりに忙しい時期だったが、府中自動車試験場近くの杉本二輪練習所に、時にはごまかし、時には休みを取って通った。当時限定解除試験の予約が1カ月に1~2度取れればよい方だったので、試験の前の週に1時限、試験の直前に1時限乗るようなサイクルで練習を詰めていった。

丁度試験に通っている最中、ZX4が友人経由で離れていった。どちらかというとインラインフォー400オンロードの方が、普段練習になったのだが、乗れるバイクが2stオフ車だけになってしまう。同時に試験に絶対に合格するようにと、自分を追い込む為に最終型と噂の高かった900ccの憧れのバイクを予約し、週末にはショップに眺めに行くか、試験に行くかという事もあった。

結局、限定解除は6回、12時限の練習で合格。その回に合格した人は、100人以上受けて2人だった。免許の裏に限定解除の判を貰って練習所に挨拶に行くと、君は今日受かると思ったと言われた。教官とその時知り合い、同じ試験を受けた人から、朝から乗りに乗れていたと言われ、とても嬉しかった事を思い出す。試験の帰りは、嬉しくて信号が変わる毎にホイールリフトしながら家に帰り、午後から仕事に出た。

その事を会社の同期に言うと、それまで乗っていたナナハンをお祝いにくれるという。彼のバイクはSUZUKI GSX750S1。カタナと呼ばれるスタイリッシュだが結構なオールドバイクだ。鹿児島出身の彼は、今の会社に入社時、鹿ナンバーのこのカタナで上京。箱根や伊豆を一緒に走った仲だった。その彼は、いろいろな理由により、バイクを維持できなくなり、処分したいという事だった。ただあまりにお金がないという事なので、申し訳程度で2万円で譲って貰った。

彼のバイクを受け取りに会社の寮に行くと、至る所が錆び、エンジン音もバラバラとタイミングがあわず(あとでわかった事だが、1気筒死んでいた)、ミスファイアまで起こり、何度もエンストしながら乗って帰った。その時の嬉しさというのは、900ccが手元にあるにもかかわらず、ずっと興奮しっぱなしだった。そう、憧れのナナハン、それもカタナを手に入れたのだから。

その後行きつけのショップでオーバーホールを依頼した所、丁度フルカスタムでカタナ1100が入ってきた為、処分するパーツはすべて私のカタナに装着してくれる事になった。いきなり、フロントはニッシンの別体マスターシリンダー、ブレーキホースはグッドリッジ、リアサスはヨシムラカヤバ、マフラーと前後ホイール&タイヤ共に1100のものがそのまま装着された。

タンクには錆が出ていた為、知り合いの板金工にオールペンを依頼。シートも汚れていた為、ブラックレザーに張り替え。フロントウィンカーや外装パーツも装着し、私の理想のカタナが出来上がった。

900はおいたままで、殆どこのカタナで週末はでかけていった。箱根、正丸峠、湘南、そして北海道へ。殆どアメリカンと言える程、フロントホイール径が大きく、ブレーキの効きの悪さで定評のある乗りにくいバイクは、正丸峠の下りでも素晴らしく軽快なコーナリングで私をエキサイトさせた。これほどライディングが楽しいバイクはこれまでなかったかもしれないと、本気で思っていた。

ただひとつ、遅い事。直線ではメーター読みでも180km/h以上は出ない。友人のCB750FBの方が少し伸びがよかったが、パフォーマンスは同じようなものだった。このZX-4よりも遅いかもしれないナナハンは、私にとって「ナナハン」という憧れを手にした事と、「カタナ」を手にした事で、初めてバイクに乗った頃の気持ちを思い出すだけでなく、それ以上に大型バイクの楽しさを教えてくれた。

このあと、5台を乗り継いで現在に至るのだが、今ロードスポーツをもし買うなら、今度はカタナ1100ファイナルの中古か、神戸ユニコーンのイナズマベースのカタナが最有力候補だ。基本設計は既に20年以上も前のオールドバイクだが、私にとっては魅力溢れる車種だったりする。

