2008年04月27日

定例デイキャンプ

GW2日目、都内某所で和琴と開陽台で青春を謳歌した40代が集まり、デイキャンプを楽しんだ。本来なら、どこぞの砂浜や河口で流木を焚火にして1晩以上をテントをベースに過ごすのだが、子供が生まれたり仕事の関係で、なかなか時間が取れないという理由を持つメンバーが増えてしまった今、休日にデイキャンプというのがやっとというのが本音だろうか。

とはいえ、朝から晩までそれぞれが適当な料理をして、子供や犬を遊ばせながら、下らない話をする会は、大事なイベントでもある。年に1度ここでしか遇わないようなメンバーも増えてしまった。ネットがある今はあまり実感がないが、しばらく見ぬうちに太ったもの、痩せたもの、白髪が増えたものなど、変化としては歳相応のものを感じる機会でもある。

私は朝、ゆっくり起きてローストビーフをダッチオーブンで作り、由は前日に北海道物産店で買ってきたスイートポテトを切って用意したりしたあと、家を出た。

丁度今、15年近く乗ったプジョーのマウンテンバイクがあまりもガタが来ており、代替機種を探していた事もあって、新宿のY'Sに寄ってみた。しかしこれというものが見つからず。そのあと公園へ向かった。

公園へはお昼に到着。店をひろげている場所へ行くと、妙に混雑している。朝9時台にじんじんさん一家が場所取りをしてくれたのだが、そのあと次々と集団が近くに陣取り、そこまで接近しなくていいだろうというような所まで広がって大騒ぎをしている。

挨拶もほどほどに椅子とテーブルを出して料理をふるまう。逆に焼いたものをおっとさんや兄貴から頂く。腹が減っていたのでまずは腹ごしらえ。

くーは天敵のまっちゃんに遭遇。可哀相な位、しっぽを巻いてしまう。あまりいじめないでくれといいつつも、まっちゃんは犬が大好きなので、何とか仲直りしてほしい。くーとまっちゃんが出会った時に脅かされてからというものの、まっちゃんをみかけるとすぐに反応し、失禁したりするほどなのだ。

今回は遊んで貰って少しだけ関係回復。大先輩のまっちゃんの所のチャボも16歳で高齢だが今回は元気に参加してくれた。チャボの歴史は和琴ミーティングの歴史でもある。

知らないうちに増えたと感じるのは、やはり子供たち。一人っ子が少ないのもその理由だろうか。ガキンチョが大人や犬の人数を大幅に上回る集まりになってしまった。周りからみれば単なる家族連れなのだが、この場にいない仲間の一人が、今親子で冒険をしていたりする。

豊田剛 夢は自転車で五大陸制覇!

彼らの愛犬、チャリだけが、このデイキャンプに参加している。旅の間だけ預かったのだ。

かたや仕事が休めなくて参加できない者、遠くて来れなかった者などもいる。私達のルーツは、1986年前後の道東から続いているのだ。

写真は大先輩のチャボと。彼は和琴ミーティングの歴史ともに歩んでいる。

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2007年08月06日

友人の決断

友人がラーメン屋を開いた。早速客として顔を出してきた。

元々キャンプでも料理はうまかったし、とある分野ではまめな男なので、きっとうまくやるだろうと思っていたのだが、実際に食べてみてその味にはなかなかのものを感じた。

色々なラーメン屋があって、バラエティに富んだ味つけが楽しめる時代になったと思う。昔は醤油と塩と味噌くらいしかなかっただろう。その中では新宿西口にあった銭形という札幌ラーメン屋が大好きで、小学校時代は親とよく食べに行った。それ以外はあまり感動的においしいラーメンというのはあまりない。

北海道では蘭越という町にあった蘭越ラーメンを日本縦断の時に食べた。それは私の中でそれまで日本一だと感じたのだが、もう20年以上前の話なので、当時はおばあさんが頑張って経営していた事もあり、きっと今ではあの味はないだろうと思う。他にはこれも店は閉めてしまったのだが、浦河という町の望洋堂という中華料理屋のラーメンは秀逸だった。この2つは私の人生の中でダントツの位置にある。

その後実家に住んでいた頃に友人と有名だという事で食べたえぞ菊の味噌ラーメンは嫌いじゃなかった。札幌ラーメンというジャンルでは、正当なのだろうか。実際の札幌市内でラーメンを食べたのは20年以上前の事なのだが、残念ながら印象には残らなかった。きっと今ではおいしい店も増えているだろう。

地元では豚骨系の手が込んだラーメン屋が多数進出してきて、今ではそれなりにおいしいラーメンが気軽に食べれるようになった。これは嬉しい事だが、流石に食べる頻度は月に1度くらいにしないと体に悪そうだ。

そんな中で友人が開いたラーメン屋というのは、お世辞にもひいき目で見るものなのだが、これまで食べてきたラーメンの中でも、なかなかいい味が出ていると思う。仕込みの手間というのは大変だと思う。そんな友人のラーメン屋が大成しなくても、地道にでも自分のやりたかったラーメン屋を軌道にのせていって欲しい。私がどんな手伝いができるかわからないが、少しでも力になりたいと思っている。

がんばれ、ラーメン屋!

