2007年08月16日
遠野の夏
遠野の釜石の夏
小学生の頃まで、母親の実家にお盆になると帰省していた。東京生まれの東京育ちな私にとって、親父は大阪生まれらしいが東京が地元なので、帰省できる田舎は母親の田舎しかなかった。
母親は新日鉄が全盛期だった釜石の商店の娘に生まれ、経済的にも当時は恵まれていた。食べ物や洋服に苦しむ事なく、戦時中は仙台の女学校に居たという事だから、お金もあったのだろう。他にも兄弟姉妹がいるが、今でも皆健在という丈夫で長生きの家系だ。
父親も林業に関連して、母親と一緒になってからも生活水準は悪くなったようだ。ただ、勤めた家族経営の会社を若い頃に解雇され、自分で会社を立ち上げてたという事もあったので、挫折を味わってもいる。
仕事は今とは違って利益の割合も大きく、肉体労働ではあったが収入もしっかりしていたようだ。その分母親はお金に疎く、また長男を生まれてまもなく肺炎で亡くしてしまった事から、次男であり父親の職を次いだ兄は、甘やかされて育てられてきた。
反面私はそんなに手をかけて貰っていなかったようだ。まあ兄よりは手がかからなかったというのもあるらしい。起業した父親の会社が埼玉にあった関係で、母親は電話番兼経理をしており、小学生低学年の頃から鍵ッ子だった。同時に私は小学生にあがる頃から喘息が酷く、毎週金曜は病院に通っていた。
私は幼稚園の年長の時代から、小学生低学年の時代にかけて、毎夏親父の車や東北本線に乗って帰省した釜石の思い出が大きい。母親の姉が嫁いだ遠野の農家では、裏に小川が流れ、道から玄関までの道沿いに甘く熟れたトマトがなっていて、緑と空の青が濃い色彩と、蝉時雨が今でもしっかりと記憶に残っている。
虫が嫌いな私は、虫取りこそしなかったが、とにかく歩き回っていた。今でも何をしたという訳でもないその頃の事を思い出す事ができるのだ。
当然ゲームなんかもなく、マンガも殆どなかった。今の子供たちはそれに加えてテレビというものの記憶しかないのではないだろうか。
都会生活になると親も子育てが面倒なので、静かにしてくれるゲームやマンガを買い与えてしまうのも理解できる。夏休みとか冬休み位は、そんなものよりもインパクトのある日本を感じられる、地球を感じられる所に連れていき、自分で感じる事や自分で遊びを考えるような事をさせる機会を与える必要性を感じてしまう。
ロクな遊び方を知らない人間にさせない為に何をすべきか。それは今の親の世代の責任が何よりも大きいのではないだろうか。
写真は思い出深い遠野は早池峰山を望む、荒川高原。何もない広さは、子供心に恐ろしささえ感じたものだが。

- Permalink
- by
- at 21:43
- Comments (0)
- Trackbacks (0)