荷物も沢山積めるし、林道だってガンガン走れる。そしてコーナリングや眺めるだけで楽しめるビックバイク。私にとってある意味理想のバイクがこのカタナである。

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2005年03月10日

エンデューロな日々

体力が落ちている…

いきなりオヤジ臭い愚痴のような出だしだが、正直な所、体力は落ちる一方なのは事実だ。
もともとテニスを少しやる位で、水泳も苦手だし、球技も友人とごくまれに楽しむ程度だったから、元来スポーツマンではない。

しかし、バイクでの競技には、会社員になってから少しやっていた。これがまた持久力がない私としては、30分走り続けるだけで相当にキツイ。バイクは競技用のKX80-2。ラージホイールの為、80ccとはいえ気を抜くとフロントが天を仰ぎ、バックドロップを食らう程のパワーの持ち主だ。当然保安部品はまったくついていないし、2st混合の為、ガソリンにオイルを混ぜ、それをタンクに入れて走る。市販車のようにオイルタンクなんてないので、ますます軽くできている。

オフロードバイクには、ブログに書いた通り昔から乗っていたが、競技に出たのは会社員になってから。友人と交代で4時間や6時間を走り切る競技だ。ただ、クローズドコースを使う為、ただ林道を走り続けるようなオープンエンデューロではなく、ジャンプ台やテーブルトップ、ウォッシュボードやヌタ場などがある為、テクニックも体力も普通のツーリングとは違うものが要求される。

写真の筑波サーキット裏のコースには、結構通った。このコースくらいなら初心者でも楽しむ事ができただろう。しかし、後半に出た伊豆富士見ランドは変化に飛んでいて楽しかったが、実際は体調が悪く相当まいっていた中での参戦だった。ちょっと情けない思い出だ。

ヘルメットは当時の私のカラー、アライMXエンデューロのブラックにカワサキグリーンのストロボライン。ブーツもモトパンもブレストガードも揃え、気合を入れてモータースポーツに没頭していた頃であった。

同時期に前に書いた通り、車のワンメイクレースのサポートをしていたので、サーキットの雰囲気に一番染まっていた時期だったかもしれない。またいつか、余裕ができたら走ってみたいが、何より自分の体を鍛えなければ…

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2005年03月09日

2スト本格エンデューロ(6台目)

疲れはなかなか取れず、今晩もちょっとした騒ぎがあったが、とりあえず平静を取り戻した。

今日は家に帰り着くなり、愛犬のくーに飛びつかれ、上に乗っかられて15分ほど延々と舐められた。何かあったのかと思ったが別段何もなかったようなのだが、今日は執拗に手から顔から舐めつくされ、妙に興奮していた。まあ帰りを楽しみに待っていてくれるのは嬉しい事。ただ骨折している指が痛々しい。遊びに行けない分、いろいろとストレスがたまっているのだろうか。

さて、もう少し自分の過去のバイクの話。

ZX-4に乗っている頃、一番のめり込んでいたのは、友人が取り組んでいたスターレットEP71のワンメイクレース参戦の手伝いだった。会社員になって、関連会社の同期の友人が、私がバイク乗りである事や、整備などを一通りできる事を知り、手伝いを頼まれたのがそのきっかけだ。

毎週のように、友人のガレージがある埼玉県菖蒲町に仕事が終わったあと出かけた。ハードな週末で、睡眠時間も殆ど3時間程度。金曜の夜0時近くになってバイクでガレージに到着し、翌日のスポーツ走行の為に徹夜に近い状態で整備し、夜明け頃に筑波サーキットに移動。走れる時間はほんの30分程度だった為、レースに向けてのセッティングは素人だった事もあり、終始難航した。

レーサーである友人のドライビングは、それこそ目からうろこが落ちる程の激しくかつ正確なものだった。車(普段の足も同形のEP71に乗っていた)は激しくコーナリングで車体をブレークさせ、交差点を真横になりながら、でもしっかりとコントロールされながら走り抜ける。レーサーは普段はそういう走りを町中ではしないという事だろうが、彼はストリートで周囲の安全を確認した上で、よくそういう走りを助手席に人を乗せながらしてみせた。

その手伝いに後輩が一人やってきたのだが、それが乗ってきたのがカワサキKDX200SR-2。倒立フォークの軽量200cc2ストロークエンデューロマシンだった。それまで普段から乗れるオフ車というと、4stのXL系が一番適していると思っていたが、この後輩のKDXに乗せて貰ったが最後、こんな楽しいバイクがあったのかと衝撃を受けた。