写真はその友人が一国一城の主として汗を流しながら働く姿。

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2007年06月05日

ベトナムと香港からの手紙

親しい友人から、結婚後はじめての海外旅行先から絵はがきが届いた。

彼はバイク乗りでツーリスト。しかし最近はバイクでツーリングは殆どしていないと思う。私なんかよりも根っからのバイク乗りであり、ツーリストである彼は、仕事のしすぎから色々なストレスで悩むようになって、随分たつ。

私の旅にも彼はよく出演する。それは八重山であったり、北海道であったり。そう、私の結婚式の夏も丘に来て、手伝ってくれた。

同じ系列会社でもあり、社内での連絡網も使える間柄なので、交流する事も多かったが、ここ1年程とうとう結婚を前提に考える事ができる相手が現れて、新しい生活への準備に時間をかけていた。その間は私とも今までにない程、連絡を取らなくなってしまったのだ。

まあ私もそこそこやる事があるし、私自身もここ数年体調を崩す事もあって、いつもの私の調子で慌てなくても親しい友人とは必ずまた会う事はできるし、遊ぶ事もできると思っていたので、放置していたというのも本音だ。

その彼がある程度落ち着きを取り戻した証拠ともなるのが、この旅先からの絵はがきでもあると思っている。

彼は絵はがきが好きで、旅先からせっせと我が家にもも出してくれる。カンボジア、タイ、ネパール、インドなど、一人でバックパックの旅をしながら、異国のゲストハウスの中や、カフェで書いたものを送ってくれる。

結婚や病気は人生の中で大きな帰路とも言える。これを超えて、信頼し合える友人は本当の友人かもしれない。私もそうだが、やはり自分のスタイルというか、ポリシーは大事であって、それらはその人のアイデンティティにも繋がるものだと思う。

それを見失う事も時にはあるだろう。でもそれは簡単に手放す事はできないはず。どんなに大変な壁を超えてきたとしても、旅人が再会するように、やあという一言で済む関係でいつまでもいたい。

写真はその彼からのベトナムからの絵はがきと、香港出張に行っていた別の友人からの絵はがき。最近は海外からの絵はがきが来る数が減ってしまったが、電子メールと違ってなかなかいいものだ。

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2006年10月14日

高校時代の友人とのオフ会

いわゆる同窓会みたいないものか。高校時代の音楽系のクラブ仲間が、年に1度集まって飲む会をやっている。しかし私は殆どといっていい程参加していない。

今回も明日が試験という事で不参加を伝えたのだが、体調がそれどころではなくなってしまった。今回は私たちの1学年下の後輩にも声をかけたらしい。ネット時代なのか、専用の掲示板もでき、事前準備から盛り上がっていたようだ。

高校時代はバイクとクラブに没頭していた。私はトロンボーンを担当していたが、ギターも好きでなぜか裏でRCサクセションやロック系のバンドにも参加したりしていた。

高校のクラブはお固く、しかし私たちの代は結構アバウトだった。今やそのクラブはもっと規律が厳しくなり、コンクールなどでも入賞したりする位になったようだが、私たちはそんな賞よりも楽しむ事が一番だったようで、その感覚はひとつ上の先輩達には多いにひっかかったようだった。

学校での先生とかは、あとから思うと結構懐かしいとか、また会いたいと思えるのだが、私の場合は小学校から高校まで、ロクな教師に会った事はなかった。今思っても酷い教員ばかりで、よい教員とは私は接する機会が少なかった。担任以外、私がかかわらない所によい先生は居たのだが、運がなかったのだと自分で思いきかせている。

そんな中でも高校のクラブは3年間続けられた思い出深い時間だった。

彼らとの話もあたあらためて。きっと思いっきり騒いできているだろう。

写真は高校時代、伊豆にツーリングに行ったときのもの。時代を感じるメガネフレームやファッションだったりする。高校時代の写真は殆どスキャンしていないままなのだ。

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2006年06月28日

結婚とは何だろう

別に結婚に疑問を感じている訳ではない。丁度、今親しい友人が結婚という人生の中で大きい区切りに対して、色々な障害や課題など乗り越えなければならない事が多く、悩んでいる。自分の気持ちがうまく伝わらない事にもどかしさを感じるのではないだろうか。でも、それは当然だろう。

ただ単に結婚がしたい、という人も世の中には居るだろう。それまで赤の他人だった男と女が、突然ある日を境に夫婦となり、家族となり、それからの人生を一緒に過ごす訳だから、うまくいかない事だってある。たまには行き違いや誤解だってある。妙に気が合う時もある。

反面、結婚しない人も増えてきている。事実職場には多くの独身で私より年上で、また現在つきあっている異性がいない人も少なくない。職業柄というのを昔は感じていたが、そうでもないらしい。世間一般そういう人が増えているのは事実なようだ。面倒臭い、と彼らはよく言う。

私も20代の頃、結婚を意識して焦っていた頃があった。相手をずっと探していたのだが、うまくいかなかった事の方が多かった。とりあえず実家を出て、自分の力で生きようと思い、1LDKのマンションに引っ越した。当然独身ならなんとか生活できるが、家族が増えた場合は拡張性はまったくない間取りなのにもかかわらず、後先考えずに行動を起こしたのだった。

その頃、パートナーを探す事を半ば諦めた31歳の冬、突然何だかわからないうちに話が進み、翌年結婚式を挙げた。それも開陽台で。多くの旅で知り合った友人たちがそうしたように、式場も披露宴会場も神主も神父も呼ばず、自分たちだけで。あくまでもそれまでの自分たちのスタイルを貫くべく、2台のバイクにできる限りの荷物を積んで、丘に上がった。

結婚式は正直な所、なんだってよいと思っている。私の実の兄は大々的に結婚式を挙げたのだが、結果的には別れてしまった。それはそういう運命だったのかもしれいないが、私は何のための結婚式かという事を常々思ってしまう。そういう反動からも、式なんかどんな形でもいいと思っていた。

そして実際には、自分たちが思うよりも友人たちが頑張ってくれて、本物の牧師さんが現れたり、すばらしくおいしい本格的な料理を用意してくれたり、あの天気が安定しない丘で、式を挟んで前後の4日間はこれまでにない位の晴天に恵まれた。全ての面で、これ以上もない出来だったと今でも思う。お互いの両親も親類縁者に何度も何度も、この日の事を話していた程、印象に残る式になってくれたようだった。

実際には準備や料理の材料、牧師さんへのお礼や細かい部分でお金はかかったにしても、実際はほとんどが各自が労を惜しまずに協力してくれたからだ。これも旅の中で知り合った友人が居たからこそ。心から感謝している。

その式の日、タープが3つ並んだだけで、特に普段の開陽台と変わらなかった。夜も迷惑にならない奥の方で宴を行ったが、いつものキャンプの夜と変わらない。事実、その日に居合わせた旅人からも、そんな事が起こっていたとは気づかなかったと何人にも言われた。これは、私たちが目指した形だった。いつもの開陽台で、式の「ようなもの」をとりおこなう事が、自然だったからだ。余計なものは何も要らない。いつもの景色と空と旅人が居ればよいのだから。