田んぼのそれこそ人が一人歩ける幅しかないあぜ道を、100km/h以上で安定して走り抜けられる足まわり。そしてアクセルワークだけでホイールリフトするパワー。どれを取っても衝撃だった。2stはガンマである程度納得し、どちらかというと4st派だった私が、下から上までのパワフルさと軽さ、そして何より素晴らしい足回りにまいってしまった。

その翌週末、私はいつものカワサキショップに立ち寄って、既に生産中止となっている初期型の黒が残っているか聞いてしまった。まあモデルチェンジして随分経つので、無ければ諦めもつくと思っていたのだが、運悪くまたZX-4と一緒で1台だけ残っていたというのだ。それも12万円引きと提示され即決。それからというものの、常にオンとオフの2台以上同時所有するスタイルになってしまった。

しかし燃費が悪い事もあり、一度だけトムラウシの林道を走ったが、ミスコースし半分走る事を諦め、新得に戻ってしまったり、振動がすごく日帰りツーリングの帰り、東名高速上でナンバープレートを落として紛失してしまったり、いろいろ大変な事も起こった。このモデルのお約束であるミッションケースのメカニカルシールがイカレ、ギアオイルが乳化するトラブルも起こった。しかし、オフの楽しさの新しい扉を開いてくれたバイクである事は確かだった。

このあたりから、私のバイクは殆ど黒い車体ばかりというイメージになったようだ。カワサキは黒が似合う。また初期型のカラーが一番好きだったりする。

写真は釧路湿原の北、コッタロ湿原のダートで。お約束の荷物の積み方だ。

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2005年03月08日

初めてのカワサキ(5台目)

伯父の告別式が終了した。
この週末は本当に疲れたが、親戚の中では私は働いていない方だ。

私の親父は、既に他界している。兄弟の中では一番最初だった。今回は親父の兄、長男が他界。そろそろこういう事が続いてもおかしくない頃なのは否定できない。何せ私もそろそろイイ歳だからだ。自分ではそういう事を面の向かって考えた事はないが、嫌でもそういう現実は一歩一歩近づいてくる。こういう事をネガティブに考えてしまうのは私の性格でもある。

バイクと旅で知り合った、父親とまではいかないが、一回り年代が上の知り合い(友人と呼びたい所だが、そこまで私自身がオトナになりきれてない…)はその歳で起業したり、バイクのライディングも豪快であったり、自分がいかにまだまだ未熟でマイナス思考なのかを痛い程感じてしまう事がある。

まあ性格だからと言ってごまかしてきたのだが、踏ん張らなければならない時は何とかするしかない。だらしないと言われても。事実だと真摯に受け止め、前向きに対処していくべく努力をしようと思う。

前フリが長くなってしまったが、私が私らしいと胸を張って言える時期は、自分のやりたい事を悩まずに取り組んでいた頃がだったと思う。その時期に5台目の相棒、3台目のロードスポーツとして迎えたのがKAWASAKI ZX-4。丁度、GPzシリーズが終息し、ZX系に切り替わろうとしていた時代。エンジンも水冷でかつコンパクトなショートストローク4バルブインラインフォーが国内バイクメーカーがこぞって力を入れていた時代。このクラスは市販車改造クラスのレース人口が増え、ZX-4にもレーサーベースとなるプロダクションモデルも用意されていた。しかし大人気だった前モデル、GPzシリーズから比べると、誰もが認める不人気車でもあった。

私としてはレーサーレプリカというよりツアラーに見えるこのスタイリッシュなバイクに惹かれた。それまで何も文句のつけようがなかったSRX-4から、パワフルで高速巡行型ツーリングができる車種に興味が向いていた。ショップで型落ちの初期型黒を探して貰い、新潟で1台だけ余っていたこいつを値引きして貰って手に入れた。

振り分けバックにタンクバック、少々の雨では濡れないフルフェアリング、モーターのようにスムーズで、高回転型のインラインフォーはそれまで振動や風圧に苦労したツーリングを快適なものにかえてくれた。これまでのバイクは、必ず自爆や接触などにより地面に横たえた事があったのだが、このZX-4だけは一度も倒した事はなかった。とはいえ、ライディングがおとなしくなった訳ではない。ラジアルタイヤのコーナリングはそれまで経験した事がなかったレールの上を走っているが如く、パワフルな走りを楽しむ事ができた。

私はメーカーに拘りはなく、すべてのメーカーのバイクに乗ってみたかったという事も選定理由にあった。カワサキらしくないモデルと言われた事もあったが、私はZX-4を相棒に迎えて、カワサキというメーカーにとても好感を持てた。その理由のひとつに、これまで乗ったヤマハは2台とも、雨による電装系のリークでエンジンがかからなくなったり、キャブに入り込んでいるチョークワイヤーが起因して、そこに水が入り、エンジンがかけられなくなる事が数回起こるなど、あまりよいイメージがなかったのもあった。これは私とヤマハ車の相性なのかもしれない。

またSRX-4とZX-4という流れと、毎年中標津の開陽台で会う旅人の知り合いが増えていった事から、よんきちというキャンパーネームが付けられたというつまらない理由もあり、私の方向性が固まっていった時期とも言える。

今思っても400ccロードスポーツとしては、とても好きなモデルだ。

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2005年03月07日

前後18inchのコーナリング(4台目)

伯父が先週の金曜に亡くなり、今日はお通夜だった。

実家の上のフロアに伯父は住んでいて、俗にいう本家の家主が亡くなり、古いしきたりが残る我が一族は金曜の夜から大勢集まってきて、大変な事になっていたのである。

私は分家のそれも次男という事で、面倒な事はずっと避けてきたのだが、今回は何かとやらなければならないようで、明日の告別式は忌引を取って朝からまたいろいろ大変になりそうだ。

という事もあって、あまり書けない日なので、今日も歴代愛車シリーズで…

さて、ガンマという恐ろしく暴力的な250ccで、四国に自走往復したり、北海道を走ったり、あまりロングツーリングには適さない車種で新しい世界に踏み出した私は、純粋にディメンションがニュートラルなバイクに魅力を感じていった。またビックシングルに魅力を強く感じていた。

しかし私は当時中型限定免許。したがって車種もそれなりに限定されていった。その中で、丁度限定バージョンとして発売されたヤマハSRX-4 YSP Limited Editionに目が向き、もう他の車種は興味がなくなっていった。丁度私の好きな黒であったし、デザインも秀逸。何より前後18インチのメッツラーという構成が、それまで前後のタイヤ径が違う車種しか乗ったことがなかった私は、リーンウィズでワインディングを駆け抜けるビッグシングルにベタ惚れしてしまったのだった。

ローンを組み、洗足池近くの値引きが多いお店で購入。エンジンのかけ方にちょっと戸惑いながらも、すぐにその軽快で思いの外テンポの早い走りにどんどん引き込まれて行く。ファッション性強いSRよりも、モダン・シングル・スポーツというジャンルに属すると言われたSRXは、2型でフロントが18インチから17インチにダウンされた。しかし私は前後18インチの初期型SRXが好きだ。

サウンド・オブ・シングルスや、エコー・デ・カトルといったレースも見に行った。ハンドルをマグラのクリップオンにし、リアフェンダーをルーカステールが組まれたオレンジブルバード社のスタイリッシュなFRPフェンダーに交換。ウィンカーも小型にし、オイルクーラーを仕込んだ。しかしマフラーだけはスーパートラップにはせず、何故かノーマルにこだわっていた。

このバイクは私にとってとても重要な時期の相棒だった。日本縦断に出たのもこいつであり、北海道には2度、就職し新たなバイク仲間とツーリングをした時もこいつだった。それまで緊迫感と背中あわせだったワインディング走行は、逆に楽しくて仕方なくなったのも、レーサーレプリカではなく、オーソドックスなビッグシングルのこいつだった。名車、そう呼ぶに値する。

某丘で、ある意味運命的な出会いとなったしいたけ兄ちゃんが、ホンダのビッグシングル、GB400TTに当時乗っていた。意気投合し、数日後霧多布岬のバンガローで再会を約束。霧に包まれた岬が夕日の時間にすーっと晴れ、見事な洛陽と満天の星空が思い出される。