このような式を挙げた私たちは、特に大きな喧嘩もせずに、そろそろ9年目を迎える。式よりももっと大事なものがあると、偉そうに言えるものではないが、私は自分の経験から思う。

男と女、それも赤の他人が一緒になる訳だから、それは色々問題もあるだろう。自分ではない人と一緒に過ごす訳だから。だからこそ、結婚する以前に、人として一緒に暮らす訳だから、お互いを認め、敬い、そして補うという、結婚式のきまり文句を改めて見直す必要があると思う。

私は由を尊敬しているし、由は私を尊敬してくれていると思っている。どちらも欠けている部分もあるだろうし、それは別に人間であり、自分ではないのだからあって当然な訳だ。あともうひとつ重要な事は、話をお互いがしっかりする事。話をした上で、相手の意見も尊重し、自分の意見だけを貫き通さない事。色々な意見や考え方がこの世に存在する事を認める事が最低でも守られなければ、どんな相手とだって一緒に生活していく事が辛くなっていくだろう。

結婚式の形や、人それぞれの考え方、そしてこれから人生半分以上を一緒に過ごすパートナーを、お互い認めあう事が大事なのではないかと思う。

自分がそれを全て完全にできているかというと、そうは思わない。ただ、9年前と今の考えに、大きな差はない。差がないという事は、無理する事なく、今の生活をパートナーと共に過ごしている証拠になるのではないだろうか。

そしてそのパートナーに、くーも加わり、くーがいる事でそれまで以上に、お互い一歩踏み込んで暮らしていけるのではないかと思ったりもする。

私はこれからパートナーとの生活が始まる友人に、幸せになってほしい。そして、これまでどおり変わらず、今度は夫婦揃って一家で一緒に旅をしたり、遊んだりしたい。そう願うのだった。

写真は私たちの結婚式の日の朝に撮った、丘の写真。ざっと見回してほとんどが関係者だった。ソロパッカーの人々は、それぞれ自分の夜と楽しんでいた。

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2006年04月21日

ビジネスランチ

というと聞こえはいいが、旅の友人、きりんちゃんが国際展示場に遊びに来るらしいく、昼でもどうだというメールが仕事中に入ってきた。

少々考えたが、色々な予定を変更して午後を外出に変え、お昼すぎに国際展示場の改札を出た先で待ち合わせた。ほぼ時間通りに小走りで現れた。午前中に展示会をざっと見てきたという。妙に疲れたと言っていた。

相変わらずお洒落な格好で現れたきりんちゃん。職業は工業デザイナーだ。これまでも一緒に副業をやった事が何度かあり、口数が少なく大人しいきりんちゃんだが、アウトプットはさすがと思わせるものばかり。プロの仕事というのはこういうものかと感じさせてくれた。

知り合ったあと、随分たってから、彼とパートナーを組んで仕事を数件した。ウェブデザインとサイト構築の仕事なのだが、それまで単なる友人という関係から、尊敬できる存在になった。現に彼は子供二人のパパであり、色々と私よりも責任のある立場に立たされている訳で、ふとした時にその差を感じるのかもしれない。

とあるビルの中にあるそば屋で食事をし、二人でりんかい線の駅までゆっくりと歩きながら、たわいもない事を話した。彼とはひとむかし、10年ちょっと前に出会い、何度か旅先で一緒に過ごしてきた。その呼び名も、石垣島は米原キャンプ場で呼ばれていた名だったが、なぜかずっとその呼び名で呼んでいる。私が親しい友人たちに呼ばれる呼び名のとおり、旅の中で呼ばれてきた名前だ。

ふと思い返して、きりんちゃんは何の話をしたかったのだろうかと思ってしまった。また話したい事を話せないまま時間がすぎてしまったのではないかと心配になってしまった。

来月中旬以降に、またキャンパー仲間で毎年やっているデイキャンプをやろうかという話をして別れた。子供もできたり、なかなかまとまった休みが取れなくなってしまったので、春先によく、多摩川の河川敷やデイキャンプができる公園で集まり、たわいもない話を日が暮れるまでして過ごすのだ。昨年はくーが骨折していた為、結局私も不参加だったのだが、今年はまたいい年をした連中が、真っ昼間からシングルバーナーのガソリンストーブやシェラカップを並べて過ごす時間はいいものだ。

写真はきりんちゃんとはじめてあった年。新潟のフェリーターミナルで出会い、すっかり航行中に親しくなり、小樽港に上陸。そこでどこかで会おうと別れた時のもの。彼の荷物の上には、出会った旅人たちが一言書き込んだ工事用のヘルメットが積まれていた。

そして、彼はこの時無職だったのだが、しっかり婚約者は居たのだった。

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2006年04月05日

子供には旅をさせたい

友人の愛娘が小学校4年になるのだが、昨年に続いて一人で栃木の祖父母の所まで旅をさせた。

ここ最近は物騒な事件が多く、なかなか安心して娘を旅に出せないご時世になってしまったのだが、根っからの旅人の友人は娘に旅というとても自立が必要な方法によって、多くのことを学ばせようとしている。

始めてのお使い、なんていう題目で、テレビの番組の材料も少なくないイベントなのだが、今、こうして娘を旅に出すという事ができる、勇気を持った親はどの位いるのだろうか。私は子供がいない立場なのだが、自分の娘同然の犬でさえ、ずっと目の届く所にしかおけない。ちょっと意味が違うかもしれないが、子供というのはそういう存在なのだろうと思う。

最近は自分の子供の面倒を見る事がおっくうになり、虐待したり駐車場に放置したりする親のニュースがテレビを賑わせているのだが、そうそう多いものではないと信じたい。しかし、ざっと見回しても、自分の子供の行為に対して責任を取れない親の姿ばかり目立ってしまうのも悲しい現実だ。