ロングツーリングライフが始まり、丘の人々との繋がりが本格的に結ばれはじめた頃でもあった。

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2005年03月06日

旧車をみかけて想う事

実家から家に戻る途中、懐かしきバイクをみかけた。
そう、3月2日の日記に書いた、XL250Rcだ。

少し前から、この年代のバイクに乗る若者が多いような気がする。KHやSS、GT380などもみかける程だ。私がバイクに乗り始めた頃には既に生産中止になっていたオールドバイク。ガソリンだって、無鉛で走るかどうか怪しいようなものを、綺麗に乗っているという事について、どういう経緯があるのかはわからない。

ただ感じる事は、大事に乗っていたものを譲り受けて、乗り出したという感じではなさそうだ。妙に綺麗なタンク、なぜだか殆どのライダーが半キャップで、顎ヒモしらまともに締めていない。グラブはまずしておらず、へたをすれば踵を踏みつぶしたスニーカーだったりする。偏見かもしれないが、私はそういう乗り方は好きではない。きっとどこかのアンティークバイクショップで、エンジンの汚れと比較すればアンバランスな新品タンクや、部分的に交換したのがわかるような構成で、異様に高いお金を払って手に入れたのだろう。そう、どこかのファッション誌やドラマでとりあげられたのがきっかけのように。

まあ自分だけが痛い目をあうのなら別段口を挟む筋合いはないが、事故というものは相手がある場合の方が多い。その時に相手に非がない場合に、無駄な心配や心の傷を負わせる事になりかねない。当然そんな事考えている訳がないタイプが、自己中心的な運転で、公共のフィールドで我がままな事を平気でするわけで…免許とかマナーというのは何の為にあるのだかわからなくなってしまう。

しかしその日みかけたXLは、しっかり手入れされたアライのSZで、足元はトレッキングブーツ、グラブはスワニーだろうか、カラシ色の無骨なワークグローブで、ジャケットも地味だが袖と首まわりが締められるタイプだ。最近ではきわめて減った、ポイントを抑えたライディングスタイルのバイク乗りが乗っていた。妙に嬉しかった。大事に乗っているのが伝わってくる、そういう姿を見る事は幸せを感じる。

写真は初めてキャンプに行った、丹沢の神之川キャンプ場。川を渡った先にテントを張った。一緒に行った友人のXT250と私のXL250Rの2台。初めて買ったモンベルのムーンライト3テントと共に。

私は1台のバイクを長く乗り続けるタイプではないようだ。このバイクは友人の友人へ、テントはこの後7年程使い、友人の手へ渡って行った。

このXLには、パリダカモデルというのがあり、その純正部品である太いサイドスタンドとフロントのオーバーフェンダーを装着している。他にカスタムパーツとして、レンサルのハンドル、ヘッドライトガード、キャリアなどを追加。ヘッドライトガードは純正カラーに塗るなど、いろいろツーリング向きにカスタマイズもしていた。

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2005年03月03日

初めてのレプリカ(3台目)

どうやら今晩から、都心も雪模様となるらしい。
あいかわらず変な咳が出たり、たまに熱っぽくなる体調を騙し騙し、週末までもたせているという感じである。
今季は雪とあまり縁がない。というのも、スキーも北海道旅行もトレッキングも計画が軒並み犬の怪我でキャンセルされてしまっているからである。本当なら道東か信州、もしくは那須周辺の雪原へ遊びにでかけていたはずなのだが…どうもツイていない。

という訳で、引き続きバイクの話。

我が3台目の愛車は、これまでのオフロード(トレール)バイクから一転して、獰猛なエンジンフィールの250cc、2ストロークレーサーレプリカである。

特にスピードに何かを求めるような走りをするタイプではないが、突然この時のハイパフォーマンスバイクに乗る事で、ライディングスタイルを見直したいと思い、これまでとはまったく違う種類のスズキRG250ガンマ2型を手に入れた。