友人は私とおない年だか、私よりもこと家庭という視点からでは、私よりも多くの事を経験している。私がわからない世界も知っている訳で、こうして私がブログに取り上げるようなテーマではないのかもしれない。だが、その子は私にとっても特殊な立場であり、他の子供よりも気にかかる存在でもあるのだ。

ただ純粋に、危険な誘いが溢れる今、我が娘を旅に出す勇気は、私でも素晴らしい事だと思う。日本はどんな海外よりも治安はよいはずなのだが、それでも危険は少なくはないし、色々な出来事の中で、臨機黄変に判断し、考え、行動しなければならないという一人旅で得られるものの大きさを知っている親ならではだろう。

旅先の出会いにしても、昔も今も知らない人についていってはいけない、とずっと教えられてきている子にとっては、どういう判断で出会った人と接する事ができるのかという部分が心配でたまらないだろう。そこを乗り越えて人を見る目やその判断レベルを少しづつ広げられれば、理想的なのだが…

くーも相手が浮浪者だろうがヤクザものだろうが、直感でこの人は私を可愛がってくれる、と判断した途端、すっとんで尻尾を振ってまっしぐらだ。先日人気番組の「トリビアの泉」で雑種は泥棒がやってきた時に番犬の役割を果たすだろうかという企画をやっていた。大方のコーギー飼いの方は、あれを見て苦笑した事だろう。殆どのコーギーは人好きであり、また肉なぞを出された時には、戦闘意欲なぞ沸いてくる訳もないという事を知っているからだ。

親は子を育てる事というのは、大変な事だと思う。子供がいつ、どういう風にその親や社会と接する事を理解していくのか、個体差はあれど一人前になるまでは何かと心配の種はつきない。犬の場合は短いが一生、その世話をしなければならない。そんな中で、いかに安全に家族で笑って暮らしていくかという目標は、永遠の親そして飼い主が目指す課題なのだろうと思う。

写真はその子がオンネトーのほとりで遊んでいる姿。春に北海道に行ったときのもの。この親子とは春の石垣島、春・夏・冬の北海道などに一緒に旅をした仲だ。

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2005年11月25日

小春日和

冷え込みも一息といった所で、ここ数日は小春日和と言える陽気で少しほっとする。

友人の子供に小春という名前の子がいる。小春と私や由にとっては、色々複雑な経緯があるのだが、一番親しみ深い子供とも言える。親戚とかそういうのは除いて、と言っても、親戚の子はまったく興味がなく、逆に由側の親戚の子たちの方が接点が大きいのだが、それを含めても身近な子供としての小春の存在は大きい。

小春が生まれた日、私たちはその小さい体を見に病院にでかけた。その年末にネパールに行った時に、タメルの洋服屋でかわいいフェルトのジャケットを作って貰った。出産祝いはそれとは別に、普通にミキハウスか何かのリュックだったと思うが、実は既にあまり覚えていない。

タメルの埃っぽい路地を歩くと、ミシンがある洋服屋が結構多いのに目がいく。結局はみやげ物というか外国人向けの店が殆どなのだが、コピー文化の中で微妙にデザインや色あいが違ったりするのを見るのは楽しかった。私たちも刺繍が凝ったハーフコートのような上着を買ったのだが、なかなか着る機会がなかったりして、タンスの中に眠っている。

小春は今は小学校3年。早いもので、今年からカブスカウトに入り、友人である父親も何でだか副隊長に任命されて、たまにでかけているようだ。私は小春を通じて、父親という存在が何か不思議な力を持っているが如く、我が娘の事をよく判ってやっているんだなという事を知った。うわべだけではわからない、何でそういう言動をするのかという部分は、感心させられた。

くーについてもそうだ。くーがする事はわからない事も少なくない。だが、よく考えるとそうだったのかと分かって来る。そういう行動が段々と多くなってきているように感じた。血は繋がっていなくても、これが親子なのかなと思わせられた。それもこれも、小春とその父親である友人が、そのキーをくれたような気がする。

今週の月曜日、小春の誕生日がまたやってきた。おおらかだが苦労もしている小春は、小学校3年生で日本の有人域4端を踏破している旅人だったりする。きっともう少しすれば、父親の言う事なんかもきかなくなってくるんだろう。それもまたあとからみれば懐かしい思い出になるのだろうが、父親は大変だ。

くーはその点、反抗期はない…と思う。

写真はその親子。結氷している屈斜路湖を散歩中。年を重ねても、こうやって家族で旅をしたり、つきあって行ける友人はやっぱり大切な存在なのだ。

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2005年10月23日

和琴ミーティング

新しく使ったキャンプ地だが、私の好みのサイトだった。夜に到着したので、全貌は朝になってからでないとわからないのだが、ほぼ貸し切り状態で、年に1度顔をあわせる友人が何人も居て、ほっとさせられる。

しかし前日朝4時起きで運動をしていた私は、へとへとだった。大会でクラス優勝した事を言っても、あまりピンと来ないだろう。でもいいのだ、皆それぞれの人生を楽しんでいるのだから。

みんな出会った頃は独身で、旅人という事以外、何ものでもなかった。それが知り合いになり、友人になり、旅から離れても年に1度は星空の下で焚き火を囲んで歌おう、という集まりなのだが、今では結婚もし、子連れも増え、独身は少なくなった。でも旅人だった時の精神は、消える事なく皆それぞれの形で宿っている。

北海道や北軽井沢で張ったモスをまた広げ、寝床を作ったのだが、サイトは石が多く、テントが痛みそうな感じだった。マットやら毛布を敷いて寝たのだが、ここで今度張る時はブルーシートをテントと地面の間に敷いた方がよさそうだった。ちょっと疲れていたので休憩とシュラフの中に入った途端、焚き火が始まりギターの音が聞こえてはいたが、眠りに落ちてしまった。夜になって帰ったじんじんさんを見送る事ができなくて残念だった。

夜中、くーが外に出たがっていたので付き合った位で、結局朝まで寝てしまった。ディスク大会の関係で右腕全体がだるく、痛いせいで、夜中何度も寝返りをうっていたようだった。夜、テントのナイロンに月がぼんやりと浮かんでいた。

7時に目がさめ、陽が前室に差し込んでいるのがわかった。空は快晴。林の中のサイトなのだが、日が当たる場所を探して椅子とテーブルを出して朝食。それぞれの友人も起きて、コーヒーを入れたりパンを焼いたりしつつ、それぞれの朝を過ごす。私たちも紅茶を沸かしてパンをかじった。

サイト周辺を散歩がてら散策。川があっておりられるようなので、くーに水遊びをさせる。放射冷却で冷え込んだ朝だったが、くーは元気だった。

三々五々、友人たちが撤収をしてまた来年と去って行った。皆また生活の為に仕事をし、遊ぶ為にお金を貯める為に頑張るのだろう。私もその一人だ。

旅で知り合った友人は、こうして幼なじみや親友と言われる友人たちよりも、長く細く付き合っている。そして自分が嫌だと思う事は同じように嫌だと思い、自分がしたいと思うような事は、やはり同じようにしてみたいと思うように、まったく違う人生なのに、自然に交差する。それが幸せを感じるひとときだ。

年々そのひとときが短くなっていくのだが、でもやっぱり大事な集まり。それが和琴ミーティングだ。

こうしている中にも、友人が4人は今、出会った道東は弟子屈・中標津周辺に向かっている。みんな、同じビートを刻んで生きている。

また来年、みんなテントを持って焚き火のそばに集まるだろう。今年もそのミーティングは無事終わった。

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2005年07月20日

海の日はロプノールの如く

海の日は7月20日だと決まっていると思っていたが、いつの間にか7月の第3月曜になってしまっていた。なので今年は18日となり、既に終了しているのだが、私の中では今日が海の日だ。

実は7月20日は私と由の結婚記念日。既に8年経った頃になる。何だかあっという間だった。あれからそんなに時間が経ったのかと思う程、自分の中で何かが変わった訳ではない。仕事が嫌なのも変っていないし、バイクでツーリングもしている。違った所は、くーという家族が増え、少々中年太りと言ってもいいような運動不足体型になってきてしまっている。

この8年、色々な事があった。中でも、親しい人を2人も亡くしたのは悔いても悔やまれる。8年前の今日の写真やビデオには、みんな笑顔でその姿を見せてくれるのだが、時間というのはある意味冷酷に過ぎるもので、もう戻る事はできない。それをしっかりと認めた上で、それぞれはそれぞれの歳月を重ねる。

逆にこの8年で由とも小さい喧嘩程度はしたが、仲良く暮らしている。子供はいないが、くーというおてんば娘が今日も世話を焼かせる。しかし、それ以上に私たちに笑顔をくれるのは確かなようだし、くーが来る前だって、ネパールやタイ、雲南や台湾などの海外から、八重山や北海道など、各地も旅してきた。あっという間に過ぎてしまったように思える。

私たちは8年前の海の日、北海道の某丘の上で結婚式の真似事をした。お世話になっている現地の母がわりの女性や、その旦那さん、娘さんがバックアップしてくれて、本物の牧師さんまで登場。新聞社の取材や、町の観光課がパンフレットに使いたいと送り込んできたカメラマンもやってきた。集まってくれた旅仲間の為に、顔写真が勝手に使われないように、はっきりとわからない写真を撮ってくれと頼んだ所、そのカメラマンが約束を守ってくれた。しかし、新聞の地方紙一面には、すっかり私たちの顔がわかるような写真が掲載されてしまったのだが…

私たちが挙式した丘では、これまで私の知っている限りでは2組、先輩がいる。どちらも今でも親しくさせて貰っている旅仲間だ。同じく近くの湖畔の旅仲間も3組、結婚式をあげた。普通の結婚式場で挙げた友人も居たが、圧倒的に野外で友人たちだけでの挙式が多いのが、私の友人達がどういう人種なのかちょっとわかる点だろう。

海の日の2日前に丘にあがり、1週間程丘で過ごした。お互いの両親を呼び、一緒に飛行機を使う友人のエアチケットの予約を一括で取ったり、ホテルをリザーブしたり、式の披露宴と翌日のお昼の食事をシェフに頼んで本格的な料理を作って貰ったりはしたのだが、式については適当に近いの言葉みたいなものを丘にある鐘の下で言って、あとは宴会に突入というカンジで極めて大雑把に考えていたのだった。

しかし私たちが知らぬ間に、牧師さんは呼ばれるは、式次第はできあがるは、進行や司会まで決まっていて、私たちは言われるままに動き、お礼を言いまくっていたのを思い出す事ができる。総勢45人の友人が、この時期としてはありえない暑さの丘の上に、集まってくれた事を感謝した。私たちのいい加減な呼びかけに集まってくれた仲間は、あの夏の日、頭のてっぺんを虫にさされながら、確かに一緒に丘の上に居たのだ。

この夏、新しく増えた家族を連れて、丘にあがる予定だ。時代は変わり、旅人の世代も交代したのかもしれない。しかし、自分がこだわった旅の先に、ひとつの証として、1997年7月20日があった。それが海の日だ。

そのいい加減な二人がみんなに出した、日付と場所だけしか書いていない招待状。流石にぼかしを入れるが、こんな葉書がいきなり届いた友人達へ。あの丘の上の暑い日、お騒がせして申し訳ない。8年が経ったが、あんまり人間変っていないようだよ。これからも青空や星空のしたで、下らない話をしよう。

海の日の日付は変わっても、我々の中では海の日は確かにあり、彷徨うロプノール湖のようにしっかりとした痕跡が今も消えないで残っているのだから。

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2005年06月06日

札幌で夢を掴む

アスパラを毎年送ってくれる人は、ベテランのバイク乗りだ。知り合ったのは、アウトライダー・パティオというネットワーク上のバイク乗りのコミュニティ。雑誌、アウトライダーの読者であって、自分でネットワークに繋ぐ事ができ、マナーが守れるという参加条件がつくが、基本的に人付き合いができるなら、誰でも参加できると言ってもいい。