一世風靡したRZは、友人を失うという衝撃の出来事も生み、そのレーサーレプリカの恐ろしさと背中あわせの存在だった。そんな中、ガンマ1型は高校の友人が発売と同時に手にいれ、興味本位で乗せて貰ったのだが、いきなり立ちゴケしそうになるブレーキタッチとピックアップで、懲りてしまった。やはり同時期にGPz400がデビューし、そのスタイルに惚れ込んでしまったが、車検付のバイクなんか維持できる経済状態ではなかった。

ガンマが2型となり、それまでのデザインより好感が持て、ブレーキタッチも大幅に改善。また何より気に入らなかったエキゾーストノートが低音が含まれる好ましいものに変わり、ハーベーカラーではなくあえてスズキワークスのカラーを選んだ。

色々な理由や経緯があったのだが、そのパワーの出方やフロント16インチの独特の乗り方に難儀しつつ、乗る喜びを感じるようになってきた1カ月目のある日、私はとんでもない大事故を起こしてしまった。実家にアルバイトに行く為、早朝埼玉へガンマを走らしている最中、横に接近してきた大型トラックが、幌の左右に垂らしている平ゴムのベルトが、私の運転しているガンマのハンドルエンドに絡まり、加速中だった私は一種にしてバイク前方5~10mに飛ばされた。ヘルメットをアスファルトが削り、肩から叩きつけられた。しかしその瞬間の多くは覚えていない。

気がついた時は、2車線の道路のまん中で、立ち上がろうとしていた。白いワンボックスが目の前に停まっており、運転手が顔を出し、大丈夫か、と声をかけた。私はすみませんと何故かあやまりつつ、道路のまん中に横たわるガンマを引きずるように、路肩に引っ張って行った。しばらくすると、停まっていた車は走り去り、道路には通常の車の流れが戻っていた。それを眺めるように、路肩に腰をおろし、サイドスタンドをかけたガンマの横に何が起きたのか一生懸命思い出そうとしている自分が居た。原因となったトラックは消えていた。

肩が痛い。ヘルメットも傷がついてしまった。肘と膝を擦りむいているが、骨は折れていないようだ。ああ、やってしまった、いくら修理にかかるのだろう、と悔やむ事が次々と浮かんでくる。

ふと、フロントタイヤの下にオイル溜まりができているのに気がついた。よくみると、アルミ製のフォークのボトムケースがバックリ割れ、中のスプリングが見えている。フロントフォーク2本とも、右側に湾曲し、それに沿ってダブルディスクも平行に曲がっていた。どうやら、このフロントタイヤの上を、トラックのダブルタイヤが乗り上げていったようだ。

途端に体が震えた。死んでいたかもしれない。本当に恐怖だった。非力なバイク乗りを痛切に感じた。

落ち着いてからトラックをよび、その足でバイク屋にドック入りした。しばらく乗るのが怖くて仕方がなかったが、私は乗り続ける道を選んだ。その時の気持ちの変わり方は、簡単には説明はできないが…

修理は1カ月近くかかり、もう1台買える位の値段をかけて復活。その後、このガンマで北海道へ初ツーリングを行ったり、峠を走る楽しさを覚えていく。

思いの外、ロングツーリングでも扱いやすかったのだが、写真のまだ未舗装のサロベツロードは、フロントが小径&ワイドタイヤなガンマは非常に乗り辛く、汗だくだった事を思い出す。利尻富士が美しい。

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2005年03月02日

新車の赤いホンダ(2台目)

1週間ぶりに仕事場に復帰した。不在にしていた間に溜まったメールは、2000通を越えていた。その過半数はアラートと呼ばれる通知メールなのだが…それをざっとさばくのに軽く午前中を費やしてしまった。

仕事では時間に追われてあまり書く事もないので、また回想を…

私にとって2台目の愛車。ホンダXL250Rc。丁度この時、ヤマハのXT250の人気が高かった。私はバイクに乗り始めたきっかけとも言える、アドベンチャーライダーといわれる風間深志氏の文章や記事を読み、オフロードバイクが好きになった。

高校2年の頃、私はブラスバンドに入って、音楽をやっていた。中学時代にロックに目覚め、THE WHOのTOMMYと、LedZeppelin 狂熱のライブの2本立ての映画をみてからというものの、それまでの写真部の部長をしながら、ギターを買って見よう見まねで引きはじめていた頃だった。