当然ネットの中なので、どんな人なのかは文字だけでしか判断つかない。容姿はオフライン・ミーティングという集まりで実際に会うまでわからないし、基本的に本名もハンドルと呼ばれているネットワーク上のあだ名で呼び合う事から、知らない事すら珍しくない。

要はその人は文章のみで人柄を判断し、共通の話題から会話をしていく事で、少しづつ相手を理解していく事になる。いわゆる文通に近い世界だが、基本的な人との出会いという意味では、少々変わった接点だった。今ではインターネットも普及し、映画とかにもなった程だから珍しくもないのだろう。

自分の世代より一回り上だったり、一回り下だったりするのが、ネットでの知り合いの常であり、面白い部分だ。そのアスパラの送り主はKATSUさんと呼ばれていた。私より一回り上の世代の人だった。正直言って、その位の世代の方と多く知り合いになる事ができたのだが、普通では職業も世代による世界も大きく違う事から、友人なんていうには失礼となってしまう関係になるはずだ。しかし、アウトライダー・パティオでは先輩・後輩ではなく、友人というのが一番近いと思っている。

個性的な人が多い中、人一倍落ち着いているKATSUさんとは、あまりオフでも長話をするような関係ではなかった。丁度主催者だった須藤カメラマンとほぼ同じ世代だった事もあって、同じ世代よりも少し敬語を使うような存在の一人なのは確かだった。

バイクもツアラーが似合い、その中でも赤いBMWが似合っていた。そのバイクで、青森から鹿児島までを高速道路を乗り継ぎ、とんでもない距離を一気に走るという「青鹿」というイベントメンバーの一人であり、完走者の一人でもある。このイベントはアウトライダー・パティオメンバー有志の中で実行に移された。それを実行する程パワフルなスピリットの持ち主なのだ。

そのKATSUさんが、昨年起業された。札幌で長年の夢だった仕事をはじめられたのだが、その実践力と秘めたる志は私は感服するばかりだった。いつか田舎に移住するとか、これからの人生どのような仕事を自分が求めていて、かつ自分にあう方向なのかなど、おぼろげに考えているだけで口だけな自分がいる。それを実践した先輩として、尊敬の眼差しを向けるばかりだ。

自分は何を目指すべきなのか、何を今すべきなのかをあらためて考えるきっかけを沢山与えてくれた。そんな偉大な先輩バイク乗りとして、これからも敬意を込めて「友人」と呼ばさせて頂きたいと思っている。

一昨年の夏、美瑛で落ち合って撮った写真。今はCB1300SFになっているが、私としてはこのバイクが「らしい」と思っている。地元滝川に住まれているお父さんを大事にされ、北海道に腰を降ろし、これからもいきいきとした笑顔がヘルメットを取った時に見せてくれると思っている。

昨年はバイクで豊富から宗谷丘陵、能取・弟子屈経由で、札幌の事務所兼自宅までほぼ同行。1泊させて頂いた。久しぶりの札幌は都会で、強制開閉キャブのはりつきのせいもあり、渋滞には少々まいってしまったが、新たな夢の始まりである部屋の夜は、遅くまでいろいろな話をして過ごした。今日もそこで、頑張っておられるだろう。

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2005年05月17日

その名は巨匠

いわゆる最初はメル友と言われる関係だったのだろうか。インターネットがまだ一般的ではなかった頃、商用ネットワークNifty-serve(現ISP、@nifty)のメールアドレスに私がメールしたのが最初だった。当時仕事柄nifty-serveのメールを使って仕事の連絡を行っていたり、アドレスを持っているバイク乗りの友人同士で、ホームパーティとよばれる小規模なパスワード保護された掲示板で日常会話をしていたので、思い切って誘ってみた事からお付きあいが始まった。

当時でもツーリング・フォトグラファーの第一人者として、その名を知らしめた巨匠とメールのやりとりをしているうちに、その後アウトライダーでもホームパーティを開く事となり、私も一参加者となった。

元々Nifty-serveにはバイク乗りの為のフォーラムもあり、多くのバイク乗りでパソコンやワープロから通信できる人々がいた。当然そんな中にもアウトライダーを読まれている人もいる訳で、最初はそういう人たちを始め、雑誌の中に小さくパソコン通信のコーナーができ、そこにこのホームパーティ開設の事を掲載されてからは、あらたにIDを取って参加してくる人が増えていったように思う。

しばらくして新しいパティオというサービスが始まった。要はフォーラムの会議室ひとつを月幾ばくかの料金で開設できるようになり、これまでのホームパーティよりも規模が大きくなり、多数の参加者がいても会話を追えるようになった。これを機会に、アウトライダー・パティオという名で活動を開始。巨匠一人ではボードリーダーとしての運営が厳しい為、サブシス制度を設ける事になった。

フォーラムでは開設者であり、オーナーである者がシスオペと言われており、その補佐の役割をサブシスオペと言った。規模が小さいパティオだが、多くの不特定多数の参加者を募る事から、ボランティア・スタッフをたてて運営し、何か問題があった時に対応ができるように考えた。フォーラムと同じ制度を、アウトライダー・パティオにも採用したという事だ。

そして公募する事となったのだが、しばらくして立候補の状況を確認した時に、誰も立候補者がいなければ私も協力するような事を書いた事までは憶えているが、その後私もサブシスとして参加するようになっていた。

アウトライダー・パティオは、現在も稼働している。今後システムを変えていく可能性もあるが、運営については常に巨匠と話あった上で、トライをしつつ有効であれば切り換えていくという流れが多い。時代がインターネットに流れていくにつれ、1996年に巨匠と共同でドメインを立ち上げ、バイクツーリストの為のポータルと、ウェブデザインを始めた。かっこよく言えば、ビジネス・パートナーと言える。

巨匠はすばらしい仕事をする。さりげなくしているのだが、実に的確で自分に厳しい。しっかりとアウトプットを出すのは、さすがプロである。ここ数年夏の北海道をついでだが一緒に移動し、撮影する姿を目の当たりにしてあらためてそう思った。

この写真はアウトライダー・パティオの参加者向けに開催された、ツーリング・フォト・ミーティングの1枚。私のNikon FM2を渡して撮って頂いた。1往復で2ショット。どちらも寸分違わずフレームのどまん中でトリミングの必要もない。シャッター速度や露出もミスはない。これがプロの力というものなのだという事を、たった2ショットで知らしめてくれたものだった。

操っている側は、普通に走っていただけ。あまり遅すぎても、速すぎてもいけないと言われ、普通に制限速度で走ったちょっとしたカーブだった。自分のライディングの写真を、プロに撮って貰うというおいしい企画だったので、大勢が参加したが、残念ながら2回目は実現していない。

この巨匠と友達のように話ができる運命に、感謝したい。また、何か仲間でやっていければと、我々のドメインを有効活用して、何かこれから夢の実現に向けて、取り組んでいければと思っている。

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その巨匠の新しい写真集、日本百名道-絶景を走る巨匠の作品が旅心を誘う逸品だ。

2005年05月05日

繊細かつダイナミックに

友人にもいろいろあって、学生時代の友人や、会社の友人、そしてバイク繋がりや旅繋がりの友人などがざっとあげられる。

中でもバイクや旅がきっかけで知り合った友人は、やはり同じ方向性を持っているためか、その関係も長続きしているし、お互いが触れたくない部分や共感できる部分を理解しあえているとでもいうのか、一緒に何かをしていても気持ちがよいものである。

中学から大学までの間の友人で、今もバイクに乗り続けているものは1~2人になってしまった。しかし、いい歳して今だにバイクに乗り続け、旅をしているのは、その後まったく別な環境に育ち、バイクや旅がきっかけで知り合った友人たちだ。

面白い事に、偶然にも同業者であったり、自分の父親まではいかないがまず普通の人生を送っていては交差するはずがないという年齢差のあるバイク乗りや旅人と、親しい関係になっていたりする。人生なんて、何がきっかけで交差するかはわからないものだ。その中で、きっと北海道へ向かう船で一番共にしている友人であり、今も我が家に一番訪れる友人の話をしようと思う。

最初は、某商用ネットワークの中にあった、バイク乗りのコミュニティ・フォーラムだった。今でこそインターネットで画像がないウェブサイトなんて殆どないと思うが、当時は文字だけのコミュニティだった。その事から相手の外見もわからないし、本名もどんな人生を送ってきたかもわからない。そんな人々が、とあるテーマにしたがって文字だけで会話をしていく。

今でこそ冷静に思えば、それまでまともに文章なんか書いていなかった自分が、雑談からレポートまで文章を書いていった。すると、自分に共感してくれたり、同じような話から自分も特定の人に対してコメントをつけたりするようになり、自分と合う相手が段々と明確になってくる。いわゆる文字だけの世界での友人の登場だった。

しばらくすると、オフライン・ミーティングといわれるイベントから、実際に会って話をしようじゃないかという話になる。そのオフに初めて参加する日よりちょっと前に、とあるヘルメット・ペインターの方の個展に私が行く事を書くと、彼も気が向いたら行くかもという話になった。そして、その個展会場の前で、初めてネットで知り合った人と顔をあわせる事になった。

彼の名はランチョン。当時は別の呼び名(ネット上の名前の事をハンドルと言い、その呼び名で呼んでいた)だったのだが、彼は会場近くでハンターカブの傍らで立ってにこやかに笑いかけてくれた。

当時ゼファー1100に乗り、熱い走りを繰り広げていた根っからのツーリングライダーだった。実際に一緒に走った事はいつだったか憶えていないが、その走りは鮮烈だった。私自身がこの頃限定解除をし、少々ダイナミックなライティングをしていた頃だった事もあるのだが、彼はどう思っているか分からないが、私は自分の呼吸に合うと思える、初めてのバイク乗りだった。

どういう事かというと、当然公道なのだからお互い相当セーブしているのだが、渋滞している道や高速などで2台が失速する事なく、自分が譲ると相手が前に出、逆に相手が譲るタイミングが分かって自分がその時に前に出るようなかけひきが、気持ちよく決まるのだ。車種的に圧倒的なパワーの差がある場合が殆どだったが、その中でもランチョンがTDM850で、私がKLX650またはGPz900Rの時にそれを感じる事ができた。

それまで誰と走ってもギクシャクする部分は必ずあった。でも彼と走るとそういうストレスが殆どないのだ。不思議なもので、それはそれは幸せな気分になれるのである。バイクという乗り物は元々一人で乗るものである事から、その動きやタイミングはとても重要だ。場合によっては事故をも誘発する。イライラするようなタイミングの友人の方が少なくないのは乗り物の特性からくるものだろう。

彼はとてもナイーブで、また繊細だ。その分、リバウンドも大きい。まだ独身の彼に、そんな部分を理解してくれる異性が現れてくれる事を、友人として願うばかりだ。できる事なら結婚後も、長く付き合っていけるような相手が現れてくれないかと思ってみたりする。同性としてはこんなにイイ奴なんで女性は分かってやれないんだろう、と思ったりもするのだが、それは出会う運や相性の問題もあるんだろう。

確かに熱くなる時もあるが、裏を返せば彼の繊細さが出ているようなものだ。中身のある男として、彼を理解してやれば、きっとこのあとの人生、色々な楽しい事を経験させてくれる事だろうと思う。反面、ナイーブで壊れそうな部分は、フォローしてやれるような相手が望ましい。

バイクと旅は、彼にとって必要な要素であり、彼が彼らしくいられる条件かもしれない。いや、別にそれがなくても十二分に魅力はあるのだが、一度その要素を持った彼を見てしまうと、一番彼らしい一面を見る事ができるのだ。

これからもお互い乗り続けて、そして旅をしようじゃないか。

写真は実は一番彼に似合っていると思っていた、当時世界最速の市販車と言われていたZX-11に乗る姿。見た目は少々怖いかもしれない。

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2005年04月22日

その男、和琴のおっと

キャンパーの友人は、基本的には公の場に出るのを好まない。人前に顔をさらすなんて事は、苦手と言っていい。キャンパーにもいろいろあって、今もファミリーキャンパーのように家族がキャンプを楽しんでいる所をホームページや掲示板に載せたりする事も多いようだが、基本的に顔がよくわからない程度の写真までしか載せないのが私の親しくしている友人達に共通して言える事かもしれない。