その後、本格的に演奏が好きになり、ロックに走る周囲を余所に、私だけ日本のクロスオーバー、フュージョンと呼ばれるジャンルに没頭していった。そんな中で、好きなバンドはプリズムやカシオペア、渡辺香津美、坂本龍一など、そういったアーティストのコピーを下手の横好きでやっていた。同時にブラスセクションがバックで音の厚みを与えている事が気になり、単に軽音楽部に入るのではなく、吹奏楽部に入った。

同期の部員はなかなか面白いのが集まっており、なぜか殆どがバイクが好きだった。しかし、みんなオンロード。CB50S、MM50、RZ50など、今でこそ言えるが夏休みの通学はバイクだったし、練習後にファミリーレストランに行くにもバイクだった。不思議な高校時代だったとも言える。

私だけオフロードバイクに走ったのも、なぜだかよく分からないが、カッコよく言えばポリシーだった。そして部活動とバイトを両立させつつ、親ローンでとうとう憧れの新車の出たばかりのXL250Rcを手に入れたのだった。

市販車初のプロリンクサス、CB250RS系の軽快かつパワフルなエンジン、4バルブヘッドがメカ的に魅力であり、またホンダらしい赤いボディをみてからは、もうこれしかないと思った。しかしエンジンのかけ方や重さに苦労したのを思い出す。

これで冬の日本海を見ようと、2月の八ヶ岳越えの為にタイヤチェーンを上野で買って挑戦し、数えきれない程の転倒した結果、クラッチレバーを折って傷心の中帰路についた事。砂浜をパリダカよろしく走ろうとスタックして泣きをみた事。原付で苦労した林道を苦もなく通過できたり、荷物を満載し、初めてキャンプツーリングという事をした事など、本当に私の原点とも言えるバイクとも言える。

多感な高校時代は、この赤いバイクと共にあった。17歳の頃だ。写真は湘南の海岸。

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2005年03月01日

最初の相棒(1台目)

あいかわらずインフルエンザな日々。とうとう7日目に突入。今日も頭痛で朝から鎮痛剤のお世話になる日となる。

そんな体調なので、旅の話もできる訳なく、昔のバイクの話を。
ロクな写真がないので、とりあえずこんなものを貼り付けてみる。

私にとって最初のバイク、YAMAHA MR50 マスカットグリーンというハデな色のこのバイクを、友人から45000円で購入。今は亡き父親からクラッチワークを教わり、バイク乗りへの一歩を踏み出した。

きっかけは友人がもってきたHONDA MB5のカタログ。これが原付かと思わせるデザインと存在感だった。それまでバイクといえば、ゲルコートののっぺりしたフェアリングに、数字がかかれている味気ないレーサーの写真くらいしか知らず、それまで幼少の頃からずっと車にしか興味はなかった。それがこのカタログをきっかけに、高校1年の夏にいきなりバイクに目覚めるのであった。

当然新車なんか買える訳なく、友人が新車で購入したこのMR50を、私が譲り受ける事になり、一生懸命バイトした。ヘルメットも買うお金も当然なかったし、当時はノーヘルでもよかった事から、いきなりサングラスとスニーカーで恥ずかしながら乗り始める。そして、当然そのしっぺ返しを受ける事になる。

このバイクは道玄坂の中腹でコケたり、大垂水峠や房総半島の峠道、林道で何度もコカした。リアウィンカーがその度にはずれたり割れたり折れたりし、上野のパーツショップで何度追加購入したかわからないほどであった。しかし初めてのツーリングや林道走行を経験させてくれた大事な相棒だった。

房総半島の養老林道や嶺岡連絡林道、ヤビツ峠、犬越路など、東京近郊の林道を走りまわった。グリップしないキャラメルタイヤや、スカスカのフロントサスやリアサス、土砂降りでリークしたキルスイッチなど、色々問題はあったが、バイクらしいデザインは私とわくわくさせてくれた。

これに乗っていた期間は1年程度だったが、私のバイクライフがはじまるきっかけになった、記念すべきバイクである。その後知り合いに売られたあと、盗難にあい、偶然にも数年後私がその盗難にあった車両を見つけるというエピソードのあった、縁の深い車両である。

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