いわゆる、シャイという奴なのだろうか。恥ずかしがり屋で、時にはナルシスト寄りでもあったりする。そんな旅人の友人をここで切ってみようと思う。というか、事前に切ってもよいと許可をえられた場合か、既に顔写真をパブリックな場に公開している者に限り、書いてみたいと思う。

まずは、和琴のおっと、という男についてだ。

和琴のおっとさんは、「和琴」にいた「おっと」さんだ。おっと、という名前については、初めてロングツーリングに行く時に、相棒と2人で行ったらしく、その時に片割れの名が残っているそうだ。北海道ではいろいろなキャンパーネームというあだ名がつけられ、それで呼ばれているという話を先達から聴いて、変な名前をつけられるなら自分たちでつけていこう、とヘルメットの後頭部に、「おっと」「どっこい」と自らで書いたというのが始まりらしい。

どこをどう走ったか知らないが、和琴に沈没。レストハウスでのバイトなどをしながら長期滞在する事になり、そこで計画通り「おっとさん」と呼ばれていた。世話焼きで、料理も整備も一通りなんでもこなし、大柄な体格からもその存在は目立っていたようだ。またマンガ好きであり、旺盛な好奇心から当時最先端だったパソコンを手にいれ、大量にある本のデータベースを作ろうとしていたらしく、その頃からITに興味があったようだ。

ある冬、ジムニーにスタッドレスを履かせ、厳冬期の北海道に幕営旅行に出た。彼は浜小清水で流氷を来るのを待ち、和琴や鶴居でテント生活をしていた。その帰りの近海郵船フェリーの中で、偶然私の開陽台での友人と出会った。その友人は今では道民になっているのだが、彼が私に絵はがきを船内で書いていてくれたらしい。それをおっとさんは見ていた。

おっとさんは帰宅し、北海道にでかける前に始めたパソコン通信で、アウトライダーの小さなコミュニティに参加した。いや、実際はアウトライダーではなく、須藤カメラマンが主催のコミュニティだったのだが、そこの名にアウトライダーが使われていた。

その場所は北海道を旅している間に開設され、既にいろいろなツーリストが書き込みをしていた。自己紹介や旅の話など殆どリアルタイムに、今の生の情報を交換できるリアルさに没頭していく。しかしふとその中の一人の文章に目がとまった。どうもその内容は、どこかで聴いた事があったからだ。

しばらく考えて思いついた。それはこの前フェリーの中で会った開陽台のキャンパーじゃないか。彼が書いていた絵はがきは、このアウトライダーのコミュニティに参加している奴の手に届いているという事か。それに気づいてから、その事に返信をつけるまではあっという間だった。

私は突然の関係者の登場に驚き、すぐに掲示板には簡単な挨拶だけとし、本人と直接のメールをやりとりした。お互いがきっと顔をあわせた事がないが、同じ匂いのする旅人で、同じ趣味を持っている奴なのかもしれないが、実際どんな人間なのかわからない。ネットの怖さで、オフラインという場で会うまでは顔もあわせたことがないにも関わらず、古くから知っている友人に感じてしまう事に、当時はまだお互い気づいていなかった。それまでの文章だけで、相手を理解し、想像し、イメージができあがっていく。不思議な世界に興味を持っていく。当然、これは商用ネットであり、まだインターネットもごく特殊な人が利用している程度のものだった。

実際に会ったのはいつだったか。今では古い友人であり、相手が何を気にして、何をしたがっているのか、言わなくてもわかる仲だ。生年月日も約4カ月しか違わない、同じ世代の男が、北海道の旅とバイクとネットで繋がったのだった。

面白いエピソードがある。

ひとつは、1994年のゴールデンウィーク。私は八重山諸島の石垣島にある、米原キャンプ場にテントを張り、1週間程幕営生活をしていた。その時5月3日からの3連休に、地元の人々がそれまで静かだったキャンプ場に大挙して押し寄せてきた。私はその時、第4炊事場にベースを張り、その周辺に居た旅人と交流をしていた。その中で際立って濃いキャンパーが居た。カイ君と呼ばれる、Z750GPに乗る旅人だった。

私が町からキャンプ場に戻ってきて、自分のテントのすぐ近くまでファミリーテントが貼られた現場を見て、「なんだこれは、まるでお盆の和琴じゃないか…」と口に出して呟いた。すると、そのカイ君が、「和琴かぁ。和琴のおっとなら知っているんだけどな。」と同じように呟いた。…その瞬間、私ははじけるように笑い転げてしまった。こんな南の地で名が出てくるとは…和琴のおっと、おそるべし、と心底思った出来事だった。

もうひとつは、アウトライダーのコミュニティで、私やおっとさんはそれなりにアクティティブメンバーであり、書き込みも多かった。その為、多くのメンバーの人に、我々の名を憶えて頂いていた。

ある夏、和琴にはおっとさんや私の共通の友人が多く滞在していた。カヌーのスタッフをやっていた年だった為、レストハウスに関係して働いている者は全員身内だったと言っていい。

あるおっとさんの名を知るものが、おっとさんがいない時期にレストハウスに行き、「和琴のおっとさんって居ますか?」とスタッフに聴いたらしい。するとその中の一人が、「知らねえよ、そんなデブ!」と答えたのだった。その答えた一人は親しい友人の一人なのだが、開陽台においてもそうだったが私達の名を口に出して、訪ねてくる旅人が1人や2人ではなかったらしく、正直面倒臭かったらしい。

どちらもおっとさんが多くの旅人に印象を深く与え、慕われていたのがわかるエピソードだ。

彼のサイトを見ればわかる通り、今ではしっかりパパしている。でもバイクには乗り続けような。そして旅は続けていこうな。お互い、ジジイになるまで-

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